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|親戚      =
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|影響を受けたもの= [[今西錦司]]、[[梅棹忠夫]]
|影響を受けたもの= [[今西錦司]]、[[梅棹忠夫]]
|影響を与えたもの= [[文化人類学]]、[[登山]]論、[[冒険]]論
|影響を与えたもの= [[文化人類学]]、[[ノンフィクション]]、[[登山]]論、[[冒険]]論、[[戦争責任]]論
}}
}}
'''本多 勝一'''(ほんだ かついち、[[1932年]]{{efn2|生年を[[1931年]]([[昭和]]6年)や[[1933年]](昭和8年)とする著書やインタビュー、資料もある。詳しくは「[[#生年月日|生年月日]]」節を参照。}}[[1月28日]] - )は、[[日本]]の[[作家]]・[[ジャーナリスト]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。元[[朝日新聞]][[編集委員]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
'''本多 勝一'''(ほんだ かついち、[[1932年]]{{refnest|group="†"|生年を[[1931年]]([[昭和]]6年)や[[1933年]](昭和8年)とする著書やインタビュー、資料もある。詳しくは「[[#生年月日|生年月日]]」節を参照。}}[[1月28日]] - )は、[[日本]]の[[作家]]・[[ジャーナリスト]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。元[[朝日新聞]][[編集委員]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[長野県]][[下伊那郡]][[大島村 (長野県)|大島村]](現在の[[松川町]])に生まれる{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}{{efn2|妹の節子は著書『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年――女性障害者の生きる闘い』がある<ref>本多節子 『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年:女性障害者の生きる闘い』 明石書店、2005年2月、著者略歴。</ref>。}}。本名は「しょういち」と読む。旧制長野県飯田中学校(のち長野県飯田高松高等学校。現・[[長野県飯田高等学校]])<ref>本多勝一『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』p.247</ref>の同級に[[富永明夫]]がいた<ref>『本多勝一集』第4巻p.486</ref>。[[千葉大学薬学部・大学院薬学研究院|千葉大学薬学部]]卒、[[京都大学]]中退<ref>花田紀凱『財務省「文書改竄」報道と朝日新聞 誤報・虚報全史』p.199</ref><ref>『毎日年鑑』1969年版p.160</ref>。ただし[[梅棹忠夫]]は「本多勝一君は、[[京都大学大学院農学研究科・農学部|京都大学農学部]]農林生物学科を卒業」<ref>梅棹忠夫『探検の時代』p.366</ref>と書いており、浅井清も「千葉大薬部卒業後京都大学農学農林生物学科へ移り、三十四年卒業」<ref>浅井清『新研究資料現代日本文学』第4巻、p.44</ref>と記している
[[長野県]][[下伊那郡]][[大島村 (長野県)|大島村]](現在の[[松川町]])に生まれる{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}{{refnest|group="†"|妹の節子は著書『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年――女性障害者の生きる闘い』がある<ref>本多節子 『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年:女性障害者の生きる闘い』 明石書店、2005年2月、著者略歴。</ref>。}}。旧制長野県飯田中学校(のち長野県飯田高松高等学校。現・[[長野県飯田高等学校]])<ref>本多勝一『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』p.247</ref>の同級に[[富永明夫]]がいた<ref>『本多勝一集』第4巻p.486</ref>。[[千葉大学薬学部・大学院薬学研究院|千葉大学薬学部]]業後1954年に[[京都大学]][[農学部]]農林生物学科へ入学、[[山岳]]に入部{{R|aack_201103}}


1955年11月26日、[[今西錦司]]と並び生涯にわたって師と仰ぐこととなる[[梅棹忠夫]]の謦咳に接する。山岳部二回生を中心に[[ヒマラヤ]]遠征計画を立てたものの若手OBの反対に遭っていた本多らは、[[カラコルム]]=[[ヒンズークシ]]学術探検隊から帰還した梅棹に「煽動」され、まず[[探検家]]OBを講師とした「第1回探検講座」を5回にわたって実施{{R|aack_201103}}。講師は今西、[[中尾佐助]]、[[川喜田二郎]]、[[桑原武夫]]、梅棹、[[藤田和夫]]であった{{R|aack_201103}}。探検講座の最終回を終えた1956年3月2日の夜、同じく山岳部に所属していた[[高谷好一]]ら11人で日本初の[[探検]]部を創設{{R|aack_201103}}。初代顧問は今西、梅棹、中尾、藤田、川喜田、[[伊谷純一郎]]であった{{R|aack_201103}}。
1956年、京都大学在学中に[[山岳部]]の仲間とともに日本初の[[探検]]部を創設{{R|aack_201103}}。初代顧問は[[今西錦司]]、[[中尾佐助]]、[[梅棹忠夫]]、[[川喜田二郎]]、[[藤田和夫]]、[[伊谷純一郎]]であった{{R|aack_201103}}。


1957年、本多が隊長を務める京大探検部の3人でヒマラヤの6000m級[[処女峰]][[シャハーンドク]]の登頂を試みたが、頂上まで100m余りの地点で敗退{{refnest|group="†"|初挑戦から30年を経た1987年、[[日本山岳会]]を母体とする6人の隊(本多が隊長、[[根深誠]]が登攀隊長)が挑戦したが果たせなかった。翌1988年、日本隊は先発隊5人と後発隊5人の2隊で挑み、7月22日、先発隊の[[根深誠]]隊長ら3人が初登頂を果たした。}}{{sfn|本多|1989|pp=189-191}}。
1959年、朝日新聞社に入社{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。同年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく「常識」なしの昭和34年組と社内で皮肉られたという<ref>岡崎洋三『本多勝一の研究』p.185</ref>。1968年から同社[[編集委員]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。1991年に同社を定年退職{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。


1959年、朝日新聞社に入社{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。同期に[[筑紫哲也]]、[[轡田隆史]]らがいる{{refnest|group="†"|同年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく「常識」なしの昭和34年組と社内で皮肉られたという<ref>岡崎洋三『本多勝一の研究』p.185</ref>。}}。
1993年7月から4号発行された月刊金曜日の編集委員となり、1993年11月の[[週刊金曜日]]発刊後も編集委員を務める{{R|kinyobi_history}}。1994年5月から1997年3月まで編集長を務めた{{R|kinyobi_history}}。


1959年4月から1962年7月まで[[札幌]]勤務{{R|hokkaido_20170214}}。当時、朝日新聞や小雑誌などに執筆した[[紀行文]]・[[ルポルタージュ]]は1979年に『北海道探検記』として発刊された{{R|hokkaido_20170214}}。
=== 生年月日 ===
本多の生年は、著書によって[[1931年]]([[昭和]]6年)、[[1932年]]([[昭和]]7年)、[[1933年]]([[昭和]]8年)の3通りを記しており、どれが正しいのかは不明である。たとえば『中国の旅』ハードカバー版([[1972年]]、[[朝日新聞社]])によると[[1931年]]であり、同書文庫版([[1981年]]、[[朝日新聞社]])によると[[1933年]]であり、『殺される側の論理』([[1982年]]、[[朝日新聞社]])によると[[1932年]]であるという。2011年のインタビューでは本多は[[1931年]]生まれと語っている<ref>{{Cite news |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/2011_watashito/001.html |title=私と赤旗/本多勝一さん |newspaper=しんぶん赤旗 |date=201101-31}}</ref>。生年月日を記した資料『現代日本人名録98』および『20世紀日本人名事典』によると、[[1932年]][[1月28日]]生まれだが戸籍上は[[1931年]][[11月22日]]生まれであるという<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ |authorlink= |date=1998-01 |title=現代日本人名録98 |publisher=日外アソシエーツ/紀伊國屋書店 |volume=4 |isbn=}}</ref>{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。[[殿岡昭郎]]の『体験的本多勝一論』([[2003年]]、[[日新報道]])によると、[[1987年]][[3月3日]]、[[京都地方裁判所|京都地裁]]で開かれた[[ベトナム]]僧尼団[[焼身自殺]]をめぐる民事裁判の原告本人質問にて、本多は「[[1933年]][[4月28日]]生まれである可能性がある」と発言している。本多は「私はですね、いわゆる旧制中学に入って間もなく戦争が終わった世代なものですから」<ref>本多勝一『大東亜戦争と50年戦争』p.92</ref>、「私が(旧制)中学二年になった一九四五年四月」<ref>本多勝一『南京大虐殺と日本の現在』p.185</ref>と述べている。


