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警察はすぐに、最新技術である電信を使用して、容疑者のいでたちを詳しく述べ、その逮捕を求める電文をパディントンに送った。「彼はクエーカー(kwaker)の服を着ている」("He is in the garb of a kwaker")「足近くまで届くブラウンのコートを着て」("with a brown coat on, which reaches nearly to his feet")。当時の電信表アルファベットには「Q」がなかったために、スラウの事務官は「Quaker」という語を「kwa」と綴った。「Kwaker」は最終的に理解されたが、しかし繰り返すよう数回要求したのちようやくのことであった。
警察はすぐに、最新技術である電信を使用して、容疑者のいでたちを詳しく述べ、その逮捕を求める電文をパディントンに送った。「彼はクエーカー(kwaker)の服を着ている」("He is in the garb of a kwaker")「足近くまで届くブラウンのコートを着て」("with a brown coat on, which reaches nearly to his feet")。当時の電信表アルファベットには「Q」がなかったために、スラウの事務官は「Quaker」という語を「kwa」と綴った。「Kwaker」は最終的に理解されたが、しかし繰り返すよう数回要求したのちようやくのことであった。


列車がパディントンに到着したとき、鉄道警察の巡査部長ウィリアム・ウィリアムズ(William Williams)がプラットフォームからその男(彼は実際にタウェルであった)のあとについていった。彼はシヴィリアンの長いオーバーコートを着ていた<ref>Wier, page 27</ref>。ウィリアムズはの後についてニュー・ロード・オムニバスに乗りこんだが、その中でタウェルはを車掌と間違え運賃として6ペンス硬貨を1枚与えた。その後、タウェルはコーヒー居酒屋に行き、後に下宿屋に行った。その間ずっとウィリアムズがそのあとについていった。翌朝、ウィリアムズはロンドン警視庁の警部ウィギンス(Inspector Wiggins)と一緒に戻ってきた。彼らは最終的に近くのコーヒー店でタウェルを逮捕した<ref name="Salford">{{Cite web
列車がパディントンに到着したとき、鉄道警察の巡査部長ウィリアム・ウィリアムズ(William Williams)がプラットフォームから人相書に一致する男(彼は実際にタウェルであった)を発見し、尾行した。彼はシヴィリアンの長いオーバーコートを着ていた<ref>Wier, page 27</ref>。ウィリアムズはタウェルの後について列車に乗りこんだが、その中でタウェルはウィリアムズを車掌と間違え運賃として6ペンス硬貨を1枚与えた。その後、タウェルはコーヒー店と下宿屋に行ったが、ウィリアムズは監視を継続した。翌朝、ウィリアムズはロンドン警視庁の警部ウィギンス(Inspector Wiggins)と一緒に戻ってきた。彼らは最終的に近くのコーヒー店でタウェルを逮捕した<ref name="Salford">{{Cite web
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|title=John Tawell, The Man Hanged by the Electric Telegraph
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[[File:Tawell trial.jpg|thumb|公判中のジョン・タウェル エイルズベリー治安判事の法廷 『Illustrated London News』1845年3月15日]]
[[File:Tawell trial.jpg|thumb|公判中のジョン・タウェル エイルズベリー治安判事の法廷 『Illustrated London News』1845年3月15日]]
タウェルの公判で<ref>Baxter, page 206 ff.</ref>、彼の暗い過去の歴史が明らかにされた。彼の弁護はサー・フィッツロイ・ケリー(Sir Fitzroy Kelly)が担った。弁護人はリンゴの大きな樽が一つ家の中にあったことを根拠に、サラ・ハートを死に至らしめた青酸が、彼女がリンゴの種子を食べたことによって誤って摂取されたという主張を試みた。この無謀な主張は、この著名な法廷弁護士がその後死ぬまで「アップル・ピップ」ケリー("Apple-pip" Kelly)(「リンゴの種子」ケリー)として知られることにつながった。タウェル自身も、サラが服毒自殺した陪審に納得させようとした。
タウェルの公判で<ref>Baxter, page 206 ff.</ref>、彼の暗い過去の歴史が明らかにされた。彼の弁護はサー・フィッツロイ・ケリー(Sir Fitzroy Kelly)が担った。弁護人はリンゴの大きな樽が一つ家の中にあったことを根拠に、サラ・ハートを死に至らしめた青酸が、彼女がリンゴの種子を食べたことによって誤って摂取されたという主張を試みた。この無謀な主張は、この著名な法廷弁護士がその後死ぬまで「アップル・ピップ」ケリー("Apple-pip" Kelly)(「リンゴの種子」ケリー)として知られることにつながった。タウェル自身も、サラが自ら服毒したと陪審に信じさせようとした。


