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'''朱 権'''(しゅ けん、[[洪武]]11年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[1378年]][[5月27日]]) - [[正統 (明)|正統]]13年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[1448年]][[10月12日]]))は、[[明]]の皇族。 |
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初代皇帝である[[朱元璋]](洪武帝)の十七男。生母は楊妃。第3代皇帝である[[永楽帝]]の異母弟。号は臞仙・涵虚子・丹丘先生。 |
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[[1391年]]に父から寧王に封じられる。[[1393年]]に封国の[[寧城県|大寧]]に任命された。朱元璋没後、[[建文帝]]のもとで藩王削減政策が行なわれると、朱権は8万の兵力を保持していたことから警戒された。このため、[[斉泰]]や[[黄子澄]]らは朱権を[[江寧府 (清)|応天府]]に召還しようとしたが、朱権は拒否した。このため、建文帝によって王位を剥奪された。 |
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永楽帝時代は[[南昌]]に移された。これは事実上の左遷であり、[[洪熙帝]]に改封を求めたが逆に怒りを買ったという。ただし、寧 |
永楽帝時代は[[南昌府|南昌]]に移された。これは事実上の左遷であり、[[洪熙帝]]に改封を求めたが逆に怒りを買ったという。ただし、大寧はモンゴルに近い辺境にあり、南昌への改封は朱権側の要望とする説もある<ref>新宮学「近世中国における首都北京の確立」『明清都市商業史の研究』汲古書院、2017年、P24.</ref>。 |
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1448年に死去した。享年71。 |
1448年に死去した。享年71。 |
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文化人として著作・編纂が多く、著に『通鑑博論』がある。 |
文化人として著作・編纂が多く、著に『通鑑博論』がある。末裔に画家の[[八大山人]](朱耷)を輩出した。 |
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==作品== |
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[[File:Shenqi Mipu vol 3 pg 1.jpg|thumb|300px|right|『[[神奇秘譜]]』下巻]] |
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朱権の作品は『通鑑博論』 |
朱権の作品は『通鑑博論』・『寧国儀範』・『家訓』・『文譜』・『詩譜』・『史断』・『通鑑博論』・『漢唐秘史』・『琴阮啓蒙』・『神奇秘譜』・『茶譜』・『瓊林雅韻』・『神隠』・『太和正音譜』<ref>『[[明史]]》(卷117)</ref>。 |
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*『[[明史]]』列伝第五 諸王二 |
*『[[明史]]』列伝第五 諸王二 |
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2022年5月31日 (火) 14:18時点における版
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朱 権(しゅ けん、洪武11年5月1日(1378年5月27日) - 正統13年9月15日(1448年10月12日))は、明の皇族。
初代皇帝である朱元璋(洪武帝)の十七男。生母は楊妃。第3代皇帝である永楽帝の異母弟。号は臞仙・涵虚子・丹丘先生。
概要
1391年に父から寧王に封じられる。1393年に封国の大寧に任命された。朱元璋没後、建文帝のもとで藩王削減政策が行なわれると、朱権は8万の兵力を保持していたことから警戒された。このため、斉泰や黄子澄らは朱権を応天府に召還しようとしたが、朱権は拒否した。このため、建文帝によって王位を剥奪された。
永楽帝時代は南昌に移された。これは事実上の左遷であり、洪熙帝に改封を求めたが逆に怒りを買ったという。ただし、大寧はモンゴルに近い辺境にあり、南昌への改封は朱権側の要望とする説もある[1]。
1448年に死去した。享年71。
文化人として著作・編纂が多く、著に『通鑑博論』がある。末裔に画家の八大山人(朱耷)を輩出した。
作品
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Shenqi_Mipu_vol_3_pg_1.jpg/300px-Shenqi_Mipu_vol_3_pg_1.jpg)
朱権の作品は『通鑑博論』・『寧国儀範』・『家訓』・『文譜』・『詩譜』・『史断』・『通鑑博論』・『漢唐秘史』・『琴阮啓蒙』・『神奇秘譜』・『茶譜』・『瓊林雅韻』・『神隠』・『太和正音譜』[2]。
家族
妻
- 張氏 - 張泰の娘
子
脚注
参考文献
- 『明史』列伝第五 諸王二