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'''棋書'''(きしょ)とは、[[将棋]]に関する書籍のことである。ジャンルとしては定跡集、棋譜集、詰将棋問題集、次の一手問題集等がある。
'''棋書'''(きしょ)とは、[[将棋]]に関する書籍のことである。ジャンルとしては[[定跡]]集、[[棋譜]]集、[[詰将棋]]問題集、次の一手問題集等がある。


==著名な書籍==
==著名な書籍==
===江戸時代の書籍===
===江戸時代の書籍===
本項では、[[江戸時代]]([[1603年]] - [[1867年]])に刊行された将棋についての書籍、あるいは同時代に筆写された写本をあつかう。内容は、将棋の[[定跡]]について述べたもの、対局の[[棋譜]]を集めたもの、[[詰将棋]]集などを含む。将棋の他には、[[中将棋]]・[[大将棋]]などの将棋類についての記述が含まれているものもある。主に幕府将棋所関係者の執筆したものを中心としている。
本項では、[[江戸時代]]([[1603年]] - [[1867年]])に刊行された将棋についての書籍、あるいは同時代に筆写された写本をあつかう。内容は、将棋の[[定跡]]について述べたもの、対局の棋譜を集めたもの、詰将棋集などを含む。将棋の他には、[[中将棋]]・[[大将棋]]などの将棋類についての記述が含まれているものもある。主に幕府将棋所関係者の執筆したものを中心としている。


特に著名なのは、伊藤宗看・伊藤看寿兄弟の『将棋図巧』『将棋無双』の2つの詰将棋である。合わせて「詰むや詰まざるや百番」とも言われ、宗看が当時将棋盤に並べて「詰むや?詰まざるや?」(さあ、詰むでしょうか、詰まないでしょうか?)と弟子や知友に解かせた所ほとんど解けなかった為、江戸で評判になったという<ref>平凡社版『詰むや詰まざるや 将棋無双・将棋図巧』、[[門脇芳雄]]解説より</ref>。当時の将棋名人は江戸幕府の禄を食んでいたために「献上図式」といって百番の詰将棋を献上していたが、既に「煙詰」などの長手数かつ趣向を凝らした詰将棋を完成させており、「献上図式」の中でも屈指の内容と言われる。昭和に成ってからも[[米長邦雄]]は『将棋図巧』『将棋無双』の重要性を力説し、「プロ四段になるためには必ず全問正解することが必要」(要約)と主張し、実際に[[羽生善治]]は6、7年かかって解き「あれをすべて自力で解ければ、理論が身につくこともあるが、それより難解な詰将棋200題を何年もかけて解く情熱とか熱意がプロになる原動力になる。自分も毎日毎日考えつづけて途中でもう嫌だと思って止めてしまい、全問正解まで6、7年もかかった。米長の言うプロ四段になるため全問正解が必要というのはそういうことだろう」(要約)と述べた<ref>米長・羽生『勉強の仕方―頭がよくなる秘密』祥伝社文庫、1999</ref>、[[藤井聡太]]も小学生の頃から読んでいるという<ref>河北新報『河北春秋』2020年7月17日付 https://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyunju/20200717_01.html</ref>。
特に著名なのは、[[伊藤宗看]][[伊藤看寿]]兄弟の『[[将棋図巧]]』『[[将棋無双]]』の2つの詰将棋である。合わせて「詰むや詰まざるや百番」とも言われ、宗看が当時[[将棋盤]]に並べて「詰むや?詰まざるや?」(さあ、詰むでしょうか、詰まないでしょうか?)と弟子や知友に解かせた所ほとんど解けなかった為、江戸で評判になったという<ref>平凡社版『詰むや詰まざるや 将棋無双・将棋図巧』、[[門脇芳雄]]解説より</ref>。当時の将棋名人は[[江戸幕府]][[]]を食んでいたために「[[献上図式]]」といって百番の詰将棋を献上していたが、既に「[[煙詰]]」などの長手数かつ趣向を凝らした詰将棋を完成させており、「献上図式」の中でも屈指の内容と言われる。昭和に成ってからも[[米長邦雄]]は『将棋図巧』『将棋無双』の重要性を力説し、「プロ四段になるためには必ず全問正解することが必要」(要約)と主張し、実際に[[羽生善治]]は6、7年かかって解き「あれをすべて自力で解ければ、理論が身につくこともあるが、それより難解な詰将棋200題を何年もかけて解く情熱とか熱意がプロになる原動力になる。自分も毎日毎日考えつづけて途中でもう嫌だと思って止めてしまい、全問正解まで6、7年もかかった。米長の言うプロ四段になるため全問正解が必要というのはそういうことだろう」(要約)と述べた<ref>米長・羽生『勉強の仕方―頭がよくなる秘密』祥伝社文庫、1999</ref>、[[藤井聡太]]も小学生の頃から読んでいるという<ref>河北新報『河北春秋』2020年7月17日付 https://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyunju/20200717_01.html</ref>。


