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2023年8月13日 (日) 11:37時点における版
趙媛姜(ちょう えんきょう)は後漢末の益州ケン為郡資中県出身の女性。媛姜はあざな。献帝期の建安5~6年(200~201年)没。県有数の豪族に生まれ、同郡の盛道に嫁ぐ。『後漢書』『華陽国志』に記述がある[1]。書籍によっては「盛道の妻」とも紹介される。
概略
建安5年(200年)、益州牧劉璋の失政に乗じて中郎将趙イが三蜀(蜀郡・広漢郡・ケン為郡)の豪族を誘い反逆する。盛道は反乱に呼応して地元で兵衆をあつめるが鎮圧され、妻子ともども虜囚の身となる。
処刑の前夜、自身をおとりにして夫の脱獄をうながす媛姜。君をおき去りにはできないと決断を渋る盛道。ふたりのそばには5歳になる子の盛翔もいた。家門の存続をねがう愛妻の説得に盛道はついに従う。媛姜が監視の目をやりすごし夫と子の脱走・逃亡の時間をかせぐ。
「勉夫済子授命囹圄」 (夫をはげまし子に託し、処刑寸前の命をすくう)。『華陽国志』にある趙媛姜への賛辞である。翌朝、媛姜は処刑された。
その後
内乱は翌年に終結する。刑死をまぬがれ身を潜めていた盛道は、やがて恩赦をえて家にもどることができた。妻の恩義を感じていた盛道は、自身が死ぬまで再婚することはなく節義をつらぬいたという。
ざんねんなことに、史書の『三国志』には盛道・盛翔父子の記事は見あたらない。蜀漢の臣では彼らのほかに盛の姓をもつ人物に盛勃なる武将がいる。諸葛亮が丞相に復帰したころ綏戎都尉に起用されている。翔と勃。字形はにているが[2]。