「烏雅束」の版間の差分
Zomba2022wataru (会話 | 投稿記録) m +関連項目 |
Zomba2022wataru (会話 | 投稿記録) 出典追加、加筆 |
||
4行目: | 4行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
『[[遼史]]』・『[[金史]]』によると、[[乾統 (遼)|乾統]]3年([[1103年]])に叔父の穆宗[[盈歌]](インコ、烏古廼の五男)が没すると、その跡を継いで首長となった。烏雅束は、弟の阿骨打と共に女真完顔部の勢力増大に全力を注いだという。天慶3年(1113年)に53歳で病没し、弟の阿骨打が後を継いだ。『金史』によれば、女真完顔部の先祖は[[朝鮮]]北部から移住して来た黒水[[靺鞨]]の一部族長であった[[函普]](廟号は始祖)だったというが、[[池内宏]](東洋史)の詳細な研究によれば、始祖以下昭祖({{仮リンク|石魯|zh|完顏石魯}}(シル、烏古廼の父とされる))にいたる五代の事績は、歴史的事実とは認めがたいという<ref name="2kawachi41">[[#河内2|河内(1970)pp.41-44]]</ref>。史書には、始祖以下、徳帝{{仮リンク|烏魯|zh|乌鲁}}、安帝{{仮リンク|跋海|zh|完颜跋海}}、献祖{{仮リンク|綏可|zh|綏可}}、昭祖石魯、景祖烏古廼まで父子相続がなされたと記される。烏古廼の事績も歴史的事実とするには疑問の持たれるところもあるが、この時代に生女真完顔氏が按出虎(アルチュフ)水地方でようやく指導的立場に立ったと考えられる<ref name="2kawachi41" />。その後、首長権は父の劾里鉢(烏古廼の次男)、叔父の{{仮リンク|頗剌淑|zh|完颜颇剌淑}}(ポラシェ、廟号は粛宗、烏古廼の四男)、盈歌(インコ)に継承され、烏雅束(ウヤス)がこれを引き継いだ{{refnest|group="注釈"|祖父の烏古廼(ウクナイ)は長男の[[劾者]](ヘテェ)と次男のガリベチを一緒に住まわせ、ヘテェが家政の一切を、ガリベチには主として外事を担当させたという。そのため、ヘテェの子の{{仮リンク|撒改|zh|完顏撒改}}(サガイ)や孫の[[粘没喝]](ネメガ)は金皇帝のアクダやウキマイと並んで一族内で大きな勢力をふるった<ref name="2kawachi44">[[#河内2|河内(1970)pp.44-48]]</ref>。}}。[[モンゴル系民族|モンゴル系]][[契丹]](キタン)人の[[遊牧民]]王朝、[[遼]]はインコに生女真[[節度使]]の職に任じた<ref name="2kawachi41" />。 |
|||
『[[遼史]]』・『[[金史]]』によると、[[乾統 (遼)|乾統]]3年([[1103年]])に叔父の穆宗[[盈歌]](インコ、烏古廼の五男)が没すると、その跡を継いで首長となった。烏雅束は、弟の阿骨打と共に女真完顔部の勢力増大に全力を注いだという。天慶3年(1113年)に53歳で病没し、弟の阿骨打が後を継いだ。 |
|||
ウヤスは節度使を職を継ぎ、完顔部の首長となり、生女真諸部を統合した<ref name="kotobank">{{kotobank|金(中国の王朝)}}</ref><ref name="saeki254">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.254-256]]</ref><ref name="kawachi228">[[#河内|河内(1989)pp.228-230]]</ref>。また、配下の石適歓を派遣して曷懶甸地方(朝鮮半島北東部の[[咸興市|咸興]]平野)を制圧し、完顔部の支配する[[領域 (国家)|領域]]は、かつての[[渤海 (国)|渤海国]]に匹敵するまでになった<ref name="2kawachi41" />。[[1113年]]、ウヤスが死去し、弟のアクダが[[都勃極烈]](トボギレ)の地位に就いて首長となって遼からは節度使の職を授けられた<ref name="2kawachi41" />。しかし、アクダはウヤスの死後、すぐに遼に対して反乱を起こし、[[1115年]]、遼から自立して女真(ジュシェン)の国家、[[金 (王朝)|金]]を建てた<ref name="kotobank" /><ref name="saeki254" /><ref name="kawachi228" />。 |
|||
また、『金史』によると、女真完顔部の先祖は[[朝鮮]]北部から移住して来た黒水[[靺鞨]]の一部族長であった[[函普]](廟号は始祖)だったという。やがて、烏魯(諡号は徳帝)・跋海(諡号は安帝)・綏可(廟号は献祖)・石魯(廟号は昭祖)…そして祖父の烏古廼まで父子相続が世襲されたという。あとは父の劾里鉢(烏古廼の次男)・叔父の頗剌淑(ポラシェ、廟号は粛宗、烏古廼の四男)・盈歌まで続き、烏雅束に首長の座が回って来たのである。 |
|||
[[皇統 (金)|皇統]]4年([[1144年]])に[[熙宗 (金)|熙宗]]から'''献敏恭簡皇帝'''の[[諡号]]を贈られ、翌皇統5年([[1145年]])に改めて喬陵に厚葬されたという。 |
ウヤスは[[皇統 (金)|皇統]]4年([[1144年]])に[[熙宗 (金)|熙宗]]から'''献敏恭簡皇帝'''の[[諡号]]を贈られ、翌皇統5年([[1145年]])に改めて喬陵に厚葬されたという。 |
||
== 関連系図 == |
== 関連系図 == |
||
