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'''臧 宮'''(ぞう きゅう、? - [[58年]])は、[[後漢]]の武将。[[字]]は'''君翁'''(くんおう)。[[潁川郡]]郟県([[河南省]][[郟県]])の人(『[[後漢書]]』列伝8・本伝)。[[光武帝]]の功臣であり、「[[雲台二十八将]]」の14位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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若くして県の亭長となり、後に賓客を率いて下江の兵の中に入り校尉となった。下江の兵は[[劉縯]]の説得により漢兵と連合し、臧宮は[[劉秀]]に従いて征戦した。河北に至ると、偏将軍と為った。劉秀に従いて、郡賊を破り、しばしば敵陣を落す功があった。 |
若くして県の亭長となり、後に賓客を率いて下江の兵の中に入り校尉となった。下江の兵は[[劉縯]]の説得により漢兵と連合し、臧宮は[[劉秀]]に従いて征戦した。河北に至ると、偏将軍と為った。劉秀に従いて、郡賊を破り、しばしば敵陣を落す功があった。 |
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建武3年([[27年]])、光武帝の[[鄧奉]]親征に従いて、突騎を率いて[[祭遵]]と共に、[[更始帝]]の将左防 |
建武3年([[27年]])、光武帝の[[鄧奉]]親征に従いて、突騎を率いて[[祭遵]]と共に、[[更始帝]]の将の左防・韋顔を涅陽・酈に破った。[[岑彭]]に従いて鄧奉を小長安に追った。光武帝は、岑彭をして[[傅俊]]・臧宮・[[劉宏]]らを率いさせ時の群雄の一人の[[秦豊 (漢)|秦豊]]を撃たせた。臧宮は、兵を率いて江夏を攻略し、代郷・鍾武・竹里を撃って皆な下した<ref>『後漢書』では江夏攻略を建武3年のことと記しているが、建武2年、明年、建武3年と記載されているので、建武4年の誤りと思われる。</ref>。輔威将軍を拝した。 |
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建武7年([[31年]])、臧宮は梁都・済陰を撃ちて平げた。 |
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建武11年([[35年]])春、[[公孫述]]討伐のため、臧宮は岑彭・[[大司馬]][[呉漢]]・[[劉隆]]・[[劉歆 (驍騎将軍)|劉歆]]([[劉植]]の従兄弟)と共に兵を発し、輸送のための船頭を徴発し、荊門に集結する。荊門は征南大将軍岑彭に任せられた故、臧宮も岑彭に従った。荊門を破り、垂鵲山に至り、遂には江州に至った。岑彭は巴郡を下し、降兵5万を臧宮に預け、平曲に上らせ、自らは電撃戦を敢行する。臧宮は平曲に守り、遂には公孫述の将の[[延岑]]を挫く<ref>降卒5万と、兵士は多く食料は少なく、裏切りが生じかねず、郡邑もその動静を窺っている状況で、偶々光武帝が岑彭に送った馬700匹があったのでこれを徴発し、深夜に兵を進めて多く旗幟を上げ、山に登って太鼓を打ちと、逆に多勢に見せ掛け、遂には、延岑の軍を浮き足立たせ、潰走させた。</ref>。岑彭は公孫述の刺客に倒れ、全軍は呉漢に引き継がれた。臧宮が平陽郷に至れば、公孫述の将の[[王元]]は降り、更に進軍し、[[綿竹]]を落し、涪城を破り、公孫述の弟の公孫恢を斬り、更に攻めて繁、郫を降した。遂には呉漢と共に公孫述を滅ぼした。光武帝は蜀が定まれば、臧宮を[[広漢郡|広漢]]太守と為した。 |
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建武15年([[39年]])、召されて、京師に帰り、列侯を持って朝請を奉じ、定めて朗陵侯に封ぜられた。建武18年([[42年]])、[[光禄勲|太中大夫]]を拝した。 |
建武15年([[39年]])、召されて、京師に帰り、列侯を持って朝請を奉じ、定めて朗陵侯に封ぜられた。建武18年([[42年]])、[[光禄勲|太中大夫]]を拝した。 |
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建武19年([[43年]])、妖しげな巫(かんなぎ)の弟子たちが妖言を用いて集合し、原武城に入り、自ら将軍と号した。光武帝は、これに対して臧宮らを遣わしてこれを囲ませ、攻めるも落ちない。ここで臧宮は、光武帝より東海王劉陽(後の[[明帝 (漢)|明帝]])の策<ref>囲みがきついので逃れられない。よって四方の囲みの一方を開いて、わざと逃がせば、散り散りになった兵を捕えるのは一亭長でも可能である。</ref>を受け、遂に賊を平らげた。 |
建武19年([[43年]])、妖しげな巫(かんなぎ)の弟子たちが妖言を用いて集合し、原武城に入り、自ら将軍と号した。光武帝は、これに対して臧宮らを遣わしてこれを囲ませ、攻めるも落ちない。ここで臧宮は、光武帝より東海王劉陽(後の[[明帝 (漢)|明帝]])の策<ref>囲みがきついので逃れられない。よって四方の囲みの一方を開いて、わざと逃がせば、散り散りになった兵を捕えるのは一亭長でも可能である。</ref>を受け、遂に賊を平らげた。 |
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[[永平 (漢)|永平]] |
[[永平 (漢)|永平]]元年([[58年]])、卒す。諡は愍侯。 |
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==人柄・逸話== |
== 人柄・逸話 == |
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*諸将からその勇を称され、劉秀は勤勉で寡黙であるのを察して、甚だ親しんだ。 |
