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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
有本の父・臣次は育英商(現育英高)から関西大を出て、野球に親しんだ。西宮出身で甲陽中(現甲陽学院高)にも在籍した天知俊一(後に中日監督)と一緒の写真もあった。幼いころ、キャッチボールすると「ちゃんと捕れるじゃないか」と喜んでくれた<ref name="新興野球部の「奇跡」――戦後復活大会に出場した芦屋中の少年投手と左利き捕手">[https://www-sponichi-co-jp.cdn.ampproject.org/c/s/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/02/kiji/20180701s00001000185000c.html?amp=1&usqp=mq331AQIKAGwASCAAgM%3D 新興野球部の「奇跡」――戦後復活大会に出場した芦屋中の少年投手と左利き捕手]</ref>。
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明けて[[1946年]][[2月2日]]に初の対外試合が実現したが、相手は第5回大会(1919年)全国優勝の名門・神戸一中(現神戸高)であり、橋本の兄・哲二が戦前、一中のマネジャーをしていた縁があった。氷雨の降る寒い日にグラウンドに着くと、「どうぞあちらの部屋で着替えてください」と言われた。芦屋中は通学で着る菜っ葉服に運動靴であったが、恥ずかしさをこらえ、橋本は「いえ、着替えはいりません。ユニホームがないのです。ミットもマスクもありません。すみませんが、貸してください」と答えた。硬球を打つのもこの日が初めてであり、1-4で敗れたが、有本は「こんな相手と試合をしてくれるのかと思ったが、いい試合ができた」と感じた。この試合後、練習場は主に六甲山の中腹にある兵庫師範学校(神戸大教育学部の前身)グラウンドを使っていた。放課後、阪急電車の御影駅で降りて急な坂道を上ったが、毎日毎日、下駄履きで通った。運動靴を履いている者など少なかったため、道中で鼻緒が切れるので、裸足になった。練習の行き帰りには精肉店も商う竹園旅館でコロッケを買って食べた。硬球は三宮の闇市や古道具店からかき集めたが、有本は戦前、[[阪神甲子園球場]]のすぐ近くに住んでおり、球場によく通っていた。グラウンドキーパーの米田長次や藤本治一郎やプロ野球関係者に顔が利いた。阪神や中日、巨人からボールやバットを譲ってもらった<ref name="新興野球部の「奇跡」――戦後復活大会に出場した芦屋中の少年投手と左利き捕手" />。

部員の岸本一司が家同士の付き合いがあった大阪城東商(現大商大高)出身の石田良雄がコーチに就くが、石田は後にプロ野球・太陽ロビンス入りする外野手であった。石田は投手の有本に「ボールをわしづかみにして放ってみろ」と指導し、有本はチェンジアップとなって空振りが取れた。カーブを教えてくれたのは当時、プロ野球・パシフィック(後の太陽・大陽・松竹)に在籍していた真田重蔵であった。芦屋駅前で保険屋をしていた田鎖という方が球団の事務局長のようなことをしていて、そんな関係から、真田や藤井勇らが指導にきてくれた。真田は「カーブは親指の横腹で投げろ」と指導し、授業中、親指の皮を強くしようと机の角で叩いて、教師からよく叱られた。少年時代の壁当ても役に立ったのか、真田は「お前はコントロールがいい」と褒めてくれた<ref name="新興野球部の「奇跡」――戦後復活大会に出場した芦屋中の少年投手と左利き捕手" />。

練習場の兵庫師範のグラウンドではサッカーのゴールに網を掛けてバックネットにしていたが、ある日、捕手の中村進が網掛けの作業中、クロスバーから転落し、左腕を骨折。代役の捕手は怖いと皆、尻込みし、二塁へ届く者もいなかったため、野球部をつくろうと呼びかけた責任からを橋本が代役を買って出た。橋本は捕手では不利な左投げであったが、神戸・元町の闇市で進駐軍下がりのミット(むろん右投げ用)を買い、中の綿やパンを詰め替えて作り直し、右手にはめた。こうして身長160cm、後に「少年投手」と呼ばれる有本と、180cmの長身、左利きの捕手・橋本のバッテリーが誕生する<ref name="新興野球部の「奇跡」――戦後復活大会に出場した芦屋中の少年投手と左利き捕手" />。