28行目: | 28行目: | ||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group=注釈}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* {{Cite book|和書|author=河内良弘|authorlink=河内良弘|year=1970|month=2|chapter=内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造|title=岩波講座 世界歴史9 中世3|publisher=[[岩波書店]]|ref=河内2}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=佐伯富|authorlink=佐伯富|editor=[[宮崎市定]]|year=1975|month=1|chapter=金国の侵入/宋の南渡|title=世界の歴史6 宋と元|series=中公文庫|publisher=[[中央公論社]]|ref=佐伯}} |
|||
* {{Cite book|和書|editor=[[三上次男]]・[[神田信夫]]|year=1989|month=9|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|isbn=4-634-44030-X}} |
|||
** {{Cite book|和書|author=河内良弘|chapter=第2部第I章2 契丹・女真|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=河内}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2022年10月20日 (木) 15:21時点における版
烏雅束(ウヤス、清寧7年(1061年) - 天慶3年(1113年))は、女真完顔(ジュルチン・ワンヤン)部の10代目の首長。漢名は不明。字は毛路完。廟号は康宗。
金の皇帝の太祖阿骨打(アクダ)・太宗呉乞買(ウキマイ)の長兄。祖父は景祖烏古廼(ウクナイ)。父は世祖劾里鉢(ガリベチ)。子は謀良虎(宗雄)・同喬茁・隈可。
生涯
『遼史』・『金史』によると、乾統3年(1103年)に叔父の穆宗盈歌(インコ、烏古廼の五男)が没すると、その跡を継いで首長となった。烏雅束は、弟の阿骨打と共に女真完顔部の勢力増大に全力を注いだという。天慶3年(1113年)に53歳で病没し、弟の阿骨打が後を継いだ。『金史』によれば、女真完顔部の先祖は朝鮮北部から移住して来た黒水靺鞨の一部族長であった函普(廟号は始祖)だったというが、池内宏(東洋史)の詳細な研究によれば、始祖以下昭祖(石魯(シル、烏古廼の父とされる))にいたる五代の事績は、歴史的事実とは認めがたいという[1]。史書には、始祖以下、徳帝烏魯、安帝跋海、献祖綏可、昭祖石魯、景祖烏古廼まで父子相続がなされたと記される。烏古廼の事績も歴史的事実とするには疑問の持たれるところもあるが、この時代に生女真完顔氏が按出虎(アルチュフ)水地方でようやく指導的立場に立ったと考えられる[1]。その後、首長権は父の劾里鉢(烏古廼の次男)、叔父の頗剌淑(ポラシェ、廟号は粛宗、烏古廼の四男)、盈歌(インコ)に継承され、烏雅束(ウヤス)がこれを引き継いだ[注釈 1]。モンゴル系契丹(キタン)人の遊牧民王朝、遼はインコに生女真節度使の職に任じた[1]。
ウヤスは節度使を職を継ぎ、完顔部の首長となり、生女真諸部を統合した[3][4][5]。また、配下の石適歓を派遣して曷懶甸地方(朝鮮半島北東部の咸興平野)を制圧し、完顔部の支配する領域は、かつての渤海国に匹敵するまでになった[1]。1113年、ウヤスが死去し、弟のアクダが都勃極烈(トボギレ)の地位に就いて首長となって遼からは節度使の職を授けられた[1]。しかし、アクダはウヤスの死後、すぐに遼に対して反乱を起こし、1115年、遼から自立して女真(ジュシェン)の国家、金を建てた[3][4][5]。
ウヤスは皇統4年(1144年)に熙宗から献敏恭簡皇帝の諡号を贈られ、翌皇統5年(1145年)に改めて喬陵に厚葬されたという。
関連系図
(追)景祖 烏古廼(ウクナイ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劾者(ヘテェ) | (追)世祖 劾里鉢(ガリベチ) | (追)粛宗 頗剌淑(ポラシェ) | (追)穆宗 盈歌(インコ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
撒改(サガイ) | (追)康宗 烏雅束(ウヤス) | (1)太祖 阿骨打(アクダ) 完顔旻 | (2)太宗 呉乞買(ウキマイ) 完顔晟 | 撻懶(ダラン) 完顔昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
粘没喝(ネメガ) 完顔宗翰 | (追)徳宗 斡本(オベン) 完顔宗幹 | 斡離不(オリブ) 完顔宗望 | (追)徽宗 繩果(ジェンガ) 完顔宗峻 | 斡啜(オジュ) 完顔宗弼 | (追)睿宗 訛里朶(オリド) 完顏宗輔 | 訛魯観(オルゴン) 完顔宗雋 | 蒲魯虎(ブルフ) 完顔宗磐 | 阿魯(アル) 完顔宗本 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(4)海陵王 迪古乃(テクナイ) 完顔亮 | (3)熙宗 合剌(ホラ) 完顔亶 | (5)世宗 烏禄(ウル) 完顔雍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 河内(1970)pp.41-44
- ^ 河内(1970)pp.44-48
- ^ a b 『金(中国の王朝)』 - コトバンク
- ^ a b 佐伯(1975)pp.254-256
- ^ a b 河内(1989)pp.228-230
参考文献
- 河内良弘「内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造」『岩波講座 世界歴史9 中世3』岩波書店、1970年2月。
- 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。
- 三上次男・神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X。
- 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。