「南部圭之助」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Zazanasawa (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''南部 圭之助'''(なんぶ けいのすけ、[[1904年]][[4月5日]] - [[1987年]][[10月26日]])は、日本の映画雑誌編集者、[[映画評論家]]。本名、荒木誠太郎。 |
'''南部 圭之助'''(なんぶ けいのすけ、[[1904年]][[4月5日]] - [[1987年]][[10月26日]])は、日本の映画雑誌編集者、[[映画評論家]]。本名、荒木誠太郎。 |
||
[[東京都]]出身。[[慶應義塾大学]]在学中から雑誌「映画世界」編集長を務める。1930年に大学を中退し、パラマウント日本支社興業宣伝部に入社。松竹洋画部宣伝部長を経て、1933年に外国映画と[[松竹歌劇]]を中心とした雑誌『スタア』を創刊。スマートな誌面で人気を集める。南部のファンだった[[淀川長治]]も一時、編集部員として参加している。 |
[[東京都]]出身。[[慶應義塾大学]]在学中から雑誌「映画世界」編集長を務める。1930年に大学を中退し、パラマウント日本支社興業宣伝部に入社。松竹洋画部宣伝部長を経て、1933年に外国映画と[[松竹歌劇団]]を中心とした雑誌『スタア』を創刊。スマートな誌面で人気を集める。南部のファンだった[[淀川長治]]も一時、編集部員として参加している。 |
||
戦後は雑誌『世界映画』を主宰。また、映画評論家として、その映画の美的センスを重要視した評論活動を行い、「ナンケイ」の愛称で人気を博した。 |
戦後は雑誌『世界映画』を主宰。また、映画評論家として、その映画の美的センスを重要視した評論活動を行い、「ナンケイ」の愛称で人気を博した。 |
||
一方で、演劇、邦楽、演芸などに通じており、[[国立劇場|国立演芸場]]運営委員長を務めた。[[市川昆]]監督のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』のプロデュースも担当している。 |
一方で、演劇、邦楽、演芸などに通じており、[[国立劇場|国立演芸場]]運営委員長を務めた。[[市川昆]]監督のドキュメンタリー映画『[[東京オリンピック (映画)|東京オリンピック]]』のプロデュースも担当している。 |
||
1973年に[[紫綬褒章]]受章。 |
1973年に[[紫綬褒章]]受章。 |
||
18行目: | 18行目: | ||
== 論文 == |
== 論文 == |
||
* 「アメリカ無声黄金時代の監督たち(上 |
* 「アメリカ無声黄金時代の監督たち(上・中・下)」(1974-1975年、[[佐藤忠男]]編『映画史研究』所収) |
||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
2023年8月17日 (木) 00:18時点における版
南部 圭之助(なんぶ けいのすけ、1904年4月5日 - 1987年10月26日)は、日本の映画雑誌編集者、映画評論家。本名、荒木誠太郎。
東京都出身。慶應義塾大学在学中から雑誌「映画世界」編集長を務める。1930年に大学を中退し、パラマウント日本支社興業宣伝部に入社。松竹洋画部宣伝部長を経て、1933年に外国映画と松竹歌劇団を中心とした雑誌『スタア』を創刊。スマートな誌面で人気を集める。南部のファンだった淀川長治も一時、編集部員として参加している。
戦後は雑誌『世界映画』を主宰。また、映画評論家として、その映画の美的センスを重要視した評論活動を行い、「ナンケイ」の愛称で人気を博した。
一方で、演劇、邦楽、演芸などに通じており、国立演芸場運営委員長を務めた。市川昆監督のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』のプロデュースも担当している。
1973年に紫綬褒章受章。
著書
- 「映画のたんじよう」 東西文明社, 1956年
- 「映画宣伝戦」 同文館, 1956年
- 「アメリカ映画女優史」 楽天社, 1967年
- 「Variety セミプロの趣味の手帳」 東京ブック, 1973年
- 「男優の世界」 東京ブック, 1975年
- 「映画が女と舞台を愛するとき」 日本放送出版協会, 1980年
論文
- 「アメリカ無声黄金時代の監督たち(上・中・下)」(1974-1975年、佐藤忠男編『映画史研究』所収)