1963年1月22日、[[愛知大学山岳部薬師岳遭難事故]]にて大[[スクープ]]{{R|yamakei_20201209}}。[[薬師岳]]の太郎小屋脇にヘリコプターで強行着陸し、本多が小屋の中を確認して報道したものであり、号外が発行された{{R|yamakei_20201209}}。

1963年の朝日新聞連載『カナダ・[[イヌイット|エスキモー]]』が注目を集め、つづいて1964年には『[[ニューギニア]]高地人』を連載、反響を呼んだ{{R|kinyobi_20170214}}{{Sfn|本多|1971|pp=59}}。本多は[[ベトナム戦争]]の取材に取り組みたかったが、一連の連載が好評を博したため、1965年には『[[アラビア半島|アラビア]]遊牧民』を連載{{R|kinyobi_20170214}}{{Sfn|本多|1971|pp=59}}。これらの[[ルポルタージュ]]は「極限の民族」三部作とされ、[[文化人類学]]にインパクトを与えた{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}{{Sfn|本多|1971|pp=59-76}}{{R|kakuhata_20201707}}。1964年に[[菊池寛賞]]を受賞{{refnest|group="†"|のちに[[文藝春秋社]]の姿勢に批判を強め、返却。}}。

1967年には[[ベトナム戦争]]が苛烈を極める[[南ベトナム]]を1年にわたって現地取材{{Sfn|本多|1981|page=13}}、翌1968年には[[北ベトナム]]を取材し{{Sfn|本多|1981|page=13}}、ルポルタージュを連載。1968年に第11回[[日本ジャーナリスト会議|JCJ賞]]および第22回[[毎日出版文化賞]]を受賞、1969年に[[ボーン・上田記念国際記者賞]]を受賞。

1969年には[[アメリカ合州国]]を半年にわたって取材{{Sfn|本多|1981|page=279}}。

[[日中国交正常化]]前の1971年には中国における戦争中の日本軍の行動を中国側の視点から掘り起こした『中国の旅』を連載{{R|asahibunko_19811201}}。本書は[[南京事件論争]]の大きなきかっけとなった。

1982年には『日本語の作文技術』を発刊し、自身最大のベストセラーとなる{{R|aack_201103}}。

朝日新聞[[編集委員]]を長らく務め、1991年に定年退職{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。

『[[朝日ジャーナル]]』の最終号となった1992年5月29日号の連載コラム「貧困なる精神」において有志による[[日刊新聞]]の発行構想を発表した{{Sfn|本多|1993|pp=61-71}}。

『[[噂の真相]]』1993年2月号のインタビューで日刊紙に先行して[[週刊誌]]の創刊を予定していることを公表{{Sfn|本多|1993|pp=109-114}}。1993年7月から4号発行された月刊金曜日の編集委員となり、「創刊の言葉」の原案を起草{{Sfn|本多|1993|pp=106}}。1993年11月の[[週刊金曜日]]発刊後も編集委員を務める{{R|kinyobi_history}}。1994年5月から1997年3月まで編集長を務めた{{R|kinyobi_history}}。

== 評価 ==
30代になったころから「極限の民族」三部作やベトナム戦争、アメリカにおける[[黒人]]や[[アメリカ先住民#インディアン(北米)|インディアン]]の問題などの多彩な[[ルポルタージュ]]を連載し続け、「至るところでセンセーションを巻き起こした」([[祖父江孝男]]){{Sfn|本多|1971|pp=59}}。

[[角幡唯介]]によれば、[[沢木耕太郎]]は意識する書き手の1人として本多を挙げており、「事実」を厳密に扱う本多の姿勢が日本の[[ノンフィクション]]界に大きな影響を与えたとされる{{R|kakuhata_20201707}}。

角幡は、近代登山や探検、冒険を考える上で本多の著書は必読であるとする{{R|kakuhata_20201707}}。2012年には『冒険と日本人』『新版・山を考える』『リーダーは何をしていたか』の3冊から再編集された『日本人の冒険と「創造的な登山」』が[[山と溪谷社]]から文庫で発刊され{{refnest|group="†"|解説は角幡唯介。}}{{R|yamakei_20120525}}、2021年には『アムンセンとスコット』が朝日文庫で再版された{{refnest|group="†"|解説は[[山口周]]。}}{{R|asahibunko_20211207}}。

自身最大のベストセラーは1982年の『日本語の作文技術』であり、発刊から32年を経た2014年には[[林修]]の推薦文による帯で再版されるなど、ロングセラーとなっている{{R|thepage_20150202}}。

== 受賞歴 ==
*1964年 - 「未開民族の内に身を挺して、苦楽の生活を共にし、画期的な報道をした功績」により[[菊池寛賞]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}{{refnest|group="†"|1980年代になって、本多は文藝春秋の政治的スタンスや、同社が発行していた雑誌『[[諸君!]]』などに掲載された本多に対する攻撃的な論説に反発して、賞品を文藝春秋社に送り返している<ref>{{Cite journal|author=本多勝一|title=菊池寛賞を返す(貧困なる精神)|journal=潮|issue=272|publisher=潮出版社|date=1982-01|pages=148-150|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I2288874-00}}</ref>{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。}}。
*1964年 - 『カナダ・エスキモー』で朝日新聞社賞{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
*1968年、『戦場の村』で第11回[[日本ジャーナリスト会議|JCJ賞]]および第22回[[毎日出版文化賞]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
*1969年 - [[ボーン・上田記念国際記者賞]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
*1987年 - 「ルポルタージュを通じてアジアの今日的問題を掘り下げた功績」により、第3回[[大同生命]]地域研究賞特別賞{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
== 主張 ==
== 主張 ==
=== 日本語 ===
=== 日本語 ===
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2010年9月12日付の「赤旗」読者の広場(投書欄)に一読者として「選挙制度改正大運動に賛成」と題して小選挙区制を批判、2021年6月20日付同欄に東京都・ジャーナリスト・89歳として「東京五輪反対」の投書を行っている。
2010年9月12日付の「赤旗」読者の広場(投書欄)に一読者として「選挙制度改正大運動に賛成」と題して小選挙区制を批判、2021年6月20日付同欄に東京都・ジャーナリスト・89歳として「東京五輪反対」の投書を行っている。