また定跡書としては[[大橋宗英]]の将棋歩式、福島順喜の将棋絹篩、天野宗歩の将棋精選を特に三大定跡書といい、「精選定跡」の一部は現在のプロ棋戦でも指されている手順である相掛かり、横歩取りはこの頃既に細かい手順が研究され、横歩取り後手2三歩戦法で飛車を捨てて先手優勢になる有名な手順は既に載っている。また[[鳥刺し (将棋)|鳥刺し]]は香落ち下手定跡として掲載されている。ここには挙げないが、[[阪田流向かい飛車]]や[[穴熊]]などの定跡を考えていた人が民間にすでに存在していたことも分かっている。
また定跡書としては[[大橋宗英]]の将棋歩式、福島順喜の将棋絹篩[[天野宗歩]]将棋精選を特に三大定跡書といい、『将棋精選』の掲載された「精選定跡」の一部は現在のプロ棋戦でも指されている手順である。例えば[[相掛かり]]、横歩取りはこの頃既に細かい手順が研究され、[[横歩取り]]後手2三歩戦法で飛車を捨てて先手優勢になる有名な手順は既に載っている。また[[鳥刺し (将棋)|鳥刺し]]は香落ち下手定跡として掲載されている。
ここには挙げないが、[[阪田流向かい飛車]]や[[穴熊]]などの定跡を考えていた人が民間にすでに存在していたことも分かっている。


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===明治以降の書籍===
===明治以降の書籍===
家元制度が衰退したため、明治時代は江戸時代の定跡書の復刻が主となったが、昭和3年に十四世名人[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]の将棋定跡書『将棋大観』が出たのが近代の棋書の始まりである。
[[家元制度]]が衰退したため、[[明治時代]][[江戸時代]]の定跡書の[[復刻]]が主となったが、昭和3年に十四世名人[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]の将棋定跡書『将棋大観』が出たのが近代の棋書の始まりである。木村の回想によれば、当時の将棋ファンから「将棋の本というのは分かりにくい、実際対局を出来るまでになるのは容易ではない」と言われ、「分かりやすいこと、出来るだけ親切に面白く学べること」をモットーに執筆し、好評を得たという<ref>木村『将棋大観』マイナビ、2018</ref>。木村以前の定跡書はただ指し手が書いてあり、最後に「これで先手よし」などと書いてあるだけのものであったが、木村は1手1手の指し手の解説を細かく行った最初の人である。この定跡を特に「大観定跡」といい、現在でも[[駒落ち将棋]]の基本定跡になっている。

木村の回想によれば、当時の将棋ファンから「将棋の本というのは分かりにくい、実際対局を出来るまでになるのは容易ではない」と言われ、「分かりやすいこと、出来るだけ親切に面白く学べること」をモットーに執筆し、好評を得たという。<ref>木村『将棋大観』マイナビ、2018</ref>木村以前の定跡書はただ指し手が書いてあり、最後に「これで先手よし」などと書いてあるだけのものであったが、木村は1手1手の指し手の解説を細かく行った最初の人である。この定跡を特に「大観定跡」といい、現在でも駒落ち将棋の基本定跡になっている。
昭和戦後は大量の書が出たが、棋士の[[ゴーストライター]]が書いたものも多く、例えば人気棋士の[[升田幸三]]はアマ名人の[[関則可]]にゴーストを行わせ、サインをするときだけ自著と関の本を分けていたという。名著として名高い『升田式石田流』も実際は関の執筆だと雑誌『[[将棋ジャーナル]]』で関本人が明かしている。(詳しくは関の項目参照)

