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「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の版間の差分

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== 外部リンク ==
* [http://music.geocities.jp/mjkioka1973/Main.html バッハ関連の楽譜]

2006年11月26日 (日) 04:05時点における版

Johann Sebastian Bach

ヨハン・ゼバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach, 1685年3月21日 - 1750年7月28日)は、18世紀に活動したドイツ作曲家、さらには鍵盤楽器の名手として、西洋音楽史上において重要な位置にある存在であり、もっとも偉大な一人であるという意見も根強い。ミドルネームは、セバスティアンとも書かれる。バッハ家は音楽家の家系であり、バッハ姓の作曲家は非常に多い。ヨハン・ゼバスティアンはしばしば「J. S. バッハ」と略記され、また「大バッハ」とも呼ばれる。彼の信奉者からは「音楽の父」とも称される。

作品についてはヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品一覧をご覧ください。


生涯

バッハ一族は、ドイツ中部テューリンゲン地方で代々音楽を生業とした大一族であった。2世紀半の間に約60人の音楽家を輩出し、遺伝学の研究対象とされたこともある。ただ、当時はまだ貴族の子は貴族、農民の子は農民、というように身分が固定されており、職業音楽家の家系は職業音楽家以外の選択肢があまりなかった、という事情も考慮しなければならない。付記するならば彼の時代の音楽家とは現在のクラシック音楽の一流演奏家のような高い名声と収入を備えたいわゆる名士ではなく、むしろ十把ひとからげで扱われる楽器担当の召使いのような存在であった。もちろんこれは彼の時代の音楽家の最も一般的なありようである。

ヨハン・ゼバスティアン(以下バッハとする)はアイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれた。バッハが10歳の時に父が死去し、オールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励んだ。1700年リューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生として生活した。

1703年ヴァイマルの宮廷楽団に就職、その後まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニストになった。すでにバッハの能力は高く評価されており、1707年ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに(教会付きオルガニストとしては)異例の好条件で招かれた。同じ年、遠戚にあたるマリア・バルバラ・バッハと結婚した。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンエマヌエルは高名な音楽家になった。

1708年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなった。多くのオルガン曲はこの時期の作品である。1714年には楽師長に昇進、一月に一曲のカンタータを作曲、上演した。しかし最終的には主家のお家騒動の余波を食らって投獄された後、ヴァイマルを追放された。

バッハにゆかりのある土地

1717年ケーテンの宮廷楽長となり、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。1720年夏、領主に従っての旅行中に妻が急死する不幸に見舞われ、翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した。彼女は有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしている。有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏された曲が折々に書き込まれていった。アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち、クリスティアンは彼の子供の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えた。彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、彼らはみな音楽家として活動した(下記)。

1723年ライプツィヒ聖トーマス教会カントル(音楽監督)(通称「トーマスカントル」)に就任。この地位は事実上ライプツィヒ市の音楽監督にあたっており、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。

1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンフリードリヒ大王の宮廷を訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。

1749年頃から眼疾が悪化し、手術を受けたが、テイラーという医者がヤブ医者だったため、予後が思わしくなく、病床に伏すようになり、1750年に65歳でこの世を去った。生前の彼は「妙に高給取りな田舎の楽士長」程度にしか認知されていなかったが、死後100年前後経った後に再発見され、高く評価されるようになった。

なおバッハの子孫がアイゼナハに1960年代に生存していたことが確認されている。

作品

バッハは幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。その作風は、通奏低音を基礎とした和声法を用いつつも、根本的には対位法的な音楽であり、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。従って、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という2つの音楽スタイルにまたがり、結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている。