== 受賞歴 ==
== エピソード ==
=== 生年月日 ===
*1964年 - 「未開民族の内に身を挺して、苦楽の生活を共にし、画期的な報道をした功績」により[[菊池寛賞]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}{{efn2|1980年代になって、本多は文藝春秋の政治的スタンスや、同社が発行していた雑誌『[[諸君!]]』などに掲載された本多に対する攻撃的な論説に反発して、賞品を文藝春秋社に送り返している<ref>{{Cite journal|author=本多勝一|title=菊池寛賞を返す(貧困なる精神)|journal=潮|issue=272|publisher=潮出版社|date=1982-01|pages=148-150|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I2288874-00}}</ref>{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。}}。
本多の生年は、著書によって[[1931年]]([[昭和]]6年)、[[1932年]]([[昭和]]7年)、[[1933年]]([[昭和]]8年)の3通りを記しており、どれが正しいのかは不明である。たとえば『中国の旅』ハードカバー版([[1972年]]、[[朝日新聞社]])によると[[1931年]]であり、同書文庫版([[1981年]]、[[朝日新聞社]])によると[[1933年]]であり、『殺される側の論理』([[1982年]]、[[朝日新聞社]])によると[[1932年]]であるという。2011年のインタビューでは本多は[[1931年]]生まれと語っている<ref>{{Cite news |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/2011_watashito/001.html |title=私と赤旗/本多勝一さん |newspaper=しんぶん赤旗 |date=201101-31}}</ref>。生年月日を記した資料『現代日本人名録98』および『20世紀日本人名事典』によると、[[1932年]][[1月28日]]生まれだが戸籍上は[[1931年]][[11月22日]]生まれであるという<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ |authorlink= |date=1998-01 |title=現代日本人名録98 |publisher=日外アソシエーツ/紀伊國屋書店 |volume=4 |isbn=}}</ref>{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。[[殿岡昭郎]]の『体験的本多勝一論』([[2003年]]、日新報道)によると、[[1987年]][[3月3日]]、[[京都地方裁判所|京都地裁]]で開かれた[[ベトナム]]僧尼団[[焼身自殺]]をめぐる民事裁判の原告本人質問にて、本多は「[[1933年]][[4月28日]]生まれである可能性がある」と発言している。本多は「私はですね、いわゆる旧制中学に入って間もなく戦争が終わった世代なものですから」<ref>本多勝一『大東亜戦争と50年戦争』p.92</ref>、「私が(旧制)中学二年になった一九四五年四月」<ref>本多勝一『南京大虐殺と日本の現在』p.185</ref>と述べている。
*1964年 - 『カナダ・エスキモー』で[[朝日新聞社賞]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
*1968年、『戦場の村』で第11回[[日本ジャーナリスト会議|JCJ賞]]および第22回[[毎日出版文化賞]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
*1969年 - [[ボーン・上田記念国際記者賞]]{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。
*1987年 - 「ルポルタージュを通じてアジアの今日的問題を掘り下げた功績」により、第3回[[大同生命地域研究賞]]特別賞{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。


== 評価 ==
1963年の朝日新聞での連載「カナダ[[イヌイット|エスキモー]]」により注目され、「[[ニューギニア]]高地人」と「[[アラビア半島|アラビア]]遊牧民」も相次いでヒットした{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。これらは「極限の民族」三部作とされ、学生時代の[[ヒマラヤ]]探検の経験と、[[文化人類学]]の視点が生かされたものである{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。1968年の「戦場の村」以降は、[[侵略]]される側や[[差別]]される側の視点が強調された作品が多いとの評価がある{{sfn|日外アソシエーツ|2004|p=2267}}。

[[角幡唯介]]は、近代登山や探検、冒険を考える上で本多の著書は必読であるとする{{R|kakuhata_20201707}}。また、[[沢木耕太郎]]が意識する書き手の1人として挙げているという{{R|kakuhata_20201707}}。

== 論争 ==
=== 「百人斬り競争」報道に関する名誉毀損訴訟 ===
=== 「百人斬り競争」報道に関する名誉毀損訴訟 ===
『中国の旅』にて、「2人の日本軍将校が[[百人斬り競争]]を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める[[訴訟]]を起こされた([[百人斬り競争#名誉毀損裁判]])。[[2005年]][[8月24日]][[東京地方裁判所|東京地裁]]は、『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である{{sfn|百人斬り訴訟を支援する会|2007|p=193}}とし、また「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを指摘した場合」(109頁)が死者に対する名誉毀損の判断基準であるとして、その上で、本多勝一の著述が「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない{{sfn|百人斬り訴訟を支援する会|2007|p=194}}」と判断して、60年余り前の記事を訂正しなかったことについて先行する違法行為がなく、また、民法724条の除斥期間が経過している{{sfn|百人斬り訴訟を支援する会|2007|p=不明}}{{要ページ番号|date=2018年12月27日 (木) 09:46 (UTC)}}として原告の請求を棄却した。原告は[[控訴]]したが、[[2006年]][[5月24日]][[東京高等裁判所|東京高裁]]は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]したが、[[2006年]][[12月22日]][[最高裁判所 (日本)|最高裁]]は上告を棄却した。{{main|百人斬り競争}}
『中国の旅』にて、「2人の日本軍将校が[[百人斬り競争]]を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める[[訴訟]]を起こされた([[百人斬り競争#名誉毀損裁判]])。[[2005年]][[8月24日]][[東京地方裁判所|東京地裁]]は原告の請求を棄却した。原告は[[控訴]]したが、[[2006年]][[5月24日]][[東京高等裁判所|東京高裁]]は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]したが、[[2006年]][[12月22日]][[最高裁判所 (日本)|最高裁]]は上告を棄却した。{{main|百人斬り競争}}

=== 写真のキャプションの正確性 ===
=== 写真のキャプションの正確性 ===
[[File:Baoshan1937-Asahi-01.jpg|thumb|right|200px|本多が自著『中国の日本軍』に掲載した写真]]
[[File:Baoshan1937-Asahi-01.jpg|thumb|right|200px|本多が自著『中国の日本軍』に掲載した写真]]


『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけた写真を掲載している{{要ページ番号|date=2018年12月27日 (木) 09:46 (UTC)}}{{efn2|この写真は[[笠原十九司]]『南京事件』Ⅲ章の扉にも使用されていた。}}。産経新聞によれば、この写真は『アサヒグラフ』の1937年11月10日号に掲載された写真で、日本軍が保護する"日の丸部落"で農作業を終えて日本軍兵士に守られながら帰宅する女性や子供が写ったものであったが、中国側はこれを「旧日本軍が女性らを連行する場面」と紹介していたという<ref name="産経081217" />。この写真は[[南京大虐殺紀念館]]でも展示されていたが、信憑性に乏しいと指摘されていた<ref name="産経081217" />。同館がこの写真の展示をとりやめたことが2008年12月に明らかになっている<ref name="産経081217">{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812172107008-n1.htm |title=南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去 - MSN産経ニュース |newspaper=MSN産経ニュース |publisher= |accessdate=2018-12-27|archiveurl=https://megalodon.jp/2008-1217-2147-14/sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812172107008-n1.htm |archivedate=2008-12-17}}</ref>。[[2014年]]にこの件について週刊新潮からのインタビューを受け、「アサヒグラフに別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです」「確かに誤用のようです」とコメントした<ref>「週刊新潮」2014年9/25号。</ref>。
『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけた写真を掲載している{{要ページ番号|date=2018年12月27日 (木) 09:46 (UTC)}}{{refnest|group="†"|この写真は[[笠原十九司]]『南京事件』Ⅲ章の扉にも使用されていた。}}。産経新聞によれば、この写真は『アサヒグラフ』の1937年11月10日号に掲載された写真で、日本軍が保護する"日の丸部落"で農作業を終えて日本軍兵士に守られながら帰宅する女性や子供が写ったものであったが、中国側はこれを「旧日本軍が女性らを連行する場面」と紹介していたという<ref name="産経081217" />。この写真は[[南京大虐殺紀念館]]でも展示されていたが、信憑性に乏しいと指摘されていた<ref name="産経081217" />。同館がこの写真の展示をとりやめたことが2008年12月に明らかになっている<ref name="産経081217">{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812172107008-n1.htm |title=南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去 - MSN産経ニュース |newspaper=MSN産経ニュース |publisher= |accessdate=2018-12-27|archiveurl=https://megalodon.jp/2008-1217-2147-14/sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812172107008-n1.htm |archivedate=2008-12-17}}</ref>。[[2014年]]にこの件について週刊新潮からのインタビューを受け、「アサヒグラフに別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです」「確かに誤用のようです」とコメントした<ref>「週刊新潮」2014年9/25号。</ref>。