1回戦は[[7月24日]]の[[兵庫県立尼崎高等学校|尼崎中]]戦([[明石トーカロ球場|明石]])で逆転の8-2で破ると、2回戦は[[兵庫県立兵庫工業高等学校|機械工業]]に大勝。準々決勝で春先の練習試合では1-20と大敗していた[[灘中学校・高等学校|灘中]]と対戦したが、第4試合で午後5時半に始まった試合では芦屋の打棒が爆発し、5回表まで12-0と大差を付けた。裏の相手攻撃を2点までに抑えれば10点差で5回コールド勝ちであったが、安打、四球に失策がからんで一挙に12点も取られた。何とか同点で止まったが、6回は両軍無得点に終わり、7回表に3点を挙げ、裏を0に封じると、日没コールドとなって、15-12の乱戦をものにした。翌日の準決勝の相手は戦前、全国大会に春夏通算12回出場、1923(大勝12)年には優勝している名門・甲陽中(現甲陽学院高)であり、誰もが甲陽中の勝利を予想していた<ref name="芦屋中「奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表">[https://www-sponichi-co-jp.cdn.ampproject.org/c/s/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/02/kiji/20180701s00001002314000c.html?amp=1&usqp=mq331AQIKAGwASCAAgM%3D 芦屋中「奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表]</ref>。

試合では芦屋が3点を先取し、1点差まで迫られた8回表、2死三塁からの難しいゴロを遊撃手・太田賢輔が一塁に送球。間一髪アウトの微妙な判定でピンチを救い、その裏3点を挙げて6-2で逃げ切った。試合終了直後には甲陽中側から数人が飛び出し、一塁塁審に殴りかかった。球審にも飛びかかり、シャツを破くなど、敗戦に納得いかない甲陽中応援団が荒れていた。芦屋の選手たちは試合後、明石公園球場の外にいくつかあった戦時中の防空壕に隠れた。荒っぽい連中も多く、球場から明石駅まで行けない状態であったが、壕の足元には水がたまっていてヤブ蚊に刺された中に、鳴尾小学校の同窓であった者がいて、外から“有本だけは勘弁してやれ”という声が聞こえてきたが、暴動がおさまるまで約1時間も隠れ、何とか脱出した。決勝進出を決めたこの日の夜、選手たちは有本の家に集まり、[[すき焼き]]パーティーを開いた。主将・橋本は少しアルコールの入った部長の岸仁に「先生先生。もしもですよ。笑ってはいけませんよ。もしも明日勝って優勝したら、先生どうします」と問いかけると、岸は「合宿さしてやろう」と答えた。選手たちははしを持ったまま「まかしとき!」と、既に優勝合宿を思い描いていた。[[8月1日]]の決勝は戦前、春夏各1度の全国制覇の経験がある関西学院中(現関西学院高)との対戦であったが、強力チームほど有本のカーブ、チェンジアップは有効のようで、三塁ゴロが目立った。三塁手・森越迪夫の好捕好送球で応えた。5安打完封、4-0で本当に勝ってしまった。[[7月15日]]に完成したばかりの校歌を歌い、感激に浸った<ref name="芦屋中「奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表" />。