彼はドイツを離れたことこそなかったが、大変に勤勉かつ勉強熱心で、幅広い音楽を吸収した。J.-H. ダングルベール、クープランなどのフランス音楽からは細部の語法や優美さ、G. フレスコバルディ、ヴィヴァルディなどのイタリア音楽からは明朗な旋律やくっきりした形式感、南ドイツの音楽(フローベルガーやパッヘルベル)に見られる暖かな叙情性、北ドイツの音楽(スヴェーリンク、ヴェックマン、ブクステフーデなど)からは深い幻想性や重厚な和声感、さらにはパレストリーナに代表される「古様式」までもを研究した。そういった様々な要素をバッハは完全に消化して、彼自身の個性に満ち溢れた偉大な音楽を創りあげたのであった。とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。

いみじくもベートーヴェンがバッハについて語った『和声の父祖』、『「小川(ドイツ語でBachとは小川の意)」ではなくて「大海 (Meer)」』という言葉は、現在ではドイツ音楽中心主義的な発言として批判的に語られることもあるが、それでも、彼の遺した作品とそこに用いられた技法は、いわば西洋音楽のエッセンスを凝縮したものと言うことができるだろう。それゆえに、現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽に応用され、多くの人びとに刺激を与え続けている。

バッハの作品はシュミーダー番号(BWV、「バッハ作品目録」 Bach Werke Verzeichnis の略)によって整理されている。「バッハ作品目録」は、1950年ヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に配列されている。

声楽曲

バッハはその音楽的経歴の大部分を教会音楽家として送り、宗教的声楽曲は彼の作品群の中でも非常に重要な位置を占める。特に、ライプツィヒ時代の初期数年間においては、毎日曜日の礼拝にあわせて年間50~60曲ほど必要となるカンタータをほぼ毎週作曲、上演するという、驚異的な活動を行った。

  • ちなみに、彼は、宗教曲の清書自筆譜の冒頭に「JJ」(:Jesu juva!=イエスよ、助けたまえ)と、最後に「SDG」(羅:Soli Deo Gloria!=ただ神のみに栄光を)と書き込むことを常としていた。

今日残されているのは、ドイツ語による約200曲の教会カンタータ、2つの受難曲と3つのオラトリオ、6曲のモテットラテン語によるマニフィカト1曲、小ミサ曲4曲と大ミサ曲1曲が主要なものである(ドイツ語作品では、ルター派の伝統に立脚したコラールが音楽的な基礎となっていることが多い)。これらはテクストの内容に密着しながらも、それを越える深い人間的な感情に満たされており、われわれに慰めをあたえてくれる傑作の宝庫である。

また、それとは別に、宗教的な題材によらない約20曲の世俗カンタータもある。目的は様々で、領主への表敬、結婚式や誕生日祝い、さらにコーヒー店での演奏会用の作品と見られるもの(『コーヒー・カンタータ』、BWV.211)もある。その中にはしばしばユーモアが滲み出ており、バッハの人間性にじかに触れるかのような楽しさが感じられる。なお、テクストを取り替えること(パロディと呼ばれる)によって宗教的作品に転用されたものも存在する。

  • マタイ受難曲 (Matthäuspassion) BWV244
    古今の宗教音楽の最高峰で、2部全68曲(曲数は新バッハ全集 (NBA) の数え方による)からなる。1727年ライプツィヒにて初演された。後世、メンデルスゾーンによって取り上げられ、バッハを一般に再認識させるきっかけとなったと言われている。
  • ミサ曲 ロ短調 (MESSE in h-moll) BWV232
    マタイ受難曲が、独唱者依りの傑作とされる一方、ミサ曲ロ短調は「バッハ合唱曲の最高傑作」と称されている。最初の2つの部分、キリエ(Kyrie )及びグローリア(Gloria ) は1733年に、サンクトゥス (Sanctus ) が1724年に書かれ、残り大半は1747年から49年にかけて既存作品を利用しつつ作曲された。最近の研究では、バッハが最後に完成させた曲とされる。
  • マニフィカト BWV243
    ラテン語の歌詞を伴う明るい作品であり、他のカンタータなどのようにドイツ語の歌詞やコラールを伴わない。深刻な音楽を好まないラテン系の諸国においては、バッハの作品として人気が高い。