『本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に"略奪"された(写真;南京市提供)」とキャプションをつけた写真を掲載しているが、この写真について[[東中野修道]]は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された「民家で"買い込んだ"鶏を首にぶら下げて前進する兵士」という日本側が撮った写真であったと指摘した。<ref>[[東中野修道]]・小林進・福永慎次郎  『南京事件「証拠写真」を検証する』 草思社、2005年2月。{{要ページ番号|date=2014年11月10日}}</ref>。

=== ベトナムの僧侶に関する報道 ===
[[ベトナム]]が[[ベトナム人民軍|北ベトナム軍]]に[[サイゴン陥落|侵略統一]]された後、旧[[ベトナム共和国|南ベトナム]]の[[カントー|カントー市]]にある永厳寺で、12人の[[僧|僧侶]]が[[集団自殺]]をした。[[ベトナム共産党|共産政府]]への抗議の[[自殺]]である。これについて本多は自著「ベトナムはどうなっているか」([[朝日新聞社]]刊)で、「[[南ベトナム共和国|サイゴン当局]]の[[捜査]]によれば、[[色気]]違い坊主による単なる無理[[心中]]事件。」と発表した。

これを受けて元[[東京学芸大学]][[教授]]の[[殿岡昭郎]]が、『[[諸君!]]』(1981年5月号)において、「本多氏は[[ベトナム共産党|ハノイ]]の[[プロパガンダ|スピーカー役]]を果たしている」と批判。殿岡は、[[:vi:Giáo hội Phật giáo Việt Nam Thống nhất|ベトナム統一仏教会最高委員会]]のマン・ジャックと会って真相を聞き、焼身自殺直前の勤行を録音した[[磁気テープ|テープ]]を入手し、心中などでなく共産政府への抗議の[[殉教]]である確証をつかんでいたのである。

すると本多が連載する「貧困なる精神(1981年9月号)」において、「敵を攻撃するときの文章作法」と題し、匿名扱いの殿岡を、「[[馬鹿]]か無能」「物笑いの種」などと書いて罵倒し、さらに殿岡が勤める学芸大学当局に「殿岡氏のような程度の低い教授が一度任命されれば、もはやこれを罷免する権利はどこにもないのでしょうか。」という類の内容を含む「公開質問状」と称する手紙を送り続ける。

学長や教授会幹部は、「無礼な手紙に答える必要はない」とし無視するが、これから三ヶ月後、殿岡は学芸大学を退職した。

その後、『諸君!』の発行元[[文藝春秋]]や殿岡を相手取り、[[損害賠償]]請求訴訟を起こす。本多は、[[ベトナム共産党|ハノイ当局]]の見解を伝えただけなのに、それが本多本人の見解であるかのように執筆した点が[[名誉毀損]]であると主張した。なお、本多は裁判中、殉教自殺か心中かという争点からは避け続けた。そして1992年2月25日、東京地裁民事三十六部において「本多氏の取材内容の信憑性を疑ったことは相当の根拠があった。」とし、本多の請求を棄却する判決が下った<ref>{{Cite web |url=http://sayoku.info/cgi/list.cgi?number=sayoku_20100601305_ |title=出典 |publisher=汲取り屋 |date=2010-06-01 |accessdate=2021-10-28}}</ref>。