タウェルはエイルズベリー・コートハウス(Aylesbury Courthouse)で有罪判決を受け、1845年3月28日にエイルズベリーのマーケット・スクエアで大勢の群衆が見守る中、公の場で絞首刑に処せられた。タウェルは自白を残して看守に渡したとされるが、これは公表されることなく有罪または無罪についてのさまざまな未確認の噂につながった<ref>Baxter, page 322 ff.</ref>。
タウェルはエイルズベリー・コートハウス(Aylesbury Courthouse)で有罪判決を受け、1845年3月28日にエイルズベリーのマーケット・スクエアで大勢の群衆が見守る中、公の場で絞首刑に処せられた。タウェルは自白を残して看守に渡したとされるが、これは公表されることなく、のちに有罪または無罪についてのさまざまな未確認の噂につながった<ref>Baxter, page 322 ff.</ref>。


==遺産==
==事件の影響==
この事件、電信の驚くべき効果に大衆の意を向けた。情報伝達、犯罪者特定したことが迅速に行われたことで電信の有用性が実証され、広く用いられるようになった。タウェルの事件は、犯罪者が鉄道列車で犯行現場から逃げようとした最初の有名な殺人事件としても重要であったし、青酸が故意の殺人に使用された最初のケースの1つでもあった<ref>Baxter, page 341</ref>。
この事件により、電信の驚くべき効果が一般に注目されることとなった。情報伝達、犯罪者特定が迅速に行われたことで電信の有用性が実証され、以後広く用いられるようになった。タウェルの事件は、犯罪者が初めて鉄道列車で犯行現場から逃げようとした殺人事件としても重要であ、青酸が故意の殺人に使用された最初の事件の1つでもあった<ref>Baxter, page 341</ref>。


タウェルを逮捕するために使用された電信送信機と受信機は、ロンドンの科学博物館(Science Museum)に保存されている<ref name="Salford" />。
タウェルを逮捕するために使用された電信送信機と受信機は、ロンドンの科学博物館(Science Museum)に保存されている<ref name="Salford" />。

2023年1月7日 (土) 08:25時点における版

ジョン・タウェル(John Tawell)
生誕 1784年
死没 1845年3月28日
バッキンガムシャー、エイルズベリー
死因 絞首刑
国籍 イギリス
職業 店員、薬剤師
著名な実績 遠距離通信の手段によって逮捕された最初の謀殺犯
罪名
  • 偽造 (1814年)
  • 謀殺(1845年)
刑罰
  • 追放 (1814年)
  • 死刑(1845年)
犯罪者現況 執行
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ジョン・タウェルJohn Tawell、1784年–1845年)は、イギリスの殺人犯であり、遠距離通信技術の結果として逮捕された最初の人物である。

タウェルは、1814年に偽造のためにオーストラリアに追放されたが仮出獄許可書(Ticket of leave)を受け、シドニーで薬屋を始めた。彼は同地で繁栄し、富を築いて数年後にオーストラリアを去った。

彼はイングランドに戻り、2番目の妻としてクエーカーの女性と結婚した。1845年に彼は青酸の投与による情婦サラ・ハート(Sarah Hart)の謀殺で有罪判決を受けた。その明白な動機は自分たちの関係が知られることへの恐怖であった。タウェルは列車で犯行現場から逃走したが、警察は電信を使用し目的地への到着前に容疑者の人相書を回覧することができた。タウェルは駅を出る際に目撃されており、翌日逮捕された。タウェルは後に絞首刑を宣告された。

前半生と犯罪歴

タウェルはロンドンで店員として仕事を始め、数年の間、クエーカー教会が所有する多くの企業で働いた。彼は非クエーカー教徒の女性メアリー・フリーマン(Mary Freeman)と交際した。このことにより、タウェルはクエーカー教会から除名された。彼は最終的にメアリーと結婚し、2子をもうけた。

1814年に、タウェルはアクスブリッジ銀行(Uxbridge Bank)の偽造銀行券の所持で訴えられた。これは死刑となる可能性のある犯罪であった。しかしながら、銀行側は死刑に値する重罪が露見して騒動になることを恐れ、タウェルに対し、より小さい罪での有罪を認めるよう迫った。その結果、判決は、シドニーの流刑地への追放14年に減刑された[1]。タウェルは最終的に仮出獄許可を受け、商売に成功した。植民地で最初の薬屋を開き、数多くの不動産や投機的事業を行った。1823年にシドニーで家族は彼に再会し、タウェルはオーストラリアで最初のクエーカーのコミュニティを設立しさまざまな慈善活動に従事し、タウェルの名誉は回復した。

1838年にタウェル一家はロンドンに戻った。結核をわずらっていたメアリーは年末までに死亡した。タウェルは看護師サラ・ローレンス(Sarah Lawrence)を雇いメアリーの世話をさせていた。サラ・ローレンスは後にサラ・ハートに改名した。メアリーとの婚姻関係が継続中にもかかわらず、タウェルはハートとの不倫関係を始めていた。サラ・ハートとの間に2人の子が生まれたが、タウェルは3人の妻子をスラウから1マイル離れたソルト・ヒル(Salt Hill)の家に住まわせ[2]、週1ポンドの生活費を与えるようになった。