昭和期の棋書としては升田のものを除くと[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]『将棋は歩から』・『将棋の公式』、[[米長邦雄]]『米長の将棋』・[[加藤一二三]]『棒銀の戦い』・『逆転の将棋』などがある<ref>加藤一二三『一二三の玉手箱』光文社知恵の森文庫、2019。加藤の「逆転」は、自分の自戦記を解説した初めての定跡書で好評を得たという。加藤は棋譜をモーツァルトの演奏にたとえ、「芸術は解説がないと分かりにくい。将棋も芸術なのだから棋譜の解説も重要だ」と述べている。友人の米長の本も加藤と同じ自戦記定跡解説形式である。</ref>。

[[夭逝]]した[[山田道美]]は若手のころの[[1957年]]から晩年の[[1967年]]に至るまでの10年に渡り、将棋雑誌『[[近代将棋]]』で[[連載]]を任される。連載のテーマは序盤作戦に精通し「序盤の金子」とも称された師匠の[[金子金五郎]]に倣ったもので、序盤研究の発表や定跡講座の連載などはこれ以降珍しいことではないのであるが、山田が開始した当時は実戦記や観戦記、簡単な戦法の解説以外はないので、この雑誌連載の定跡講座が初である<ref>[[将棋講座 (NHK) ]]でも[[1962年]]の「趣味講座」からである。</ref>。


山田は「近代戦法の実戦研究」と銘打って戦型別に最新の実戦研究を連載し、多くの研究手順や新手法が紹介される。「振り飛車の再認識」、「続・振り飛車の再認識」で、[[大野源一]]の[[三間飛車]]や[[大山康晴]]の[[四間飛車]]対策をメインに研究を誌上で発表、連載は「四間飛車新対策の功罪」「四間飛車の研究」などと長期にわたり続き、棋士たちまでが多く愛読したことも知られる<ref>『山田道美著作集』第一巻の「あとがき」に中原誠は「中でも、本巻に採録した一連の四間飛車対策は、つとに有名なものであり、『近代将棋』誌に連載中、多くの棋士や奨励会員がこぞって愛読したものである」と記している。</ref>。当時研究とは自分一人だけでのことで、その成果は自分だけにするのが普通であったため、連載の内容は本来棋士にとって機密事項ともいえる情報であり、それを惜しみなく公表している状態は得策ではないと、あまり自身の研究を外部に正直に発表するのことはやめるよう忠告した人もいたという。しかし、この山田が続けた連載により、山田が呼んでいた▲4六銀対策、▲3七銀対策などが[[山田定跡]]や[[4六銀左戦法]]、対振り飛車用[[棒銀]]へと結実し、[[四間飛車]]対策は飛躍的に進歩を遂げる。そして、連載の成果である代表作のひとつ『現代将棋の急所』(1969年に[[文藝春秋]]刊、1990年に復刻)が刊行される。当時最新の[[相矢倉]]戦や山田定跡などが元となっており、当時四段であった[[野本虎次]]が[[加藤一二三]]相手に本書通りの局面となったことで一手ずつ本を読みながら指して勝利したというエピソードもある<ref>コラム「棋士達の話」『将棋マガジン』1987年1月号</ref>。
昭和戦後は大量の定跡書が出たが、棋士のゴーストライターが書いたものも多く、例えば人気棋士の[[升田幸三]]はアマ名人の[[関則可]]にゴーストを行わせ、サインをするときだけ自著と関の本を分けていたという。名著として名高い『升田式石田流』も実際は関の執筆だと雑誌『将棋ジャーナル』で関本人が明かしている。(詳しくは関の項目参照)


こうして山田が多くの著作を残して亡くなって10年後、[[1980年]]から[[1981年]]にかけて、[[中原誠]]の編集により『山田道美将棋著作集』全8巻が[[大修館書店]]から出版された。
昭和期の棋書としては升田のものを除くと[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]『将棋は歩から』・『将棋の公式』、[[米長邦雄]]『米長の将棋』・[[加藤一二三]]『棒銀の戦い』・『逆転の将棋』<ref>加藤一二三『一二三の玉手箱』光文社知恵の森文庫、2019。加藤の「逆転」は、自分の自戦記を解説した初めての定跡書で好評を得たという。加藤は棋譜をモーツァルトの演奏にたとえ、「芸術は解説がないと分かりにくい。将棋も芸術なのだから棋譜の解説も重要だ」と述べている。友人の米長の本も加藤と同じ自戦記定跡解説形式である。</ref>などが好評であった