創部10ヶ月の新興チームが準々決勝は日没コールドに救われ、準決勝、決勝と全国優勝の経験がある名門校を連破しての快挙であった。岸が約束した合宿は優勝から中1日を挟んで[[8月3日]]が集合日となった。身支度をして宿泊先の本山第二小学校の作法室に集まり、1日8時間の練習計画が告げられた。翌日、練習場の甲南中グラウンドに行くと、コーチの石田はもちろん、慶大現役選手であった松尾俊治ら臨時コーチが並んでいた。後に毎日新聞記者、日本野球連盟参与などを務める松尾は自身も捕手であったため、不利な左投げ捕手の代役を探したが、有本は「捕手をかえないでください」「ずっとこれでやってきたし、橋本さんのリードの方が投げやすい」と主張。そのまま全国大会に臨むことになったが、松尾は「この橋本君は闘志満々、すばらしい根性の持ち主で、チームをぐいぐい引っ張っていた」と主将のリーダーシップをたたえている<ref name="芦屋中「奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表" />。

戦後初となった[[第28回全国中等学校優勝野球大会|夏の選手権]]は、終戦から1年後の8月15日、[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]で開幕した。甲子園は進駐軍が接収しており使えなかった。芦屋中は開幕日の第3試合に登場し、相手は[[高知県]]から初めて全国大会に出場する四国代表の[[高知県立高知追手前高等学校|城東中]]であった。大舞台での緊張か、合宿の疲労か、守備陣は9失策をおかし、制球のいい有本も7四球と乱れ、ランニング本塁打も浴びた。打線も[[前田祐吉]]に9三振を喫するなど、2-6の完敗であった<ref name=sensyuken>「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年</ref>。[[飛田穂洲]]は[[朝日新聞]]の戦評で創部間もない芦屋中に「'''大会初出場にして兵庫の代表権を獲得した奮闘ぶりは、たとひこの試合を失ったにせよ賞するに値する'''」と賛辞を贈り、再来を「'''待っている'''」と期待した<ref name="芦屋中「奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表" />。

学制改革で新制高校2年となった<ref name="芦屋中奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表" />[[1948年]][[第30回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]に出場するが、1回戦でエース[[伊沢修|西村修]]を擁する[[和歌山県立桐蔭中学校・高等学校|桐蔭高]]に敗れる<ref name=sensyuken />。[[1949年]]の [[第21回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は順調に勝ち進み、準決勝では[[福岡県立小倉高等学校|小倉高]]の[[福嶋一雄]]に投げ勝ち完封勝利するが、決勝では[[大阪府立北野高等学校|北野高]]と延長12回の熱戦の末に4-6で敗退、準優勝にとどまった<ref name=senbatu>「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年</ref>。同年[[第31回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]は準々決勝に進むが、[[中西太]]らのいた[[高松第一高等学校|高松一高]]に完封負け<ref name=sensyuken />。


[[慶應義塾大学]]に進学。[[慶應義塾体育会野球部|同野球部]]では[[二塁手]]へ転向。四年生時には主将を務めた。[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では在学中2度の優勝を経験。リーグ通算29試合出場、65打数13安打、打率.200、0本塁打、5打点を記録。大学同期に[[花井悠]]がいた。
[[慶應義塾大学]]に進学。[[慶應義塾体育会野球部|同野球部]]では[[二塁手]]へ転向。四年生時には主将を務めた。[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では在学中2度の優勝を経験。リーグ通算29試合出場、65打数13安打、打率.200、0本塁打、5打点を記録。大学同期に[[花井悠]]がいた。

2022年7月10日 (日) 07:54時点における版

有本 義明
生誕 (1931-06-01) 1931年6月1日(93歳)
日本の旗 日本兵庫県芦屋市
教育 慶應義塾大学
職業 スポーツライター
野球解説者
代表経歴 スポーツニッポン新聞社特別編集委員
アール・エフ・ラジオ日本解説者(1970年代 - 2007年)
福岡ダイエーホークス二軍監督
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有本 義明
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県芦屋市
生年月日 (1931-06-01) 1931年6月1日(93歳)
身長
体重
165 cm
kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手二塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

