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「桂宮 (宜仁親王家)」の版間の差分

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[[1988年]]([[昭和]]63年)に[[三笠宮崇仁親王]]の第2皇子の[[桂宮宜仁親王|宜仁親王]]が創設した。[[宮号]]は宜仁親王の[[お印]]の[[カツラ (植物)|桂]]に由来する。創設時には宜仁親王は独身だったため、戦後初の独身での宮家設立である。また、宜仁親王はその後も[[結婚]]をせず子女がいなかったことから、[[2014年]]に宜仁親王が[[薨去]]したことにより、桂宮家は断絶した<ref>{{Cite web|url=https://www.kunaicho.go.jp/about/history/history07.html|title=旧・桂宮|publisher=宮内庁|accessdate=2023-03-14}}</ref>。
[[1988年]]([[昭和]]63年)に[[三笠宮崇仁親王]]の第2皇子の[[桂宮宜仁親王|宜仁親王]]が創設した。[[宮号]]は宜仁親王の[[お印]]の[[カツラ (植物)|桂]]に由来する。創設時には宜仁親王は独身だったため、戦後初の独身での宮家設立である。また、宜仁親王はその後も[[結婚]]をせず子女がいなかったことから、[[2014年]]に宜仁親王が[[薨去]]したことにより、桂宮家は断絶した<ref>{{Cite web|url=https://www.kunaicho.go.jp/about/history/history07.html|title=旧・桂宮|publisher=宮内庁|accessdate=2023-03-14}}</ref>。


== 背景 ==週刊朝日
== 背景 ==
桂宮家は[[高円宮憲仁親王|憲仁親王]]が創設した[[高円宮]]の次に創設された[[直宮家]]以外の宮家で、三笠宮の継承者は崇仁親王の長男の[[寬仁親王]]であり、次男の宜仁親王は[[臣籍降下]]するか新宮家を創立するかのどちらかであった。普通は婚約と同時に宮家を創立するが、宜仁親王は「苦しむ人を増やすだけだ」といって生涯結婚しない考え方を示していたので、[[独身]]での宮家の創立となった<ref>{{Cite web|url=https://dot.asahi.com/wa/2014061800098.html?page=2|title=桂宮さまご逝去 独身で宮家創立の理由|publisher=AERA dot.|accessdate=2023-03-15}}</ref>。
桂宮家は[[高円宮憲仁親王|憲仁親王]]が創設した[[高円宮]]の次に創設された[[直宮家]]以外の宮家で、三笠宮の継承者は崇仁親王の長男の[[寬仁親王]]であり、次男の宜仁親王は[[臣籍降下]]するか新宮家を創立するかのどちらかであった。普通は婚約と同時に宮家を創立するが、宜仁親王は「苦しむ人を増やすだけだ」といって生涯結婚しない考え方を示していたので、[[独身]]での宮家の創立となった<ref>{{Cite web|url=https://dot.asahi.com/wa/2014061800098.html?page=2|title=桂宮さまご逝去 独身で宮家創立の理由|publisher=AERA dot.|accessdate=2023-03-15}}</ref>。



2023年3月16日 (木) 09:24時点における版

桂宮(かつらのみや)は、かつて存在した日本宮家の1つ。

創設

1988年昭和63年)に三笠宮崇仁親王の第2皇子の宜仁親王が創設した。宮号は宜仁親王のお印に由来する。創設時には宜仁親王は独身だったため、戦後初の独身での宮家設立である。また、宜仁親王はその後も結婚をせず子女がいなかったことから、2014年に宜仁親王が薨去したことにより、桂宮家は断絶した[1]

背景

桂宮家は憲仁親王が創設した高円宮の次に創設された直宮家以外の宮家で、三笠宮の継承者は崇仁親王の長男の寬仁親王であり、次男の宜仁親王は臣籍降下するか新宮家を創立するかのどちらかであった。普通は婚約と同時に宮家を創立するが、宜仁親王は「苦しむ人を増やすだけだ」といって生涯結婚しない考え方を示していたので、独身での宮家の創立となった[2]

脚注

  1. ^ 旧・桂宮”. 宮内庁. 2023年3月14日閲覧。
  2. ^ 桂宮さまご逝去 独身で宮家創立の理由”. AERA dot.. 2023年3月15日閲覧。