1844年までに、タウェルは深刻な金銭問題を抱えるようになった。彼は、当時静脈瘤の治療薬とされていた、青酸を含む薬剤を2瓶買い、1845年1月1日にソルト・ヒルを訪れた。同地で彼は、彼女の家の中でビールを酌み交わして、サラを毒殺した。彼女の死体はその晩のうちに見つかった[3][4]

電信による逮捕

サラが死亡する直前、クエーカー教徒に特徴的な黒い服を着た男が、彼女の家を立ち去るのが見られていた。警察はこの人物を追跡し、人相書に一致する人物がスラウ(Slough)駅で列車に乗り、ロンドンのパディントン駅に向かっていたことを突き止めた。

警察はすぐに、最新技術である電信を使用して、容疑者のいでたちを詳しく述べ、その逮捕を求める電文をパディントンに送った。「彼はクエーカー(kwaker)の服を着ている」("He is in the garb of a kwaker")「足近くまで届くブラウンのコートを着て」("with a brown coat on, which reaches nearly to his feet")。当時の電信表アルファベットには「Q」がなかったために、スラウの事務官は「Quaker」という語を「kwa」と綴った。「Kwaker」は最終的に理解されたが、しかし繰り返すよう数回要求したのちようやくのことであった。

列車がパディントンに到着したとき、鉄道警察の巡査部長ウィリアム・ウィリアムズ(William Williams)がプラットフォームから人相書に一致する男(彼は実際にタウェルであった)を発見し、尾行した。彼はシヴィリアンの長いオーバーコートを着ていた[5]。ウィリアムズはタウェルの後について列車に乗りこんだが、その中でタウェルはウィリアムズを車掌と間違え、運賃として6ペンス硬貨を1枚与えた。その後、タウェルはコーヒー店と下宿屋に行ったが、ウィリアムズは監視を継続した。翌朝、ウィリアムズはロンドン警視庁の警部ウィギンス(Inspector Wiggins)と一緒に戻ってきた。彼らは最終的に近くのコーヒー店でタウェルを逮捕した[6]

公判中のジョン・タウェル エイルズベリー治安判事の法廷 『Illustrated London News』1845年3月15日

タウェルの公判で[7]、彼の暗い過去の歴史が明らかにされた。彼の弁護はサー・フィッツロイ・ケリー(Sir Fitzroy Kelly)が担った。弁護人はリンゴの大きな樽が一つ家の中にあったことを根拠に、サラ・ハートを死に至らしめた青酸が、彼女がリンゴの種子を食べたことによって誤って摂取されたという主張を試みた。この無謀な主張は、この著名な法廷弁護士がその後死ぬまで「アップル・ピップ」ケリー("Apple-pip" Kelly)(「リンゴの種子」ケリー)として知られることにつながった。タウェル自身も、サラが自ら服毒したと陪審に信じさせようとした。

タウェルはエイルズベリー・コートハウス(Aylesbury Courthouse)で有罪判決を受け、1845年3月28日にエイルズベリーのマーケット・スクエアで大勢の群衆が見守る中、公の場で絞首刑に処せられた。タウェルは自白を残して看守に渡したとされるが、これは公表されることなく、のちに有罪または無罪についてのさまざまな未確認の噂につながった[8]

事件の影響

この事件により、電信の驚くべき効果が一般に注目されることとなった。情報の伝達、犯罪者の特定が迅速に行われたことで電信の有用性が実証され、以後広く用いられるようになった。タウェルの事件は、犯罪者が初めて鉄道列車で犯行現場から逃げようとした殺人事件としても重要であり、青酸が故意の殺人に使用された最初の事件の1つでもあった[9]

タウェルを逮捕するために使用された電信送信機と受信機は、ロンドンの科学博物館(Science Museum)に保存されている[6]

脚注

  1. ^ Baxter, page 86-87
  2. ^ Salt Hill is now a district of Slough, but was then a separate community. See,
    Directory & Gazetteer of the Counties of Oxon, Berks & Bucks, p. 555, Manchester: Dutton, Allen, & Co., 1863.
  3. ^ Wier, pages 23-26.
  4. ^ Baxter, page 173 ff.
  5. ^ Wier, page 27
  6. ^ a b John Tawell, The Man Hanged by the Electric Telegraph”. University of Salford. 11 January 2009閲覧。
  7. ^ Baxter, page 206 ff.
  8. ^ Baxter, page 322 ff.
  9. ^ Baxter, page 341

文献

  • James Dodsley (1846). Annual Register. pp. 365–378 
  • Nigel Wier, The Railway Police, AuthorHouse, 2011 ISBN 1467000272
  • Carol Baxter, The Peculiar Case of the Electric Constable, Oneworld, London, 2013
  • Jill Buckland, Mort's Cottage 1838-1988, Kangaroo Press, Kenthurst NSW, 1988.

外部リンク