コンテンツにスキップ

「尾崎放哉」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
リンク・出典追加
→‎年譜: 病名を修正
33行目: 33行目:
* [[1924年]] - 3月、[[知恩院]]([[京都市]][[東山区]])塔頭常称院の寺男となる。1か月ほどで同寺を追われ、6月、[[須磨寺]]([[神戸市]][[須磨区]])大師堂の堂守となる<ref name="ts" />。この頃から自由律俳句に磨きがかかる。
* [[1924年]] - 3月、[[知恩院]]([[京都市]][[東山区]])塔頭常称院の寺男となる。1か月ほどで同寺を追われ、6月、[[須磨寺]]([[神戸市]][[須磨区]])大師堂の堂守となる<ref name="ts" />。この頃から自由律俳句に磨きがかかる。
* [[1925年]] - 3月、須磨寺を去る。5月、[[常高寺]]([[福井県]][[小浜市]])の寺男となる。7月、[[常高寺]]を去り京都の荻原井泉水の仮寓に身を寄せる。8月、[[荻原井泉水]]の紹介で、[[小豆島八十八箇所|小豆島霊場]]第五十八番札所、[[西光寺 (香川県土庄町)|西光寺]]([[香川県]][[小豆郡]])奥の院の南郷庵に入庵<ref name="ts" />。
* [[1925年]] - 3月、須磨寺を去る。5月、[[常高寺]]([[福井県]][[小浜市]])の寺男となる。7月、[[常高寺]]を去り京都の荻原井泉水の仮寓に身を寄せる。8月、[[荻原井泉水]]の紹介で、[[小豆島八十八箇所|小豆島霊場]]第五十八番札所、[[西光寺 (香川県土庄町)|西光寺]]([[香川県]][[小豆郡]])奥の院の南郷庵に入庵<ref name="ts" />。
* [[1926年]] - 『層雲』1月号より『入庵雑記』連載開始。4月7日、南郷庵に死す(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)。享年41。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。[[戒名]]は大空放哉居士<ref name="ts" />。
* [[1926年]] - 『層雲』1月号より『入庵雑記』連載開始。4月7日、南郷庵に死す(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)。享年41。死因は癒着性肋膜炎の合併症、湿性咽喉カタル。[[戒名]]は大空放哉居士<ref name="ts" />。


== 人物・エピソード ==
== 人物・エピソード ==

2023年6月20日 (火) 05:15時点における版

放哉の碑「こんなよい月をひとりで見て寝る」(神戸市・須磨寺大師堂)

尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年明治18年〉1月20日 - 1926年大正15年〉4月7日)は、日本俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因癒着性肋膜炎合併症湿性咽喉カタル[1]

種田山頭火と並ぶ自由律俳句の雄。活動の場を荻原井泉水の主宰する「層雲」に求め、僧形に身をやつして、貧窮のうちに病没した点でも共通している。

一高俳句会に属し、東大では「日本俳句」や「国民新聞」に投句していたが、いずれも定型律で、自由律への移行は後年。エリートコースから脱落し、敗残の身を小豆島に落ち着かせた以後の作品には、一層の深みと象徴性が加わっている。

概略

東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に就職し、大阪支店次長を務めるなど出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然それまでの生活を捨て、無所有を信条とする一燈園に住まい、俳句三昧の生活に入る。その後、寺男で糊口(ここう)をしのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧のなか、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら俳句を作る人生を送った。癖のある性格から周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称された。その自由で力強い句は高い評価を得ており、代表的な句に「咳をしても一人」などがある[2][3]

終焉の地・小豆島尾崎放哉記念館があり、隣接する西光寺奥の院に放哉の墓がある。

年譜

終焉の地「南郷庵」
(現小豆島尾崎放哉記念館

人物・エピソード

季語を含まず、五・七・五の定型に縛られない自由律俳句の代表的俳人として、種田山頭火と並び称される。旅を続けて句を詠んだの山頭火に対し、放哉の作風はの中に無常観と諧謔性、そして洒脱味に裏打ちされた俳句を作った。性格は偏向的であり、自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、他の法学部卒業生を嫌うという矛盾した性格を持つ。またを飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。唯一の句集として、死後、荻原井泉水編『大空〔たいくう〕』(春秋社、1926年6月)が刊行された。

放哉の伝記的小説を書いた吉村昭によると[5]、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという[5]。妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去り、保険会社の寮母として生涯を送った[5]。放哉は寺男などを転々とし、小さな庵と海のある場所に住みたいという理由から、晩年の八か月を小豆島西光寺奥の院で寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かった[5]。吉村が1976年に取材のため島を訪ねたとき、地元の人たちから「なぜあんな人間を小説にするのか」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている[5]。それでも、島の素封家で俳人の井上一二(いのうえいちじ)と寺の住職らが支援し、近所の主婦が下の世話までして臨終まで看取った[5]。吉村の小説『海も暮れきる』は、海が好きだった放哉にちなんで、放哉の句「障子開けておく、海も暮れきる」から取ったもの[5]

代表句

有名な句を以下に挙げる。

鳥取市・興禅寺
  • 咳をしても一人
  • 墓のうらに廻る
  • 足のうら洗えば白くなる
  • 肉がやせてくる太い骨である
  • いれものがない両手でうける
  • 考えごとをしている田螺が歩いている
  • こんなよい月を一人で見て寝る
  • 一人の道が暮れて来た
  • すばらしい乳房だ蚊が居る[6]
  • 月夜の葦が折れとる
  • 海風に筒抜けられて居るいつも一人
  • 春の山のうしろから烟が出だした(辞世)

尾崎放哉を描いた作品

脚注

  1. ^ 放哉の小豆島の俳句とその宗教的宇宙”. 佛教大学 岡屋昭雄 著. 2023年6月5日閲覧。
  2. ^ 松波治郎 『歴史と人生』 彰文館、1942年。
  3. ^ 山崎白雲 『教育随想・教育論叢』 久米書店、1939年。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 河出書房新社編 『尾崎放哉 つぶやきが詩になるとき』 河出書房新社、2016年12月、205頁。
  5. ^ a b c d e f g 「NHK文化講演会(小豆島と尾崎放哉)」(1994年5月22日放送)。
  6. ^ 尾崎放哉選句集 - 青空文庫
  7. ^ 海も暮れきる~小豆島の放哉~ - テレビドラマデータベース

参考文献

  • 村上護 『放哉評伝』 春陽堂 2002年
  • 大瀬東二『尾崎放哉の詩とその生涯』講談社、1974年

関連項目

外部リンク