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[[1956年]]、北大を休学して上京し、深川の印刷工場などで働く。[[砂川闘争]]に参加。[[1957年]]、印刷工場が倒産、函館の材木屋に勤めたのち北大に復学。シナリオ研究会に入会。当時高校生だった[[保阪正康]]も会員であった。北大教養部自治会委員長に選出され、[[日本共産党]]に入党する。全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出されるが、その後日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じてブント([[共産主義者同盟]])結成大会に参加する。
[[1956年]]、北大を休学して上京し、深川の印刷工場などで働く。[[砂川闘争]]に参加。[[1957年]]、印刷工場が倒産、函館の材木屋に勤めたのち北大に復学。シナリオ研究会に入会。当時高校生だった[[保阪正康]]も会員であった。北大教養部自治会委員長に選出され、[[日本共産党]]に入党する。全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出されるが、その後日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じてブント([[共産主義者同盟]])結成大会に参加する。


==== ブント参加後 ====
[[1959年]]5月、ブント書記長の[[島成郎]]は唐牛を説得するために札幌を訪れ、説得を受けた唐牛は全学連委員長に就任した。その場には、唐牛と北大の同期で、のちの北大文学部長・灰谷慶三もいた。
[[1959年]]5月、ブント書記長の[[島成郎]]は唐牛を説得するために札幌を訪れ、説得を受けた唐牛は全学連委員長に就任した。その場には、唐牛と北大の同期で、のちの北大文学部長・灰谷慶三もいた。


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1960年4月、唐牛は、60年安保闘争の前哨戦(4.26[[国会 (日本)|国会]]デモ)いわゆる「4.26国会前[[バリケード]]突破闘争」(4.26国会突入闘争)によって逮捕され、11月までの長期[[拘留]]となり、北大を除籍される。6月15日の全学連が国会前で衝突し、東大生の[[樺美智子]]が死亡した事件については[[拘置所]]にて知ることとなる。1960年6月19日に安保条約が自然承認されるとブントの運動は急速にしぼんでいった。唐牛は釈放されぬまま、7月、全学連委員長に再選される。唐牛は保釈で拘置所から出たのは、11月5日のことで、安保条約の自然承認から5か月近く経っていた。停滞するブント活動の間隙をついて出てきたのが、[[革命的共産主義者同盟全国委員会|革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)]]だった。
1960年4月、唐牛は、60年安保闘争の前哨戦(4.26[[国会 (日本)|国会]]デモ)いわゆる「4.26国会前[[バリケード]]突破闘争」(4.26国会突入闘争)によって逮捕され、11月までの長期[[拘留]]となり、北大を除籍される。6月15日の全学連が国会前で衝突し、東大生の[[樺美智子]]が死亡した事件については[[拘置所]]にて知ることとなる。1960年6月19日に安保条約が自然承認されるとブントの運動は急速にしぼんでいった。唐牛は釈放されぬまま、7月、全学連委員長に再選される。唐牛は保釈で拘置所から出たのは、11月5日のことで、安保条約の自然承認から5か月近く経っていた。停滞するブント活動の間隙をついて出てきたのが、[[革命的共産主義者同盟全国委員会|革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)]]だった。


==== 全学連委員長の辞任 ====
1961年1月、唐牛は革共同に加盟して周囲を驚かせた。これが問題になり、同年7月の全学連第17回定期全国大会で、唐牛は委員長の辞任を余儀なくされ、国際部長に格下げとなった。また、1961年4月には最初の結婚をし、[[江古田]]に所帯を構えた。
1961年1月、唐牛は革共同に加盟して周囲を驚かせた。これが問題になり、同年7月の全学連第17回定期全国大会で、唐牛は委員長の辞任を余儀なくされ、国際部長に格下げとなった。また、1961年4月には最初の結婚をし、[[江古田]]に所帯を構えた。


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1970年7月、北海道を再訪し、[[厚岸町|厚岸]]で漁師見習いを始める。その頃、ムツゴロウこと[[畑正憲]]が動物王国を作る準備をしており、唐牛も手伝いに駆り出された。
1970年7月、北海道を再訪し、[[厚岸町|厚岸]]で漁師見習いを始める。その頃、ムツゴロウこと[[畑正憲]]が動物王国を作る準備をしており、唐牛も手伝いに駆り出された。


その後、1971年2月、本格的な漁師になるため、「トド撃ち」で縁のできた[[紋別市|紋別]]に居を定め約10年余り長逗留した。
その後、1971年2月、本格的な漁師になるため、「トド撃ち」で縁のできた[[紋別市|紋別]]に居を定め約10年余り長逗留した。1978年9月に漁師を辞めた。