=== 「週刊金曜日」の編集と経営 ===
=== 「週刊金曜日」の編集と経営 ===
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=== 単著 ===
=== 単著 ===
* 『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』[[角川書店]] 1958
* 『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』[[角川書店]] 1958
* 『カナダ・エスキモー』[[藤木高嶺]]写真 [[朝日新聞社]] 1963 のち[[講談社文庫]]、[[朝日文庫]]  
* 『カナダ・エスキモー』[[藤木高嶺]]写真 [[朝日新聞社]] 1963 のち[[講談社文庫]]、[[朝日文庫]]  (解説:[[梅棹忠夫]])
* 『ニューギニア高地人』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1964 のち講談社文庫、朝日文庫  
* 『ニューギニア高地人』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1964 のち講談社文庫、朝日文庫  (解説:[[中尾佐助]])
* 『エスキモー探検記』[[あかね書房]] 少年少女20世紀の記録 1965 
* 『エスキモー探検記』[[あかね書房]] 少年少女20世紀の記録 1965 
* 『アラビア遊牧民』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1966 のち講談社文庫、朝日文庫  
* 『アラビア遊牧民』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1966 のち講談社文庫、朝日文庫  (解説:[[桑原武夫]])
* 『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』朝日新聞社 1968 のち文庫 
* 『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』朝日新聞社 1968 のち文庫 (解説:[[古在由重]])
* 『冒険と日本人』[[二見書房]] 1968 のち[[集英社文庫]]、朝日文庫  
* 『冒険と日本人』[[二見書房]] 1968 のち[[集英社文庫]]、朝日文庫  
* 『生きている石器時代 ニューギニアに人食い部落をもとめて』[[偕成社]] 少年少女ドキュメンタリー 1969 
* 『生きている石器時代 ニューギニアに人食い部落をもとめて』[[偕成社]] 少年少女ドキュメンタリー 1969 
* 『きたぐにの動物たち』[[実業之日本社]] 1969 のち集英社文庫、朝日文庫  
* 『きたぐにの動物たち』[[実業之日本社]] 1969 のち集英社文庫、朝日文庫  
* 『北爆の下 ベトナムー破壊対建設』朝日新聞社 1969
* 『北爆の下 ベトナムー破壊対建設』朝日新聞社 1969
* 『[[アメリカ合州国]]』朝日新聞社 1970 のち文庫 
* 『[[アメリカ合州国]]』朝日新聞社 1970 のち文庫 (解説:[[小田実]])
* 『初めての山』二見書房 1970
* 『初めての山』二見書房 1970
* 『殺される側の論理』朝日新聞社 1971 のち文庫 
* 『殺される側の論理』朝日新聞社 1971 のち文庫 (解説:[[野坂昭如]])
* 『事実とは何か』[[未来社]] 1971
* 『事実とは何か』[[未来社]] 1971 のち朝日文庫(解説:[[小和田次郎]])
* 『愉しかりし山』仮面社 1971
* 『愉しかりし山』仮面社 1971
* 『ぼくは報道する 民族のすがた・声』[[筑摩書房]] [[ちくま少年図書館]] 1971
* 『ぼくは報道する 民族のすがた・声』[[筑摩書房]] [[ちくま少年図書館]] 1971
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* 『殺す側の論理』すずさわ書店 1972 のち朝日文庫 
* 『殺す側の論理』すずさわ書店 1972 のち朝日文庫 
* 『戦争を起こされる側の論理』現代史資料センター出版会 1972
* 『戦争を起こされる側の論理』現代史資料センター出版会 1972
* 『中国の旅』朝日新聞社 1972 のち文庫 
* 『中国の旅』朝日新聞社 1972 のち文庫 (解説:[[高史明]])
* 『中国の日本軍』創樹社 1972 
* 『中国の日本軍』創樹社 1972 
* 『NHK受信料拒否の論理』未来社 1973 のち朝日文庫 
* 『NHK受信料拒否の論理』未来社 1973 のち朝日文庫 
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* 『ベンハイ川を越えて』写真[[石川文洋]] 朝日新聞社 1974
* 『ベンハイ川を越えて』写真[[石川文洋]] 朝日新聞社 1974
* 『再訪・戦場の村』朝日新聞社 1975
* 『再訪・戦場の村』朝日新聞社 1975
* 『そして我が祖国・日本』すずさわ書店 1976
* 『そして我が祖国・日本』すずさわ書店 1976 のち朝日文庫(解説:[[後藤総一郎]])
* 『日本語の作文技術』朝日新聞社 1976 のち実戦・日本語の作文技術文庫 
* 『日本語の作文技術』朝日新聞社 1976 のち文庫(解説:[[多田道太郎]])
* 『実戦・日本語の作文技術』朝日文庫 
* 『ベトナムはどうなっているのか?』朝日新聞社 1977 
* 『ベトナムはどうなっているのか?』朝日新聞社 1977 
* 『カンボジアはどうなっているのか?』すずさわ書店 1978
* 『カンボジアはどうなっているのか?』すずさわ書店 1978
* 『初めての旅』スキージャーナル 1979  
* 『初めての旅』スキージャーナル 1979  
* 『北海道探検記』すずさわ書店 1979 のち集英社文庫 
* 『北海道探検記』すずさわ書店 1979 のち集英社文庫 (解説:[[中野美代子]])
* 『ルポルタージュの方法』すずさわ書店 1980
* 『ルポルタージュの方法』すずさわ書店 1980(解説:上田敏)
* 『カンボジアの旅』朝日新聞社 1981  
* 『カンボジアの旅』朝日新聞社 1981  
* 『ルポ短篇集』朝日新聞社 1981  
* 『ルポ短篇集』朝日新聞社 1981  
* 『わかりやすい文章のために』すずさわ書店 1981
* 『わかりやすい文章のために』すずさわ書店 1981
* 『旅立ちの記』[[講談社]] 1982 のち文庫 
* 『旅立ちの記』[[講談社]] 1982 のち文庫 
* 『憧憬のヒマラヤ』1982 集英社文庫 のち朝日文庫 
* 『憧憬のヒマラヤ』1982 集英社文庫 のち朝日文庫 (解説:[[藤田和夫]])
* 『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』1983 [[潮文庫]] のち朝日文庫 
* 『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』1983 [[潮文庫]] のち朝日文庫 
* 『食事と性事』1983 集英社文庫  
* 『食事と性事』1983 集英社文庫  
* 『そして我が祖国・日本』朝日新聞社 1983    
* 『そして我が祖国・日本』朝日新聞社 1983    
* 『麦とロッキード』1983 講談社文庫   
* 『麦とロッキード』1983 講談社文庫   
* 『職業としてのジャーナリスト』朝日新聞社 1984
* 『職業としてのジャーナリスト』朝日新聞社 1984 のち朝日文庫(解説:[[筑紫哲也]])
* 『日本人は美しいか』1985 講談社文庫   
* 『日本人は美しいか』1985 講談社文庫   
* 『アムンセンとスコット 南極点への到達に賭ける』[[教育社]] 1986 のち朝日文庫
* 『アムンセンとスコット 南極点への到達に賭ける』[[教育社]] 1986 のち朝日文庫
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* 『山登りは道草くいながら』実業之日本社 1988
* 『山登りは道草くいながら』実業之日本社 1988
* 『検証・カンボジア大虐殺』1989 朝日文庫
* 『検証・カンボジア大虐殺』1989 朝日文庫
* 『[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]が来た』[[谷川明生]]写真 朝日新聞社 1989 のち文庫 
* 『[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]が来た』[[谷川明生]]写真 朝日新聞社 1989 のち文庫(解説:[[太田昌国]])
* 『ドイツ民主共和国』朝日新聞社 1990
* 『ドイツ民主共和国』朝日新聞社 1990
* 『日本環境報告』1992 朝日文庫
* 『日本環境報告』1992 朝日文庫
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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|publisher=京都大学学士山岳会
|publisher=京都大学学士山岳会
|year=2021 |month=3 |volume= |issue= |pages=9-13
|year=2021 |month=3 |volume= |issue= |pages=9-13
|doi=|url=https://www.aack.info/docs/newsletter/AACKNewsLetterNo56Umesao.pdf
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|title=前代未聞の大量遭難、1963年1月の薬師岳遭難事故(三八豪雪)は、二つ玉低気圧とJPCZ(日本海寒気団収束帯)が原因
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|title=年に一篇ずつ執筆した長編ルポ──カナダ=エスキモー1
|author=本多勝一|publisher=[[週刊金曜日]]オンライン
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|author=本多勝一 |title=北海道探検記
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|title=最新刊行物:文庫:アムンセンとスコット
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}}
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
|title=事実とは何か
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|author=本多勝一|publisher=[[未来社]]
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* {{cite book|和書
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* {{cite book|和書
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* {{Cite book |和書 |title=20世紀日本人名事典 |editor=日外アソシエーツ |publisher=日外アソシエーツ/紀伊國屋書店 |date=2004-07 |isbn=4-8169-1853-1 |page=2267 |volume=そ〜わ |ref={{SfnRef|日外アソシエーツ|2004}} }}
* {{Cite book |和書 |title=20世紀日本人名事典 |editor=日外アソシエーツ |publisher=日外アソシエーツ/紀伊國屋書店 |date=2004-07 |isbn=4-8169-1853-1 |page=2267 |volume=そ〜わ |ref={{SfnRef|日外アソシエーツ|2004}} }}

* {{Cite book |和書 |editor=百人斬り訴訟を支援する会 |date=2007-11 |title=「百人斬り訴訟」裁判記録集 |publisher=展転社 |isbn=9784886563095 |ref={{SfnRef|百人斬り訴訟を支援する会|2007}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=百人斬り訴訟を支援する会 |date=2007-11 |title=「百人斬り訴訟」裁判記録集 |publisher=展転社 |isbn=9784886563095 |ref={{SfnRef|百人斬り訴訟を支援する会|2007}} }}



2023年5月3日 (水) 14:35時点における版

ほんだ かついち

本多 勝一
生誕 (1932-01-28) 1932年1月28日(92歳)
日本の旗 日本長野県
職業 作家ジャーナリスト
影響を受けたもの 今西錦司梅棹忠夫
影響を与えたもの 文化人類学ノンフィクション登山論、冒険論、戦争責任
テンプレートを表示

本多 勝一(ほんだ かついち、1932年[† 1]1月28日 - )は、日本作家ジャーナリスト[1]。元朝日新聞編集委員[1]

経歴

長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる[1][† 2]。旧制長野県飯田中学校(のち長野県飯田高松高等学校。現・長野県飯田高等学校[3]の同級に富永明夫がいた[4]千葉大学薬学部を卒業後、1954年に京都大学農学部農林生物学科へ入学、山岳部に入部[5]

1955年11月26日、今西錦司と並び生涯にわたって師と仰ぐこととなる梅棹忠夫の謦咳に接する。山岳部二回生を中心にヒマラヤ遠征計画を立てたものの若手OBの反対に遭っていた本多らは、カラコルムヒンズークシ学術探検隊から帰還した梅棹に「煽動」され、まず探検家OBを講師とした「第1回探検講座」を5回にわたって実施[5]。講師は今西、中尾佐助川喜田二郎桑原武夫、梅棹、藤田和夫であった[5]。探検講座の最終回を終えた1956年3月2日の夜、同じく山岳部に所属していた高谷好一ら11人で日本初の探検部を創設[5]。初代顧問は今西、梅棹、中尾、藤田、川喜田、伊谷純一郎であった[5]

1957年、本多が隊長を務める京大探検部の3人でヒマラヤの6000m級処女峰シャハーンドクの登頂を試みたが、頂上まで100m余りの地点で敗退[† 3][6]

