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イリアンジャヤは[[19世紀]]以来オランダ領ニューギニアとして[[オランダ]]の[[植民地]]であり、[[1949年]]に[[インドネシア独立戦争]]が終結しインドネシアが新たに独立した後もオランダが統治を行なっていた。これに対しインドネシアはイリアンジャヤを自国領と主張し、イリアンジャヤを西パプアとしてインドネシアとは分離された形で独立させようとしていたオランダと対立していたが、[[1962年]]に入りインドネシアは[[空挺部隊]]や[[魚雷艇]]部隊を投入してイリアンジャヤへの武力介入を本格化させた。
イリアンジャヤは[[19世紀]]以来オランダ領ニューギニアとして[[オランダ]]の[[植民地]]であり、[[1949年]]に[[インドネシア独立戦争]]が終結しインドネシアが新たに独立した後もオランダが統治を行なっていた。これに対しインドネシアはイリアンジャヤを自国領と主張し、イリアンジャヤを西パプアとしてインドネシアとは分離された形で独立させようとしていたオランダと対立していたが、[[1962年]]に入りインドネシアは[[空挺部隊]]や[[魚雷艇]]部隊を投入してイリアンジャヤへの武力介入を本格化させた。


[[アメリカ合衆国]]は仲介に乗り出し、[[8月15日]]に[[ニューヨーク]]合意と呼ばれる両者間の合意を取り付けた。合意内容はイリアンジャヤを一時、[[国連事務総長]]の監督の下国際連合が統治するものとし、[[1963年]][[5月1日]]にインドネシア統治に移管すること、[[1969年]]末までに帰属を自己決定させることが取り決められた。国際連合はこれを歓迎し[[9月21日]]の[[国連総会決議]]1752において、事務総長へ適切な措置の実施を求めた。
[[アメリカ合衆国]]は仲介に乗り出し、[[8月15日]]に[[ニューヨーク]]合意と呼ばれる両者間の合意を取り付けた。合意内容はイリアンジャヤを一時、[[国連事務総長]]の監督の下国際連合が統治するものとし、[[1963年]][[5月1日]]にインドネシア統治に移管すること、[[1969年]]末までに帰属を自己決定させることが取り決められた。国際連合はこれを歓迎し[[9月21日]]の[[国総会決議1752]]において、事務総長へ適切な措置の実施を求めた。


当時の[[ウ・タント]]国連事務総長は決議を待たずにニューヨーク合意後直ちに行動を開始しており、[[8月18日]]には先遣隊を現地に派遣していた。[[国際連合コンゴ活動|コンゴ国連軍]]からの部隊転用や[[アメリカ空軍]][[第13空軍 (アメリカ軍)|第13空軍]]の支援もあり、総会決議の9月21日までには停戦監視および[[インドネシア軍]]への非軍事物資補給体制を整えていた。[[10月3日]]、ニューヨーク合意第7条を根拠に、西部ニューギニアにおける治安維持部隊として設立されたのが西イリアン国際連合保安隊(UNSF)である。[[パキスタン軍]]1,500名のほか、アメリカ合衆国およびカナダからの航空機要員76名ほかで構成されていた。
当時の[[ウ・タント]]国連事務総長は決議を待たずにニューヨーク合意後直ちに行動を開始しており、[[8月18日]]には先遣隊を現地に派遣していた。[[国際連合コンゴ活動|コンゴ国連軍]]からの部隊転用や[[アメリカ空軍]][[第13空軍 (アメリカ軍)|第13空軍]]の支援もあり、総会決議の9月21日までには停戦監視および[[インドネシア軍]]への非軍事物資補給体制を整えていた。[[10月3日]]、ニューヨーク合意第7条を根拠に、西部ニューギニアにおける治安維持部隊として設立されたのが西イリアン国際連合保安隊(UNSF)である。[[パキスタン軍]]1,500名のほか、アメリカ合衆国およびカナダからの航空機要員76名ほかで構成されていた。

2022年8月26日 (金) 15:17時点における版

西イリアン国際連合保安隊
概要 平和維持活動
略称 UNSF
状況 活動終了
決議 総会決議1752
活動開始 1962年10月3日
活動終了 1963年5月1日
活動地域 イリアンジャヤ
公式サイト UNSF
国際連合の旗 Portal:国際連合
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西イリアン国際連合保安隊(にしイリアンこくさいれんごうほあんたい United Nations Security Force in West New Guinea,UNSF)はニューギニア島西部(イリアンジャヤ)に展開した国際連合平和維持活動。国際連合暫定統治機構(UNTEA)と協力し、オランダ領ニューギニアにおけるオランダ軍インドネシア軍の停戦を監視し治安維持にあたった。

概要

イリアンジャヤは19世紀以来オランダ領ニューギニアとしてオランダ植民地であり、1949年インドネシア独立戦争が終結しインドネシアが新たに独立した後もオランダが統治を行なっていた。これに対しインドネシアはイリアンジャヤを自国領と主張し、イリアンジャヤを西パプアとしてインドネシアとは分離された形で独立させようとしていたオランダと対立していたが、1962年に入りインドネシアは空挺部隊魚雷艇部隊を投入してイリアンジャヤへの武力介入を本格化させた。

アメリカ合衆国は仲介に乗り出し、8月15日ニューヨーク合意と呼ばれる両者間の合意を取り付けた。合意内容はイリアンジャヤを一時、国連事務総長の監督の下国際連合が統治するものとし、1963年5月1日にインドネシア統治に移管すること、1969年末までに帰属を自己決定させることが取り決められた。国際連合はこれを歓迎し9月21日国際連合総会決議1752において、事務総長へ適切な措置の実施を求めた。

当時のウ・タント国連事務総長は決議を待たずにニューヨーク合意後直ちに行動を開始しており、8月18日には先遣隊を現地に派遣していた。コンゴ国連軍からの部隊転用やアメリカ空軍第13空軍の支援もあり、総会決議の9月21日までには停戦監視およびインドネシア軍への非軍事物資補給体制を整えていた。10月3日、ニューヨーク合意第7条を根拠に、西部ニューギニアにおける治安維持部隊として設立されたのが西イリアン国際連合保安隊(UNSF)である。パキスタン軍1,500名のほか、アメリカ合衆国およびカナダからの航空機要員76名ほかで構成されていた。

1962年10月1日に国際連合暫定統治機構(UNTEA)がオランダより統治権を移譲された。UNTEAはUNSFと協力して統治の暫定統治を行い、インドネシアへ行政機構を移管することを任務としていた。

UNSFおよびUNTEAの作業は順調に進み、1963年5月1日にオランダからインドネシアへ西部ニューギニアの統治が移譲され、西イリアン国際連合保安隊は解散となった。

外部リンク