「中地シゲヨ」の版間の差分
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1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる<ref name=":0">{{Cite web|title=県内最高齢、世界4位の115歳中地さん 笑顔の誕生日 家族、施設職員と祝う|まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/483835|website=佐賀新聞LiVE|accessdate=2020-02-06|language=ja}}</ref>。12歳で[[佐賀県立佐賀西高等学校|佐賀高等女学校]]に入学<ref name="佐賀新聞200201"/>。[[女学校]]時代に[[大隈重信]]から講義を受けた経験を持つ<ref name="サガ200112">{{Cite news|url=https://www.sagatv.co.jp/news/archives/2021011204697|title=佐賀県内最高齢・中地シゲヨさん死去|date=2021-01-12|accessdate=2021-01-14|newspaper=SAGATV|publisher=サガテレビ}}</ref>。卒業後、17歳から[[小学校教員]]として30年間勤務し<ref name=":0" />、戦後は資格を取得して62歳まで[[幼稚園]]教員として14年間働いた<ref name=":0"/><ref name=shiho>{{Cite press release|title=市報さが No.265 |url=https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2016/201609/p1att4ans31qp6vum476h9ipag4.pdf|format=PDF|date=2016-10-01|accessdate=2021-09-24|publisher=佐賀市}}</ref>。 |
1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる<ref name=":0">{{Cite web|title=県内最高齢、世界4位の115歳中地さん 笑顔の誕生日 家族、施設職員と祝う|まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/483835|website=佐賀新聞LiVE|accessdate=2020-02-06|language=ja}}</ref>。12歳で[[佐賀県立佐賀西高等学校|佐賀高等女学校]]に入学<ref name="佐賀新聞200201"/>。[[女学校]]時代に[[大隈重信]]から講義を受けた経験を持つ<ref name="サガ200112">{{Cite news|url=https://www.sagatv.co.jp/news/archives/2021011204697|title=佐賀県内最高齢・中地シゲヨさん死去|date=2021-01-12|accessdate=2021-01-14|newspaper=SAGATV|publisher=サガテレビ}}</ref>。卒業後、17歳から[[小学校教員]]として30年間勤務し<ref name=":0" />、戦後は資格を取得して62歳まで[[幼稚園]]教員として14年間働いた<ref name=":0"/><ref name=shiho>{{Cite press release|title=市報さが No.265 |url=https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2016/201609/p1att4ans31qp6vum476h9ipag4.pdf|format=PDF|date=2016-10-01|accessdate=2021-09-24|publisher=佐賀市}}</ref>。 |
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小学校教員の頃は厳しい指導がモットーで<ref name=a16/>、勉強が苦手な[[児童]]を毎日放課後居残りで指導したが、頑張ったご褒美に[[あんパン]]を食べさせた<ref name="shiho"/>。当時の教え子は「厳しくて、優しい先生だった」と述べている<ref name=s11/>。また、退職後も教え子達と連絡を取り合い<ref name="shiho"/>、80歳になった教え子から「あの時叱って下さってありがとうございました。」と連絡が来たり<ref name="shiho"/>、教え子や友人達と旅行へ行ったり<ref name=":0"/>したという。 |
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2022年5月1日 (日) 13:16時点における版
なかち シゲヨ 中地 シゲヨ | |
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生誕 |
1905年2月1日![]() |
死没 |
2021年1月11日(115歳没)![]() |
死因 | 肝不全 |
住居 |
![]() |
国籍 |
![]() |
民族 | 日本人 |
職業 |
小学校教員 幼稚園教員 |
著名な実績 | |
配偶者 | 五郎 |
中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1日 - 2021年〈令和3年〉1月11日)は、日本の教育者、長寿の女性。佐賀県佐賀市在住。存命中は田中カ子に次いで日本国内で2番目、世界全体で5番目の長寿者で、日本最後の1905年生まれの人物であった。また、長寿日本一になれなかった人物としては最も長く生きた人物である。
来歴