*諸将からその勇を称され、劉秀は勤勉で寡黙であるのを察して、甚だ親しんだ。 |
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*寡兵で、駱越に至りし時、周囲がまだなじまない時に、夜中に城門の敷居を斬らせて、夜中に何度も車を通らせることで、あたかも大兵があるが如く聞こえさせ、駱越人を帰順させた。 |
*寡兵で、駱越に至りし時、周囲がまだなじまない時に、夜中に城門の敷居を斬らせて、夜中に何度も車を通らせることで、あたかも大兵があるが如く聞こえさせ、駱越人を帰順させた。 |
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*好戦的な武将であり、匈奴が飢饉と疫病に襲われた時、光武帝に方策を訊かれて、「兵を率いて功を為さん」と答え、光武帝に「常勝将軍とは計略を共に出来ず、我もそれを考える」と言われている。また[[馬武]]と共に匈奴を撃つ建策を上書している。しかし光武帝は国を傾けるかもしれない行為であり、寧ろ民を回復させる方が大事だと、それを採用することは無かった。 |
*好戦的な武将であり、匈奴が飢饉と疫病に襲われた時、光武帝に方策を訊かれて、「兵を率いて功を為さん」と答え、光武帝に「常勝将軍とは計略を共に出来ず、我もそれを考える」と言われている。また[[馬武]]と共に匈奴を撃つ建策を上書している。しかし光武帝は国を傾けるかもしれない行為であり、寧ろ民を回復させる方が大事だと、それを採用することは無かった。 |
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== 注 == |
== 脚注 == |
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[[Category:雲台二十八将]] |
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2022年5月27日 (金) 07:47時点における版
臧 宮(ぞう きゅう、? - 58年)は、後漢の武将。字は君翁(くんおう)。潁川郡郟県(河南省郟県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の14位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
略歴
姓名 | 臧宮 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 58年(永平1年) |
字・別号 | 君翁(字) |
本貫・出身地等 | 豫州潁川郡郟県 |
職官 | 亭長〔新〕→校尉〔王常〕 →偏将軍〔劉秀〕→侍中兼騎都尉〔後漢〕 |
爵位・号等 | 成安侯〔後漢〕→期思侯〔後漢〕
→酇侯〔後漢〕→朗陵侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 王常→更始帝→光武帝→明帝 |
家族・一族 | 子:臧信 |
若くして県の亭長となり、後に賓客を率いて下江の兵の中に入り校尉となった。下江の兵は劉縯の説得により漢兵と連合し、臧宮は劉秀に従いて征戦した。河北に至ると、偏将軍と為った。劉秀に従いて、郡賊を破り、しばしば敵陣を落す功があった。
建武元年(25年)、光武帝は即位し、臧宮を侍中・騎都尉と為した。建武2年(26年)、列侯に封じられた。
建武3年(27年)、光武帝の鄧奉親征に従いて、突騎を率いて祭遵と共に、更始帝の将の左防・韋顔を涅陽・酈に破った。岑彭に従いて鄧奉を小長安に追った。光武帝は、岑彭をして傅俊・臧宮・劉宏らを率いさせ時の群雄の一人の秦豊を撃たせた。臧宮は、兵を率いて江夏を攻略し、代郷・鍾武・竹里を撃って皆な下した[1]。輔威将軍を拝した。
建武7年(31年)、臧宮は梁都・済陰を撃ちて平げた。
建武11年(35年)春、公孫述討伐のため、臧宮は岑彭・大司馬呉漢・劉隆・劉歆(劉植の従兄弟)と共に兵を発し、輸送のための船頭を徴発し、荊門に集結する。荊門は征南大将軍岑彭に任せられた故、臧宮も岑彭に従った。荊門を破り、垂鵲山に至り、遂には江州に至った。岑彭は巴郡を下し、降兵5万を臧宮に預け、平曲に上らせ、自らは電撃戦を敢行する。臧宮は平曲に守り、遂には公孫述の将の延岑を挫く[2]。岑彭は公孫述の刺客に倒れ、全軍は呉漢に引き継がれた。臧宮が平陽郷に至れば、公孫述の将の王元は降り、更に進軍し、綿竹を落し、涪城を破り、公孫述の弟の公孫恢を斬り、更に攻めて繁、郫を降した。遂には呉漢と共に公孫述を滅ぼした。光武帝は蜀が定まれば、臧宮を広漢太守と為した。
建武15年(39年)、召されて、京師に帰り、列侯を持って朝請を奉じ、定めて朗陵侯に封ぜられた。建武18年(42年)、太中大夫を拝した。
建武19年(43年)、妖しげな巫(かんなぎ)の弟子たちが妖言を用いて集合し、原武城に入り、自ら将軍と号した。光武帝は、これに対して臧宮らを遣わしてこれを囲ませ、攻めるも落ちない。ここで臧宮は、光武帝より東海王劉陽(後の明帝)の策[3]を受け、遂に賊を平らげた。
人柄・逸話
- 諸将からその勇を称され、劉秀は勤勉で寡黙であるのを察して、甚だ親しんだ。
- 寡兵で、駱越に至りし時、周囲がまだなじまない時に、夜中に城門の敷居を斬らせて、夜中に何度も車を通らせることで、あたかも大兵があるが如く聞こえさせ、駱越人を帰順させた。
- 好戦的な武将であり、匈奴が飢饉と疫病に襲われた時、光武帝に方策を訊かれて、「兵を率いて功を為さん」と答え、光武帝に「常勝将軍とは計略を共に出来ず、我もそれを考える」と言われている。また馬武と共に匈奴を撃つ建策を上書している。しかし光武帝は国を傾けるかもしれない行為であり、寧ろ民を回復させる方が大事だと、それを採用することは無かった。