有本 義明(ありもと よしあき、1931年6月1日[1] - )は、兵庫県芦屋市出身[1]スポーツライター解説者監督

現在はスポーツニッポン特別編集委員。

来歴・人物

有本の父・臣次は育英商(現育英高)から関西大を出て、野球に親しんだ。西宮出身で甲陽中(現甲陽学院高)にも在籍した天知俊一(後に中日監督)と一緒の写真もあった。幼いころ、キャッチボールすると「ちゃんと捕れるじゃないか」と喜んでくれた[2]

1945年8月15日の終戦後、9月に新学期を迎えると、当時芦屋中学校2年生の有本は剣道部に入部。小学生時代から壁当てや天井投げをして野球に親しんでいたが、野球部は無かった。芦屋中進学は私学の甲南中受験に失敗したからで、この時も兵庫・西脇の疎開先で転校手続きに入っていた。そんな折、10月に校内軟式野球大会が芦屋・打出浜の海技専門学校であった。この時に野球好きの生徒12、3人が集まって「野球部をつくろう」と話が持ち上がり、中心となったのは4年生で、創部後主将に就任する橋本修三であった。有本は橋本と共に社会科教諭で体育も指導していた岸仁に部長を依頼したが、職員会議では「腹が減るのに運動でもあるまい」との意見が多数あったが、難産の末に承認された。空襲で校舎は全焼しており、グラウンドもなかったため、宮川小、本山第一小などを間借りして練習を始めた[2]

明けて1946年2月2日に初の対外試合が実現したが、相手は第5回大会(1919年)全国優勝の名門・神戸一中(現神戸高)であり、橋本の兄・哲二が戦前、一中のマネジャーをしていた縁があった。氷雨の降る寒い日にグラウンドに着くと、「どうぞあちらの部屋で着替えてください」と言われた。芦屋中は通学で着る菜っ葉服に運動靴であったが、恥ずかしさをこらえ、橋本は「いえ、着替えはいりません。ユニホームがないのです。ミットもマスクもありません。すみませんが、貸してください」と答えた。硬球を打つのもこの日が初めてであり、1-4で敗れたが、有本は「こんな相手と試合をしてくれるのかと思ったが、いい試合ができた」と感じた。この試合後、練習場は主に六甲山の中腹にある兵庫師範学校(神戸大教育学部の前身)グラウンドを使っていた。放課後、阪急電車の御影駅で降りて急な坂道を上ったが、毎日毎日、下駄履きで通った。運動靴を履いている者など少なかったため、道中で鼻緒が切れるので、裸足になった。練習の行き帰りには精肉店も商う竹園旅館でコロッケを買って食べた。硬球は三宮の闇市や古道具店からかき集めたが、有本は戦前、阪神甲子園球場のすぐ近くに住んでおり、球場によく通っていた。グラウンドキーパーの米田長次や藤本治一郎やプロ野球関係者に顔が利いた。阪神や中日、巨人からボールやバットを譲ってもらった[2]

部員の岸本一司が家同士の付き合いがあった大阪城東商(現大商大高)出身の石田良雄がコーチに就くが、石田は後にプロ野球・太陽ロビンス入りする外野手であった。石田は投手の有本に「ボールをわしづかみにして放ってみろ」と指導し、有本はチェンジアップとなって空振りが取れた。カーブを教えてくれたのは当時、プロ野球・パシフィック(後の太陽・大陽・松竹)に在籍していた真田重蔵であった。芦屋駅前で保険屋をしていた田鎖という方が球団の事務局長のようなことをしていて、そんな関係から、真田や藤井勇らが指導にきてくれた。真田は「カーブは親指の横腹で投げろ」と指導し、授業中、親指の皮を強くしようと机の角で叩いて、教師からよく叱られた。少年時代の壁当ても役に立ったのか、真田は「お前はコントロールがいい」と褒めてくれた[2]