1959年、朝日新聞社に入社[1]。同期に筑紫哲也轡田隆史らがいる[† 4]

1959年4月から1962年7月まで札幌勤務[8]。当時、朝日新聞や小雑誌などに執筆した紀行文ルポルタージュは1979年に『北海道探検記』として発刊された[8]

1963年1月22日、愛知大学山岳部薬師岳遭難事故にて大スクープ[9]薬師岳の太郎小屋脇にヘリコプターで強行着陸し、本多が小屋の中を確認して報道したものであり、号外が発行された[9]

1963年の朝日新聞連載『カナダ・エスキモー』が注目を集め、つづいて1964年には『ニューギニア高地人』を連載、反響を呼んだ[10][11]。本多はベトナム戦争の取材に取り組みたかったが、一連の連載が好評を博したため、1965年には『アラビア遊牧民』を連載[10][11]。これらのルポルタージュは「極限の民族」三部作とされ、文化人類学にインパクトを与えた[1][12][13]。1964年に菊池寛賞を受賞[† 5]

1967年にはベトナム戦争が苛烈を極める南ベトナムを1年にわたって現地取材[14]、翌1968年には北ベトナムを取材し[14]、ルポルタージュを連載。1968年に第11回JCJ賞および第22回毎日出版文化賞を受賞、1969年にボーン・上田記念国際記者賞を受賞。

1969年にはアメリカ合州国を半年にわたって取材[15]

日中国交正常化前の1971年には中国における戦争中の日本軍の行動を中国側の視点から掘り起こした『中国の旅』を連載[16]。本書は南京事件論争の大きなきかっけとなった。

1982年には『日本語の作文技術』を発刊し、自身最大のベストセラーとなる[5]

朝日新聞編集委員を長らく務め、1991年に定年退職[1]

朝日ジャーナル』の最終号となった1992年5月29日号の連載コラム「貧困なる精神」において有志による日刊新聞の発行構想を発表した[17]

噂の真相』1993年2月号のインタビューで日刊紙に先行して週刊誌の創刊を予定していることを公表[18]。1993年7月から4号発行された月刊金曜日の編集委員となり、「創刊の言葉」の原案を起草[19]。1993年11月の週刊金曜日発刊後も編集委員を務める[20]。1994年5月から1997年3月まで編集長を務めた[20]

評価

30代になったころから「極限の民族」三部作やベトナム戦争、アメリカにおける黒人インディアンの問題などの多彩なルポルタージュを連載し続け、「至るところでセンセーションを巻き起こした」(祖父江孝男[11]

角幡唯介によれば、沢木耕太郎は意識する書き手の1人として本多を挙げており、「事実」を厳密に扱う本多の姿勢が日本のノンフィクション界に大きな影響を与えたとされる[13]

角幡は、近代登山や探検、冒険を考える上で本多の著書は必読であるとする[13]。2012年には『冒険と日本人』『新版・山を考える』『リーダーは何をしていたか』の3冊から再編集された『日本人の冒険と「創造的な登山」』が山と溪谷社から文庫で発刊され[† 6][21]、2021年には『アムンセンとスコット』が朝日文庫で再版された[† 7][22]

自身最大のベストセラーは1982年の『日本語の作文技術』であり、発刊から32年を経た2014年には林修の推薦文による帯で再版されるなど、ロングセラーとなっている[23]

受賞歴

主張

日本語

日本において標準語が偏重され方言が軽んじられていることを批判している[25]。一方で、普通語(標準語)以外の地方語が徹底的に弾圧されていた文化大革命期の中国を「共通語と方言(または少数民族言語)との間に階級差別のない関係」を実現したとして賞賛する発言も残している[26]

野球

新渡戸稲造の『野球と其害毒』(『東京朝日新聞』連載)の後を承け、『貧困なる精神』のすずさわ書店版第21集は『新版「野球とその害毒」』のサブタイトルで、野球害毒論を説いた。

朝日新聞社時代の同期で広島ファンの筑紫哲也巨人の金満補強を嘆いて『週刊金曜日』に「野球自体への興味が薄れつつある」と書くと[27][28]、本多は「結構なことだなあ。巨人がもっともっと大選手をかき集めて、毎年ひとり勝ちになって、巨人ファン以外はだれも職業野球になど関心を失って、球場が赤字つづきになる。すばらしいことではなかろうか。不正が敗北するわけだから。どうか巨人「軍」よ、来年も再来年も勝ちつづけてくれ」と感想を返した[29][30]

政治的スタンス

2010年6月日本共産党機関紙の『しんぶん赤旗』6月号外に支持者の一人として名前を連ねている[31]。2008年2月1日の「赤旗」創刊80周年によせての寄稿では、新聞をとるなら「赤旗」も併読紙として重要だと購読をすすめている[32]

2010年9月12日付の「赤旗」読者の広場(投書欄)に一読者として「選挙制度改正大運動に賛成」と題して小選挙区制を批判、2021年6月20日付同欄に東京都・ジャーナリスト・89歳として「東京五輪反対」の投書を行っている。

エピソード

生年月日

本多の生年は、著書によって1931年昭和6年)、1932年昭和7年)、1933年昭和8年)の3通りを記しており、どれが正しいのかは不明である。たとえば『中国の旅』ハードカバー版(1972年朝日新聞社)によると1931年であり、同書文庫版(1981年朝日新聞社)によると1933年であり、『殺される側の論理』(1982年朝日新聞社)によると1932年であるという。2011年のインタビューでは本多は1931年生まれと語っている[33]。生年月日を記した資料『現代日本人名録98』および『20世紀日本人名事典』によると、1932年1月28日生まれだが戸籍上は1931年11月22日生まれであるという[34][1]殿岡昭郎の『体験的本多勝一論』(2003年、日新報道)によると、1987年3月3日京都地裁で開かれたベトナム僧尼団焼身自殺をめぐる民事裁判の原告本人質問にて、本多は「1933年4月28日生まれである可能性がある」と発言している。本多は「私はですね、いわゆる旧制中学に入って間もなく戦争が終わった世代なものですから」[35]、「私が(旧制)中学二年になった一九四五年四月」[36]と述べている。

「百人斬り競争」報道に関する名誉毀損訴訟

『中国の旅』にて、「2人の日本軍将校が百人斬り競争を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める訴訟を起こされた(百人斬り競争#名誉毀損裁判)。2005年8月24日東京地裁は原告の請求を棄却した。原告は控訴したが、2006年5月24日東京高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は最高裁判所上告したが、2006年12月22日最高裁は上告を棄却した。

写真のキャプションの正確性

本多が自著『中国の日本軍』に掲載した写真

『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけた写真を掲載している[要ページ番号][† 9]。産経新聞によれば、この写真は『アサヒグラフ』の1937年11月10日号に掲載された写真で、日本軍が保護する"日の丸部落"で農作業を終えて日本軍兵士に守られながら帰宅する女性や子供が写ったものであったが、中国側はこれを「旧日本軍が女性らを連行する場面」と紹介していたという[37]。この写真は南京大虐殺紀念館でも展示されていたが、信憑性に乏しいと指摘されていた[37]。同館がこの写真の展示をとりやめたことが2008年12月に明らかになっている[37]2014年にこの件について週刊新潮からのインタビューを受け、「アサヒグラフに別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです」「確かに誤用のようです」とコメントした[38]

「週刊金曜日」の編集と経営

『新潮45』2000年12月号で、週刊金曜日を退社した元社員の西野浩史は「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の悲惨な内幕」という文章を発表し、