平成に入ってからは[[羽生善治]]『羽生の頭脳』が名著として名高い。また、「定跡伝道師」の異名をとった[[所司和晴]]と、その弟子の[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]はAIを取り入れた定跡研究書を大量に執筆している。
平成に入ってからは[[羽生善治]]『羽生の頭脳』が名著として名高い。また、「定跡伝道師」の異名をとった[[所司和晴]]と、その弟子の[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]はAIを取り入れた定跡研究書を大量に執筆している。

2024年4月4日 (木) 01:01時点における版

棋書(きしょ)とは、将棋に関する書籍のことである。ジャンルとしては定跡集、棋譜集、詰将棋問題集、次の一手問題集等がある。

著名な書籍

江戸時代の書籍

本項では、江戸時代1603年 - 1867年)に刊行された将棋についての書籍、あるいは同時代に筆写された写本をあつかう。内容は、将棋の定跡について述べたもの、対局の棋譜を集めたもの、詰将棋集などを含む。将棋の他には、中将棋大将棋などの将棋類についての記述が含まれているものもある。主に幕府将棋所関係者の執筆したものを中心としている。

特に著名なのは、伊藤宗看伊藤看寿兄弟の『将棋図巧』『将棋無双』の2つの詰将棋である。合わせて「詰むや詰まざるや百番」とも言われ、宗看が当時将棋盤に並べて「詰むや?詰まざるや?」(さあ、詰むでしょうか、詰まないでしょうか?)と弟子や知友に解かせた所ほとんど解けなかった為、江戸で評判になったという[1]。当時の将棋名人は江戸幕府を食んでいたために「献上図式」といって百番の詰将棋を献上していたが、既に「煙詰」などの長手数かつ趣向を凝らした詰将棋を完成させており、「献上図式」の中でも屈指の内容と言われる。昭和に成ってからも米長邦雄は『将棋図巧』『将棋無双』の重要性を力説し、「プロ四段になるためには必ず全問正解することが必要」(要約)と主張し、実際に羽生善治は6、7年かかって解き「あれをすべて自力で解ければ、理論が身につくこともあるが、それより難解な詰将棋200題を何年もかけて解く情熱とか熱意がプロになる原動力になる。自分も毎日毎日考えつづけて途中でもう嫌だと思って止めてしまい、全問正解まで6、7年もかかった。米長の言うプロ四段になるため全問正解が必要というのはそういうことだろう」(要約)と述べた[2]藤井聡太も小学生の頃から読んでいるという[3]

また定跡書としては大橋宗英の『将棋歩式』、福島順喜の『将棋絹篩』、天野宗歩の『将棋精選』を特に三大定跡書といい、『将棋精選』の掲載された「精選定跡」の一部は現在のプロ棋戦でも指されている手順である。例えば相掛かり、横歩取りはこの頃既に細かい手順が研究され、横歩取り後手2三歩戦法で飛車を捨てて先手優勢になる有名な手順は、既に載っている。また鳥刺しは香落ち下手定跡として掲載されている。