1978年11月、母の看病のために函館に戻った。函館滞在時には建設会社で働き口を得た。ちょうど[[青函トンネル]]の建設中であり、かつての全学連仲間は青函トンネル掘りでもやっているんだろうと噂していたが、唐牛は既に40歳を超えておりそのようなきつい仕事はできず、水道管の工事現場を自転車で回って写真に撮る仕事をしていた。
[[工事]][[現場監督]]などさまざまな[[職業]]に従事。以後全国を放浪。

1978年、母の看病のために函館に戻った。


1979年、母を失って故郷の函館を離れ、上京。
1979年、母を失って故郷の函館を離れ、上京。

1980年4月には遠軽の[[北海道家庭学校]]を訪れている。(唐牛は活動家仲間に「北海道家庭学校を創設した[[留岡幸助]]みたいな仕事がしたかった」と漏らしたことがあった。)

1981年、千葉県市川市に移住。エルムというオフィスコンピュータ販売会社のセールスマンになった。


1982年からは、[[徳田虎雄]]の要請で[[札幌徳洲会病院]]設立に協力した。
1982年からは、[[徳田虎雄]]の要請で[[札幌徳洲会病院]]設立に協力した。

2022年11月23日 (水) 10:20時点における版

唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937年8月10日 - 1984年3月4日[1])は、日本学生運動家。60年安保闘争当時の全学連委員長。

経歴

北海道函館市生まれ。幼少時に父を亡くし、郵便局の保険外交員をしていた母の元で育てられる。湯川国民学校、湯川中学校を経て、1956年、北海道函館東高等学校(現・市立函館高等学校)を卒業し、北海道大学教養部(文類)に入学。

1956年、北大を休学して上京し、深川の印刷工場などで働く。砂川闘争に参加。1957年、印刷工場が倒産、函館の材木屋に勤めたのち北大に復学。シナリオ研究会に入会。当時高校生だった保阪正康も会員であった。北大教養部自治会委員長に選出され、日本共産党に入党する。全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出されるが、その後日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じてブント(共産主義者同盟)結成大会に参加する。

ブント参加後

1959年5月、ブント書記長の島成郎は唐牛を説得するために札幌を訪れ、説得を受けた唐牛は全学連委員長に就任した。その場には、唐牛と北大の同期で、のちの北大文学部長・灰谷慶三もいた。

唐牛が全学連の中央執行委員長に就任して初めての大仕事は、時の防衛庁長官・伊能繁次郎が不用意に「東大にも造兵学科を設置する必要がある」と言った問題発言に反対しての防衛庁前の全学連デモの指揮、であった。22歳の唐牛はこのとき公務執行妨害で逮捕され、10日間拘留された。全学連委員長に就任して4日後のことだった。これが唐牛の最初の拘置所体験となった。

1960年1月、「1.16首相岸信介渡米阻止、羽田空港ロビー占拠闘争」で逮捕され、2月に保釈金を支払って出所した。逮捕者は唐牛を含めて約80名にもおよび、このとき全学連は組織的にほぼ壊滅状態になった。逮捕を免れた幹部は、書記長の島成郎ほか数名だけだった。唐牛の盟友・篠原浩一郎によれば、このとき保釈された唐牛と篠原は田中清玄によって赤坂の中華料理の料亭「栄林」に呼び出され、共産党にはくれぐれも気を付けろと念を押された。

1960年4月、唐牛は、60年安保闘争の前哨戦(4.26国会デモ)いわゆる「4.26国会前バリケード突破闘争」(4.26国会突入闘争)によって逮捕され、11月までの長期拘留となり、北大を除籍される。6月15日の全学連が国会前で衝突し、東大生の樺美智子が死亡した事件については拘置所にて知ることとなる。1960年6月19日に安保条約が自然承認されるとブントの運動は急速にしぼんでいった。唐牛は釈放されぬまま、7月、全学連委員長に再選される。唐牛は保釈で拘置所から出たのは、11月5日のことで、安保条約の自然承認から5か月近く経っていた。停滞するブント活動の間隙をついて出てきたのが、革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)だった。

全学連委員長の辞任

1961年1月、唐牛は革共同に加盟して周囲を驚かせた。これが問題になり、同年7月の全学連第17回定期全国大会で、唐牛は委員長の辞任を余儀なくされ、国際部長に格下げとなった。また、1961年4月には最初の結婚をし、江古田に所帯を構えた。

1962年5月、唐牛はブントと革命的共産主義者同盟の野合を企て、共産主義学生同盟の結成を画策するが中止となる(共学同事件)。この失敗の責任をとり、革共同全国委を脱退し、政治活動から身を引いた。

1962年5月、唐牛は全学連から手を引き、安保闘争の公務執行妨害などを巡る裁判で控訴中だったが、田中清玄の経営する石油販売会社(丸和産業株式会社)に嘱託の身分で入社した。

1963年2月26日、午後9時半からTBSラジオで吉永春子製作のドキュメンタリー番組「ゆがんだ青春―全学連闘士のその後」が放送され、全学連財政部長の東原吉伸が、書記長の島成郎や唐牛らが田中から400-500万円の資金援助をもらっており、今も田中の庇護にあることを暴露する音声が流れると凄まじい反響を呼んだ。(のちに東原に取材を行った佐野眞一は番組を吉永による盗み録りだとしている。[2]