  • 井上ひさしが編集委員を退任した理由に「本多が(井上の友人である)大江健三郎を強く批判しているのに板ばさみになった」というものがあったにもかかわらず、それを隠蔽し「超多忙」などの理由とした。
  • ホロコースト否認に強い興味と関心を抱いた本多は、その立場に立つ木村愛二の論文(ガス室」を再検証する立場)を掲載しようとしたが、周囲に強く反対され、やむを得ず掲載を見送った。本多は、西野の面前で「“木村愛二の原稿を載せるな”と言われた。編集長が副編集長に折れることがリベラルなのか」などと直接反対したMデスクについて批判した。
  • 週刊金曜日社内で結成された労組にきわめて冷淡で「過半数になったら会社を転覆させる気か」などの言葉を投げつけた。

などを、自分の体験談として発表している。

著書

単著

  • 『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』角川書店 1958
  • 『カナダ・エスキモー』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1963 のち講談社文庫朝日文庫  (解説:梅棹忠夫
  • 『ニューギニア高地人』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1964 のち講談社文庫、朝日文庫  (解説:中尾佐助
  • 『エスキモー探検記』あかね書房 少年少女20世紀の記録 1965 
  • 『アラビア遊牧民』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1966 のち講談社文庫、朝日文庫  (解説:桑原武夫
  • 『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』朝日新聞社 1968 のち文庫 (解説:古在由重
  • 『冒険と日本人』二見書房 1968 のち集英社文庫、朝日文庫  
  • 『生きている石器時代 ニューギニアに人食い部落をもとめて』偕成社 少年少女ドキュメンタリー 1969 
  • 『きたぐにの動物たち』実業之日本社 1969 のち集英社文庫、朝日文庫  
  • 『北爆の下 ベトナムー破壊対建設』朝日新聞社 1969
  • アメリカ合州国』朝日新聞社 1970 のち文庫 (解説:小田実
  • 『初めての山』二見書房 1970
  • 『殺される側の論理』朝日新聞社 1971 のち文庫 (解説:野坂昭如
  • 『事実とは何か』未来社 1971 のち朝日文庫(解説:小和田次郎
  • 『愉しかりし山』仮面社 1971
  • 『ぼくは報道する 民族のすがた・声』筑摩書房 ちくま少年図書館 1971
  • 『山を考える』実業之日本社 1971 のち朝日文庫 
  • 本多勝一著作集』全10巻 すずさわ書店 1972-77 
  • 『殺す側の論理』すずさわ書店 1972 のち朝日文庫 
  • 『戦争を起こされる側の論理』現代史資料センター出版会 1972
  • 『中国の旅』朝日新聞社 1972 のち文庫 (解説:高史明
  • 『中国の日本軍』創樹社 1972 
  • 『NHK受信料拒否の論理』未来社 1973 のち朝日文庫 
  • 『北ベトナム』朝日新聞社 1973 
  • 『本多勝一対談集』すずさわ書店 1973
  • 貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』全23巻 すずさわ書店 1974-93  
  • 『ベンハイ川を越えて』写真石川文洋 朝日新聞社 1974
  • 『再訪・戦場の村』朝日新聞社 1975
  • 『そして我が祖国・日本』すずさわ書店 1976 のち朝日文庫(解説:後藤総一郎
  • 『日本語の作文技術』朝日新聞社 1976 のち文庫(解説:多田道太郎
  • 『実戦・日本語の作文技術』朝日文庫 
  • 『ベトナムはどうなっているのか?』朝日新聞社 1977 
  • 『カンボジアはどうなっているのか?』すずさわ書店 1978
  • 『初めての旅』スキージャーナル 1979  
  • 『北海道探検記』すずさわ書店 1979 のち集英社文庫 (解説:中野美代子
  • 『ルポルタージュの方法』すずさわ書店 1980(解説:上田敏)
  • 『カンボジアの旅』朝日新聞社 1981  
  • 『ルポ短篇集』朝日新聞社 1981  
  • 『わかりやすい文章のために』すずさわ書店 1981
  • 『旅立ちの記』講談社 1982 のち文庫 
  • 『憧憬のヒマラヤ』1982 集英社文庫 のち朝日文庫 (解説:藤田和夫
  • 『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』1983 潮文庫 のち朝日文庫 
  • 『食事と性事』1983 集英社文庫  
  • 『そして我が祖国・日本』朝日新聞社 1983    
  • 『麦とロッキード』1983 講談社文庫   
  • 『職業としてのジャーナリスト』朝日新聞社 1984 のち朝日文庫(解説:筑紫哲也
  • 『日本人は美しいか』1985 講談社文庫   
  • 『アムンセンとスコット 南極点への到達に賭ける』教育社 1986 のち朝日文庫
  • 『五〇歳から再開した山歩き』朝日新聞社 1987 のち文庫
  • 『南京への道』朝日新聞社 朝日ノンフィクション 1987 のち文庫 
  • 『山とスキーとジャングルと』山と渓谷社 1987
  • 貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』A~S集 朝日新聞社 1988-2004 
  • 『山登りは道草くいながら』実業之日本社 1988
  • 『検証・カンボジア大虐殺』1989 朝日文庫
  • マゼランが来た』谷川明生写真 朝日新聞社 1989 のち文庫(解説:太田昌国
  • 『ドイツ民主共和国』朝日新聞社 1990
  • 『日本環境報告』1992 朝日文庫
  • 『アイヌ民族』朝日新聞社 1993 のち文庫 
  • 『先住民族アイヌの現在』1993 朝日文庫
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』Z、Y集 毎日新聞社 1993-94
  • 本多勝一集』全30巻 朝日新聞社 1993-99   
  • 『貧困なる精神 X集 (大江健三郎の人生)』毎日新聞社 1995
  • 『貧困なる精神 W集 (天才と秀才)』毎日新聞社 1996
  • 『滅びゆくジャーナリズム』1996 朝日文庫
  • 『五五歳のときに登った山山』朝日新聞社 1997
  • 『はるかなる東洋医学へ』朝日新聞社 1997 のち文庫 
  • 『リーダーは何をしていたか』朝日新聞社 1997 朝日文庫
  • 『六〇歳の記念に登った山山』悠々社 1997
  • 『母が泣いた日』光文社 1999
  • 『マスコミかジャーナリズムか』2000 朝日文庫
  • 『新・アメリカ合州国』2003 朝日文庫
  • 『わかりやすい日本語の作文技術 大活字版』オークラ出版 2003
  • 『さようなら 惜別の譜』影書房 2004
  • 『中学生からの作文技術』2004 朝日選書
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』T~V集 金曜日 2006-10
  • 南京大虐殺と日本の現在』金曜日 2007
  • 『俺が子どもだったころ』朝日新聞社 2008
  • 『新聞と新聞記者のいま』新樹社 2008
  • 『六五歳ますます愉しい山山』朝日新聞出版 2009
  • 『新・貧困なる精神 携帯電話と立ち小便』講談社 2009
  • 『初めての山へ六〇年後に』山と溪谷社 2009
  • 疋田桂一郎という新聞記者がいた』新樹社 2009
  • 『本多勝一逝き去りし人々への想い』講談社 2010
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集 24集(「英語」という“差別”「原発」という“犯罪”)』金曜日 2011
  • 『本多勝一の戦争論 「侵略」をとらえる目』新日本出版社 2011
  • 『日本人の冒険と「創造的な登山」 本多勝一ベストセレクション』山と溪谷社 ヤマケイ文庫 2012 
  • 『本多勝一の日本論 ロシア、アメリカとの関係を問う』新日本出版社 2012
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集 25集 (石原慎太郎の『狂った果実』)』金曜日, 2013
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集 26集 (「戦争」か侵略か)』金曜日, 2015
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集 27集 人類の契約』金曜日, 2018