練習場の兵庫師範のグラウンドではサッカーのゴールに網を掛けてバックネットにしていたが、ある日、捕手の中村進が網掛けの作業中、クロスバーから転落し、左腕を骨折。代役の捕手は怖いと皆、尻込みし、二塁へ届く者もいなかったため、野球部をつくろうと呼びかけた責任からを橋本が代役を買って出た。橋本は捕手では不利な左投げであったが、神戸・元町の闇市で進駐軍下がりのミット(むろん右投げ用)を買い、中の綿やパンを詰め替えて作り直し、右手にはめた。こうして身長160cm、後に「少年投手」と呼ばれる有本と、180cmの長身、左利きの捕手・橋本のバッテリーが誕生する[2]

1回戦は7月24日尼崎中戦(明石)で逆転の8-2で破ると、2回戦は機械工業に大勝。準々決勝で春先の練習試合では1-20と大敗していた灘中と対戦したが、第4試合で午後5時半に始まった試合では芦屋の打棒が爆発し、5回表まで12-0と大差を付けた。裏の相手攻撃を2点までに抑えれば10点差で5回コールド勝ちであったが、安打、四球に失策がからんで一挙に12点も取られた。何とか同点で止まったが、6回は両軍無得点に終わり、7回表に3点を挙げ、裏を0に封じると、日没コールドとなって、15-12の乱戦をものにした。翌日の準決勝の相手は戦前、全国大会に春夏通算12回出場、1923(大勝12)年には優勝している名門・甲陽中(現甲陽学院高)であり、誰もが甲陽中の勝利を予想していた[3]

試合では芦屋が3点を先取し、1点差まで迫られた8回表、2死三塁からの難しいゴロを遊撃手・太田賢輔が一塁に送球。間一髪アウトの微妙な判定でピンチを救い、その裏3点を挙げて6-2で逃げ切った。試合終了直後には甲陽中側から数人が飛び出し、一塁塁審に殴りかかった。球審にも飛びかかり、シャツを破くなど、敗戦に納得いかない甲陽中応援団が荒れていた。芦屋の選手たちは試合後、明石公園球場の外にいくつかあった戦時中の防空壕に隠れた。荒っぽい連中も多く、球場から明石駅まで行けない状態であったが、壕の足元には水がたまっていてヤブ蚊に刺された中に、鳴尾小学校の同窓であった者がいて、外から“有本だけは勘弁してやれ”という声が聞こえてきたが、暴動がおさまるまで約1時間も隠れ、何とか脱出した。決勝進出を決めたこの日の夜、選手たちは有本の家に集まり、すき焼きパーティーを開いた。主将・橋本は少しアルコールの入った部長の岸仁に「先生先生。もしもですよ。笑ってはいけませんよ。もしも明日勝って優勝したら、先生どうします」と問いかけると、岸は「合宿さしてやろう」と答えた。選手たちははしを持ったまま「まかしとき!」と、既に優勝合宿を思い描いていた。8月1日の決勝は戦前、春夏各1度の全国制覇の経験がある関西学院中(現関西学院高)との対戦であったが、強力チームほど有本のカーブ、チェンジアップは有効のようで、三塁ゴロが目立った。三塁手・森越迪夫の好捕好送球で応えた。5安打完封、4-0で本当に勝ってしまった。7月15日に完成したばかりの校歌を歌い、感激に浸った[3]

創部10ヶ月の新興チームが準々決勝は日没コールドに救われ、準決勝、決勝と全国優勝の経験がある名門校を連破しての快挙であった。岸が約束した合宿は優勝から中1日を挟んで8月3日が集合日となった。身支度をして宿泊先の本山第二小学校の作法室に集まり、1日8時間の練習計画が告げられた。翌日、練習場の甲南中グラウンドに行くと、コーチの石田はもちろん、慶大現役選手であった松尾俊治ら臨時コーチが並んでいた。後に毎日新聞記者、日本野球連盟参与などを務める松尾は自身も捕手であったため、不利な左投げ捕手の代役を探したが、有本は「捕手をかえないでください」「ずっとこれでやってきたし、橋本さんのリードの方が投げやすい」と主張。そのまま全国大会に臨むことになったが、松尾は「この橋本君は闘志満々、すばらしい根性の持ち主で、チームをぐいぐい引っ張っていた」と主将のリーダーシップをたたえている[3]