1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる[2]。12歳で佐賀高等女学校に入学[4]。女学校時代に大隈重信から講義を受けた経験を持つ[5]。卒業後、17歳から小学校教員として30年間勤務し[2]、戦後は資格を取得して62歳まで幼稚園教員として14年間働いた[2][3]。
小学校教員の頃は厳しい指導がモットーで[6]、勉強が苦手な児童を毎日放課後居残りで指導したが、頑張ったご褒美にあんパンを食べさせた[3]。当時の教え子は「厳しくて、優しい先生だった」と述べている[7]。また、退職後も教え子達と連絡を取り合い[3]、80歳になった教え子から「あの時叱って下さってありがとうございました。」と連絡が来たり[3]、教え子や友人達と旅行へ行ったり[2]したという。
私生活では、警察官の五郎と結婚し、五郎との間に1人の子を授かり[8]、死去するまでに孫2人、ひ孫4人、玄孫4人に恵まれた[5]。
若い頃には、華道や茶道にも打ち込んだという[9]。好きな食べ物は、饅頭[9]や焼き肉・唐揚げ[7]などであるが、特に好き嫌いはせずに何でも食べたという。
2011年9月1日に佐賀市長の秀島敏行(当時)が表敬訪問し、教員時代の教え子4人も集まって長寿を祝った。当時の記事によると、耳は遠いが視力はあり老眼鏡を使わずに新聞を読むことができた。また今は足も不自由だが、90歳の頃までは元気に歩くことができたという[7]。
2015年9月3日に市長が表敬訪問した際には、市内の老人ホーム「シルバーランド天祐」に入所しており、時々訪ねてくる教員時代の教え子と会うのが楽しみだと話していた[10]。
『週刊朝日』2016年4月1日号の記事では、「背筋が伸び、習字が得意」な元小学校教師のスーパーセンテナリアンとして取り上げられている。92歳の時に転倒して骨折したが、リハビリによって再び歩けるようになったこと、老眼鏡なしで新聞を読むことができ、今でも漢字の問題をすらすらと解けること、愚痴を言わない性格であることなどが紹介されている[6]。
2018年9月8日に市長が表敬訪問した際には、前年生まれの玄孫らとともに長寿を祝った。好き嫌いせずに何でも食べることが長寿の秘訣で、肉も野菜も大好きだと話していた[11]。
2019年9月8日に市長が表敬訪問し肥前名尾和紙による灯籠を贈呈した際には、耳は遠いが食事を3食とも完食するほど元気だとしている。また若いころから規則正しい生活を送っていたという[9]。
2021年1月11日0時5分、肝不全により死去[1]。115歳345日没。中地の死去に伴い、日本で2番目の長寿者は1906年12月17日生まれの福岡県大牟田市に在住する乙成ヨシとなった。
なお中地シゲヨのひ孫にあたる人物が、ジェロントロジー・リサーチ・グループの特派員として2020年5月から活動している。インターネット上で曾祖母を紹介したことがきっかけで、関係者から誘われたという[12]。
長寿記録
2011年時点で佐賀市内[13]、2017年9月時点で佐賀県内最高齢となっていた。
2019年9月時点で世界で4番目、日本国内で2番目の長寿者となった[14][注釈 1]。
2020年2月1日、115歳の誕生日に際したインタビューで長生きの秘訣について尋ねられた際に「運動だろうね」と答えた[4]。
2020年2月14日、115歳13日で長谷川チヨノの記録を更新し、佐賀県の歴代最高齢者となった。
脚注
注釈
- ^ その後、ブラジル在住のフランシスカ・セルサ・ドス・サントスの記録が認定され、5番目となった。
出典
- ^ a b 「【訃報】県内最高齢115歳 中地シゲヨさん死去」『佐賀新聞』佐賀新聞社、2021年1月12日。2021年1月12日閲覧。
- ^ a b c d e “県内最高齢、世界4位の115歳中地さん 笑顔の誕生日 家族、施設職員と祝う|まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE”. 佐賀新聞LiVE. 2020年2月6日閲覧。
- ^ a b c d e "市報さが No.265" (PDF) (Press release). 佐賀市. 1 October 2016. 2021年9月24日閲覧。
- ^ a b 「県内最高齢、世界4位の115歳中地さん 笑顔の誕生日」『佐賀新聞』佐賀新聞社、2020年2月1日。2021年1月12日閲覧。
- ^ a b “佐賀県内最高齢・中地シゲヨさん死去”. SAGATV (サガテレビ). (2021年1月12日) 2021年1月14日閲覧。
- ^ a b 「100歳超えても元気 800人超の調査で見えた“ミラクル百寿者”の長生きの条件」『週刊朝日』2016年4月1日号178頁。
- ^ a b c 「106歳元気です 佐賀市内最高齢・中地シゲヨさん」『佐賀新聞』2011年9月3日号14面。
- ^ “世界4番目の長寿に 県内最高齢の女性が115歳の誕生会【佐賀県】”. FNN.jpプライムオンライン (2020年2月1日). 2020年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月6日閲覧。
- ^ a b c 「県内最高齢、市長もお祝い 114歳・中地さん表敬訪問 「ご苦労に感謝」灯ろう贈る」『佐賀新聞』2019年9月8日号23面。
- ^ 「110歳中地さんを秀島市長お祝い 佐賀市内最高齢者」『佐賀新聞』2015年9月4日号18面。
- ^ 「県内最高齢113歳、中地さん 佐賀市長が表敬訪問 やしゃごら長寿祝う」『佐賀新聞』2018年9月8日号16面。
- ^ 「県内最高齢者ひ孫が調査 長寿のしくみ 国内で探る 会社員の山本さん=佐賀」『読売新聞』2020年7月5日付朝刊西部版23面。
- ^ “佐賀市 : 9月1日(木)の活動記録”. 佐賀市 (2011年9月1日). 2021年1月14日閲覧。
- ^ “県内最高齢、市長もお祝い 114歳の中地さん表敬訪問「ご苦労に感謝」灯ろう贈る|まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE”. 佐賀新聞LiVE. 2020年1月9日閲覧。