共著・編著

  • 『現代の冒険』編著 晩声社 1977 ルポルタージュ叢書
  • 『ペンの陰謀 あるいはペテンの論理を分析する』編 潮出版社 1977
  • 『子供たちの復讐』編 朝日新聞社 1979 のち文庫 
  • 『ベトナム・中国・カンボジアの関係と社会主義とを考える』編 朝日新聞社 1979
  • 『虐殺と報道』編 すずさわ書店 1980
  • 植村直己の冒険を考える』武田文男共編 朝日新聞社 1984 のち文庫
  • 『知床を考える』編 晩声社 1987
  • 『文筆生活の方法』編 晩声社 1987
  • 『裁かれた南京大虐殺』編 晩声社 1989
  • 『天皇の軍隊』長沼節夫共著 1991 朝日文庫
  • 『釧路湿原 日本環境の現在』編 1993 朝日文庫
  • 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 小野賢二 , 藤原彰 共編 1996 大月書店
  • 『南京大虐殺歴史改竄派の敗北 李秀英名誉毀損裁判から未来へ』渡辺春己,星徹共著 教育史料出版会 2003
  • 『山・自然との共生』山岡寛人共著 2004 旬報社ブックス 環境問題の未来
  • 『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』星徹,渡辺春己共著 金曜日 2009

原作

翻訳

  • 『エスキモーの民話』すずさわ書店 1974 世界の民話シリーズ

脚注

注釈

  1. ^ 生年を1931年昭和6年)や1933年(昭和8年)とする著書やインタビュー、資料もある。詳しくは「生年月日」節を参照。
  2. ^ 妹の節子は著書『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年――女性障害者の生きる闘い』がある[2]
  3. ^ 初挑戦から30年を経た1987年、日本山岳会を母体とする6人の隊(本多が隊長、根深誠が登攀隊長)が挑戦したが果たせなかった。翌1988年、日本隊は先発隊5人と後発隊5人の2隊で挑み、7月22日、先発隊の根深誠隊長ら3人が初登頂を果たした。
  4. ^ 同年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく「常識」なしの昭和34年組と社内で皮肉られたという[7]
  5. ^ のちに文藝春秋社の姿勢に批判を強め、返却。
  6. ^ 解説は角幡唯介。
  7. ^ 解説は山口周
  8. ^ 1980年代になって、本多は文藝春秋の政治的スタンスや、同社が発行していた雑誌『諸君!』などに掲載された本多に対する攻撃的な論説に反発して、賞品を文藝春秋社に送り返している[24][1]
  9. ^ この写真は笠原十九司『南京事件』Ⅲ章の扉にも使用されていた。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 日外アソシエーツ 2004, p. 2267.
  2. ^ 本多節子 『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年:女性障害者の生きる闘い』 明石書店、2005年2月、著者略歴。
  3. ^ 本多勝一『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』p.247
  4. ^ 『本多勝一集』第4巻p.486
  5. ^ a b c d e f 本多勝一「“不肖の弟子”として梅棹先生を偲ぶ」『AACK Nwesletter』、京都大学学士山岳会、2021年3月、9-13頁。 
  6. ^ 本多 1989, pp. 189–191.
  7. ^ 岡崎洋三『本多勝一の研究』p.185
  8. ^ a b 本多勝一「北海道探検記」、すずさわ書店、2017年2月14日、2023年5月2日閲覧 
  9. ^ a b 前代未聞の大量遭難、1963年1月の薬師岳遭難事故(三八豪雪)は、二つ玉低気圧とJPCZ(日本海寒気団収束帯)が原因”. 山と渓谷社 (2020年12月9日). 2023年5月2日閲覧。
  10. ^ a b 本多勝一 (2017年2月14日). “年に一篇ずつ執筆した長編ルポ──カナダ=エスキモー1”. 週刊金曜日オンライン. 2023年5月2日閲覧。
  11. ^ a b c 本多 1971, pp. 59.
  12. ^ 本多 1971, pp. 59–76.
  13. ^ a b c 本多勝一の消えた著作 角幡唯介さんの「わたしのベスト3」”. 文藝春秋digital (2020年1月7日). 2023年5月2日閲覧。
  14. ^ a b 本多 1981, p. 13.
  15. ^ 本多 1981, p. 279.
  16. ^ 本多勝一『中国の旅』朝日新聞社、1981年12月1日。ISBN 978-4022608055 
  17. ^ 本多 1993, pp. 61–71.
  18. ^ 本多 1993, pp. 109–114.
  19. ^ 本多 1993, pp. 106.
  20. ^ a b 沿革”. 週刊金曜日. 2023年5月2日閲覧。
  21. ^ 日本人の冒険と「創造的な登山」”. 山と溪谷社 (2012年5月25日). 2023年5月2日閲覧。
  22. ^ 最新刊行物:文庫:アムンセンとスコット”. 朝日新聞出版 (2021年12月7日). 2023年5月2日閲覧。
  23. ^ 小林拓矢 (2015年2月2日). “1982年発売のロングセラー『日本語の作文技術』は戦略商品”. THE PAGE. 2023年5月2日閲覧。
  24. ^ 本多勝一 (1982-01). “菊池寛賞を返す(貧困なる精神)”. (潮出版社) (272): 148-150. https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I2288874-00. 
  25. ^ 本多勝一『貧困なる精神: 悪口雑言罵詈讒謗集』第9巻p.82
  26. ^ 本多勝一 (1975-02). “世界語と日本語と共通語と方言との関係”. 言語生活. 少数民族のことば〈特集〉 (筑摩書房) (281): 18-27. https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1534067-00. 
  27. ^ 週刊金曜日:さよなら職業野球(筑紫哲也)”. 2009年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月28日閲覧。
  28. ^ 『週刊金曜日』 第329号、2000年9月1日
  29. ^ 週刊金曜日:巨人「軍」を毎年勝たせたい (本多勝一)”. 2009年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月28日閲覧。
  30. ^ 『週刊金曜日』 第336号、2000年10月20日
  31. ^ しんぶん赤旗2010年6月号外 日本共産党に期待します” (PDF). 日本共産党中央委員会. 2018年11月28日閲覧。
  32. ^ 「赤旗」創刊80周年によせて 発言/ジャーナリスト 本多勝一さん”. 日本共産党中央委員会. 2018年11月28日閲覧。
  33. ^ “私と赤旗/本多勝一さん”. しんぶん赤旗. (201101-31). http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/2011_watashito/001.html 
  34. ^ 日外アソシエーツ 編『現代日本人名録98』 4巻、日外アソシエーツ/紀伊國屋書店、1998年1月。 
  35. ^ 本多勝一『大東亜戦争と50年戦争』p.92
  36. ^ 本多勝一『南京大虐殺と日本の現在』p.185
  37. ^ a b c “南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去 - MSN産経ニュース”. MSN産経ニュース. オリジナルの2008年12月17日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2008-1217-2147-14/sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812172107008-n1.htm 2018年12月27日閲覧。 
  38. ^ 「週刊新潮」2014年9/25号。

参考文献

  • 本多勝一『事実とは何か』未来社、1971年12月13日。 
  • 本多勝一『アメリカ合州国』朝日新聞社、1981年10月20日。ISBN 978-4022608031 
  • 本多勝一『貧困なる精神D集』朝日新聞社、1989年10月25日。ISBN 978-4022560728 
  • 日外アソシエーツ 編『20世紀日本人名事典』 そ〜わ、日外アソシエーツ/紀伊國屋書店、2004年7月、2267頁。ISBN 4-8169-1853-1 
  • 百人斬り訴訟を支援する会 編『「百人斬り訴訟」裁判記録集』展転社、2007年11月。ISBN 9784886563095 

関連項目

外部リンク