戦後初となった夏の選手権は、終戦から1年後の8月15日、西宮球場で開幕した。甲子園は進駐軍が接収しており使えなかった。芦屋中は開幕日の第3試合に登場し、相手は高知県から初めて全国大会に出場する四国代表の城東中であった。大舞台での緊張か、合宿の疲労か、守備陣は9失策をおかし、制球のいい有本も7四球と乱れ、ランニング本塁打も浴びた。打線も前田祐吉に9三振を喫するなど、2-6の完敗であった[4]飛田穂洲朝日新聞の戦評で創部間もない芦屋中に「大会初出場にして兵庫の代表権を獲得した奮闘ぶりは、たとひこの試合を失ったにせよ賞するに値する」と賛辞を贈り、再来を「待っている」と期待した[3]

学制改革で新制高校2年となった[3]1948年夏の選手権に出場するが、1回戦でエース西村修を擁する桐蔭高に敗れる[4]1949年の 春の選抜は順調に勝ち進み、準決勝では小倉高福嶋一雄に投げ勝ち完封勝利するが、決勝では北野高と延長12回の熱戦の末に4-6で敗退、準優勝にとどまった[5]。同年夏の選手権は準々決勝に進むが、中西太らのいた高松一高に完封負け[4]

慶應義塾大学に進学。同野球部では二塁手へ転向。四年生時には主将を務めた。東京六大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験。リーグ通算29試合出場、65打数13安打、打率.200、0本塁打、5打点を記録。大学同期に花井悠がいた。

大学卒業後はスポーツニッポン新聞社へ入社し、プロ野球を中心としたスポーツの取材を実施。在職中の1962年、当時の阪神タイガース監督藤本定義の要請でアメリカへ外国人選手の調査に向かい、ジーン・バッキーを見いだす。また、同じく1960年代には、NETテレビの東京六大学野球中継に解説者として出演することもあった。1970年代あたりからは、東京12チャンネルラジオ関東1981年よりRFラジオ日本)・TBSラジオ各局のプロ野球中継解説者も務めるようになる。

1992年には、プロ野球記者としての取材活動の集大成として『プロ野球三国志』をスポニチ紙上に執筆。毎日新聞社から単行本が出版された。

1993年から1995年は、根本陸夫に請われ、プロ選手経験のないまま福岡ダイエーホークス二軍監督を担当する珍しい試みに挑戦した。

著書

  • 野球のコツ教えます 明日からうまくなる新理論
1974年、スポーツニッポン新聞社より発行[6]
  • ザ・草野球
1981年4月、スポニチ出版より発行。ISBN 4790309053
  • プロ野球三国志
1992年7月、毎日新聞社より発行。ISBN 4620308714

出演番組

解説者として出演していた野球中継番組
スポーツ情報番組

詳細情報

背番号

  • 71(1993年 - 1995年)

脚注

  1. ^ a b 参考:『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(『ホームラン』2000年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)に掲載の解説者名鑑。
  2. ^ a b c d e 新興野球部の「奇跡」――戦後復活大会に出場した芦屋中の少年投手と左利き捕手
  3. ^ a b c d e 芦屋中「奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表
  4. ^ a b c 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  5. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  6. ^ 国立国会図書館の書誌情報

関連項目

  • 芥田武夫 - プロ選手経験ゼロで新聞のスポーツ記者から近鉄パールス監督を務めた。
  • 田口周 - 有本同様に、プロ選手経験ゼロでヤクルトスワローズ二軍監督を経験(スポーツ紙記者出身という点でも共通している)。
  • 平田翼 - 有本同様に、野球記者を務める傍ら、RFラジオ日本の野球解説者を務めた。