「中村正雄 (陸軍中将)」の版間の差分
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歩兵第21[[旅団|旅団長]]として[[日中戦争]]に従軍。1939年11月、[[南寧作戦|南寧攻略作戦]]に参加。月末に南寧占領を果たしたが、[[国民革命軍|中華民国軍]]の攻撃を受け激戦となり戦死した([[崑崙関の戦い]])。死後、陸軍中将に特進した。 |
歩兵第21[[旅団|旅団長]]として[[日中戦争]]に従軍。1939年11月、[[南寧作戦|南寧攻略作戦]]に参加。月末に南寧占領を果たしたが、[[国民革命軍|中華民国軍]]の攻撃を受け激戦となり戦死した([[崑崙関の戦い]])。死後、陸軍中将に特進した。 |
2022年4月18日 (月) 13:13時点における版
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中村 正雄 | |
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生誕 |
1892年5月15日![]() |
死没 | 1939年12月25日(47歳没) |
所属組織 |
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軍歴 | 1913年 - 1939年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月15日 - 1939年(昭和14年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岳父は陸軍砲兵大佐 藤室松次郎(陸士旧8期)[1][注釈 1]。
経歴
石川県出身。中村三雄の息子として生まれる。金沢第一中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる。1920年11月、陸軍大学校(32期)を卒業。
参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス大使館付武官補佐官、陸大教官、参謀本部部員、歩兵第18連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、イタリア大使館付武官、参謀本部部員兼軍令部部員、第12師団参謀長、参謀本部通信課長などを歴任し、1939年3月、陸軍少将に進級。
歩兵第21旅団長として日中戦争に従軍。1939年11月、南寧攻略作戦に参加。月末に南寧占領を果たしたが、中華民国軍の攻撃を受け激戦となり戦死した(崑崙関の戦い)。死後、陸軍中将に特進した。
栄典
脚注
注釈
出典
- ^ 秦 2005, p. 113, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-中村正雄
- ^ “叙勲裁可書・明治四十二年・叙勲巻十一・外国勲章受領及佩用七 レファレンスコードA10112690300”. アジア歴史資料センター. 2018年8月23日閲覧。