オルガン曲

生前のバッハは、何よりもまずオルガンの名手として著名で、その構造にも精通していた。そのため、各地でオルガンが新造されたり、改造された際にはたびたび楽器の鑑定に招かれ、的確なアドバイスとあわせて即興演奏をはじめとした名技を披露し、聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられている。

バッハのオルガン作品は、コラールに基づいた「コラール編曲」と、コラールに基づかない「自由作品」(前奏曲、トッカータやフーガなど)の2つに分類される。楽曲の特徴としては、足鍵盤パートが完全に独立した声部として重視されている点が挙げられる。また、北ドイツ・オルガン楽派の影響を受けた初期作品の奔放な幻想性から、後期作品の古典的完成美までの様式的進展を跡付けることも可能である。現存する主要作品は、30曲余りの自由作品と、コラール前奏曲の4つの集成、いくつかのコラール変奏曲である。オルガン小曲集

クラヴィーア曲

バッハの時代には、ピアノはまだ普及するにいたっておらず、彼のクラヴィーア(オルガン以外の鍵盤楽器の総称)作品は、概ねチェンバロクラヴィコードのために書かれたものとされている。その多くはケーテンの宮廷楽長時代に何らかの起源を持ち、息子や弟子の教育に対する配慮もうかがえるものとなっている。練習曲であるが、非常に美しく、また難易度も高い。

器楽曲、室内楽曲

バッハの器楽だけによる合奏曲では、ブランデンブルク協奏曲管弦楽組曲、複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。特にブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲には、G線上のアリアのもととなる楽章など、広く親しまれている作品が多い。4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、ヴィヴァルディの協奏曲の編曲である。

バッハの器楽曲で特に名高いものとしては、旋律楽器のための無伴奏作品集『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』『無伴奏チェロ組曲』の2つがある(この他、『無伴奏フルートのためのパルティータ』が1曲ある)。これらは、それぞれの楽器の能力の限界に迫って多声的に書かれた驚くべき作品群であり、それぞれの楽器の演奏者にとっては聖典的な存在となっている。特に、『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』第2番の終曲にあたる『シャコンヌ』は古今の音楽家を魅了して止まない作品で、オーケストラ用やピアノ用など、19世紀以降様々な編曲が行われている。

一方、室内楽曲作品は、トリオ・ソナタや、通奏低音伴奏と旋律楽器のためのソナタもあるが、独創的な作品として注目されるのが、それまで専ら伴奏として扱われてきたチェンバロの右手パートを作曲することによって、旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、古典派の二重奏ソナタへの道を開いた『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』『フルートとチェンバロのためのソナタ』『ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ』である。

なお、バッハの場合の「ソナタ」とはいわゆるバロック・ソナタ(大部分が緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタのスタイルをとる)であり、古典派以後の「ソナタ」とは別種のものである。

特殊作品

バッハが特に晩年になってから手がけた様々な対位法的作品群が、一般に特殊作品として分類されている。作曲技法が手段ではなく目的となっている点で特殊といえる。音楽の捧げものBWV1079やフーガの技法BWV1080に代表される。この2つの作品は、いずれも1つの主題に基づいて作られており、フーガあるいはカノンの様々な様式が用いられている。

このほか特殊作品として、幾つかの単独のカノンや14のカノンBWV1087がある。カノン変奏曲「高き御空より」BWV769もここに含まれるべきであるが、楽器指定が明確であるためオルガン曲として分類されている。

詳細な一覧は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品一覧を参照してください。

外部リンク

ヨハン・ゼバスティアンの子供達

また、架空の息子(?)も存在する。

参考

映画 アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 、ダニエル・ユイレジャン=マリー・ストロープ監督、1967年。(アンナ・マクダレーナ・バッハの項目を参照。)

関連項目

外部リンク