唐牛は、1963年春に東京高裁で控訴棄却の判決を受け、宇都宮刑務所に収監され、同年11月に出所した。

田中清玄の許を離れてから

1965年2月、太平洋を単独横断した堀江謙一と組んでヨット会社「堀江マリン」を設立。同社は江の島に「レッツ・ゴー・セーリングクラブ」を開き、初心者向けヨットスクールを始めた(事務所は新橋)。また、この時代には江の島にバッティングセンターを開いていたこともあった。さらに新橋のヨットスクール事務所では、当時流行したアメリカ輸入のスーパーボールという非常に弾力性のある蛍光色のボールを売っていたという。

1968年1月には新橋に居酒屋「石狩」をオープンし経営(現在、ニュー新橋ビルが建っている場所にあった)。

1968年冬には、「石狩」の常連だった映像作家・阿部博久に誘われ、トド撃ち名人の渋田一幸に弟子入りするため紋別に出向いた。

1969年春には、「ヨットの学校の校長先生みたいなことをやっているのはもう飽き飽きした」と言い放ち、妻とも離婚して、蒸発してしまった。[3]東京から蒸発した後、妻を伴って四国八十八ヶ所めぐりを経て、鹿児島から与論島に渡った。沖縄が本土復帰するのは1972年のことだから、この時点では与論島が日本最南端の島だった。唐牛は与論島を1年半足らずで離れている。

1970年7月、北海道を再訪し、厚岸で漁師見習いを始める。その頃、ムツゴロウこと畑正憲が動物王国を作る準備をしており、唐牛も手伝いに駆り出された。

その後、1971年2月、本格的な漁師になるため、「トド撃ち」で縁のできた紋別に居を定め約10年余り長逗留した。1978年9月に漁師を辞めた。

1978年11月、母の看病のために函館に戻った。函館滞在時には建設会社で働き口を得た。ちょうど青函トンネルの建設中であり、かつての全学連仲間は青函トンネル掘りでもやっているんだろうと噂していたが、唐牛は既に40歳を超えておりそのようなきつい仕事はできず、水道管の工事現場を自転車で回って写真に撮る仕事をしていた。

1979年、母を失って故郷の函館を離れ、上京。

1980年4月には遠軽の北海道家庭学校を訪れている。(唐牛は活動家仲間に「北海道家庭学校を創設した留岡幸助みたいな仕事がしたかった」と漏らしたことがあった。)

1981年、千葉県市川市に移住。エルムというオフィスコンピュータ販売会社のセールスマンになった。

1982年からは、徳田虎雄の要請で札幌徳洲会病院設立に協力した。

1984年3月4日、直腸ガンのため死去。葬儀は19日に青山葬儀所で行われた。

その他

  • 全学連の活動資金が底をついたため、著名人のところにカンパを求めに出した。鶴見俊輔のところへ行くと10万円出してくれたが、鶴見が安保に対する抗議のために大学を辞職すると、夫人の横山貞子から「あの10万円、返して頂戴」と電話があったという。松本治一郎のところに行くと「いくら欲しいか」と聞かれたので「20万」と吹っかけたら、「二日後に来い」。二日後に行ってみると20万円をポンと渡された。森脇将光のところへ行くと「話はわかったが自分は金貸しだ。質草を持ってこい」と言われたので、使いに立った東原吉伸が、兄の壊れた自転車を持っていくと、「これで結構」と10万円貸してくれた。一番ひどかったのは清水幾太郎で、「今こそ国会へ」なんて煽っておきながら、なんだかんだと御託を並べるもののビタ一文出さなかった[4]

評価

自由民主党幹事長にもなった加藤紘一は、唐牛追想集にて、「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」との追悼文を寄せている。

参考文献

  • 西部邁 『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』、「第1章 哀しき勇者―唐牛健太郎」
文藝春秋、1986年/洋泉社MC新書、2007年/文春学藝ライブラリー、2018年

評伝

  • 『唐牛健太郎追想集』同刊行会、1986年
  • 佐野眞一 『唐牛伝 敗者の戦後漂流』小学館、2016年

脚注

  1. ^ 唐牛健太郎』 - コトバンク
  2. ^ 佐野眞一『唐牛伝』小学館、2016年。 
  3. ^ 日吉眞夫『屋久島 日常としての旅路』麗沢大学出版会、2005年。 
  4. ^ 堤堯久保紘之(・ゲスト加地伸行) 『蒟蒻問答』 100回。月刊WiLL 2014年9月号、106-107p。この発言は堤が唐牛から聞いたものと書かれている。

外部リンク

  • 唐牛 健太郎 - 函館市文化・スポーツ振興財団「函館ゆかりの人物伝」