ここには挙げないが、阪田流向かい飛車穴熊などの定跡を考えていた人が民間にすでに存在していたことも分かっている。

書籍名 刊行年 著者・編者 内容
和暦 西暦
象戯造物 慶長7 1602 大橋宗桂 (初代) 初代宗桂の詰将棋50番
現存する最古の詰将棋集
象戯馬法并作物 元和2 1616 大橋宗桂 (初代) 『象戯造物』の増補再刊、詰将棋80番
象戯図式
(将棋智実)
寛永13 1636 大橋宗古 宗古の詰将棋100番
象戯作物
(将棋衆妙)
正保3 1646 大橋宗桂 (3代) 3代宗桂の詰将棋100番
献上図式として準備したが果たせず
象戯図式
(将棋駒競)
慶安2 1649 伊藤宗看 (初代) 初代宗看の詰将棋100番
仲古将棋記 承応2 1653 加藤盤齋 最古の実戦集
象戯鏡 寛文3 1663 加藤盤齋 実戦集、現存する最古の棋譜を収録
中象戯圖式 寛文3 1663 伊藤宗看 (初代) 中将棋の詰め物集
象戯図式
(将棋手鑑)
寛文9 1669 大橋宗桂 (5代) 5代宗桂の詰将棋100番
諸象戯図式 元禄7 1694 西沢貞陳 全4巻。1巻は各種将棋類の解説
2巻以降は詰将棋集(中将棋も含む)
近来象戯記大全 元禄8 1695 青木善兵衛 上中下3巻
『象戯鏡』に漏れた手合い集、詰将棋10番
作物象戯大矢数 元禄10 1697 无住僊良 詰将棋集
中象戯初心抄 元禄10 1697 中将棋の指し方、詰め物
将棋指覚大成 元禄11 1698 西沢貞陳
象戯図式
(将棋勇略)
元禄13 1700 伊藤宗印 (2代) 2代宗印の詰将棋100番
術知象戯カ草宗桂指南抄 元禄16 1703 大橋宗桂 (初代)
西沢貞陳
『象戯造物』の増補再刊、詰将棋100番
古今象戯評判 元禄16 1703 『象戯鏡』に評をつけたもの
中将棊指南抄 元禄16 1703 中将棋の指し方、詰め物
象戯洗濯作物集 宝永3 1706 洗濯周詠 詰将棋集
象戯綱目 宝永4 1707 赤懸敦庵 全5巻。定跡1巻、実戦2巻、詰将棋2巻
象戯亀鑑 正徳3 1713 山崎勾当 実戦集
象戯作物
(将棋養真図式)
享保元 1716 大橋宗与 (3代) 3代宗与の詰将棋100番
象戯図彙考鑑 享保2 1717 原喜右衛門 全6巻。序盤の駒組みの解説および実戦集
象戯勇士鑑 享保14 1729 宥鏡 詰将棋集
象戯作物
(将棋無双)
享保19 1734 伊藤宗看 (3代) 3代宗看の詰将棋100番
『将棋図巧』と並び詰将棋集の最高峰
観手象戯経 寛保3 1743 鈴木玄将
中将棊作物 延享3 1746 伊藤宗看 (3代) 中将棋の詰め物集
将棋妙案 宝暦年間 久留島喜内 詰将棋100番
橘仙貼璧 宝暦年間 久留島喜内 詰将棋集
象戯秘曲集 宝暦2 1752 添田宗太夫 詰将棋101番
象戯図式
(将棋図巧)
宝暦5 1755 伊藤看寿 看寿の詰将棋100番
『将棋無双』と並び詰将棋集の最高峰
将棋独稽古 宝暦8 1758 福島順喜 定跡書
象戯図式
(将棋大綱)
明和2 1765 大橋宗桂 (8代) 8代宗桂の詰将棋100番
広象棋譜 明和7 1770 荻生徂徠
中象戯補録集 安永7 1778 山形屋八郎右衛門 史上唯一の中将棋の実戦集
象棊攻格 天明5 1785 徳川家治 将軍家治の詰将棋100番
象戯図式
(将棋舞玉)
天明6 1786 大橋宗桂 (9代) 9代宗桂の詰将棋100番
最後の献上図式
将棋玉手箱 寛政2 1790 岡文器 定跡、および民間の棋士の実戦集
象戯指南車 寛政3 1791 永楽屋板 定跡書
象戯奇正図
(将棋玉図)
寛政4 1792 桑原君仲 詰将棋100番
唐山象棋譜 寛政8 1796 草加定環
将棋絹篩 文化元 1804 福島順喜 江戸三大定跡書の一つ
将棋歩式 文化7 1810 大橋宗英 江戸三大定跡書の一つ
将棋奇戦 文化8 1811 大橋宗英 実戦集
将棋粹金 文化9 1812 夢華道人 実戦集
将棋明玉 文化11 1814 大橋宗桂 (10代) 実戦集
平手相懸定跡集 文化13 1816 大橋宗英 相掛かりの定跡書
中将棊絹篩 文政元 1818 鶴峰戊申 中将棋の指し方、詰め物
温故知新棊録 文政2 1819 服部因徹
将棋絶妙 文政6 1823 伊藤宗看 (6代) 実戦集
象戯童翫集 文政11 1828 和中氏 詰将棋集
将棋精妙 天保3 1832 生島英造
田中幸次郎
実戦集
将棋早指南 天保10 1839 大橋宗英
大橋柳雪
大橋宗珉
宗英の遺稿を弟子がまとめた定跡書
将棋極妙 嘉永2 1849 桑原君仲 詰将棋集
将棋輝光 嘉永2 1849 大橋宗与 (7代) 実戦集
将棋精選 嘉永6 1853 天野宗歩 江戸三大定跡書の一つ
将棋精妙
(不成百番)
安政5 1858 伊藤宗印 (2代) 2代宗印の詰将棋100番
8代宗印による出版
将棋手鑑 明治10 1877 伊藤宗印 (8代) 天野宗歩の実戦集
象棋六種之図式 不明 不明 各種将棋類の解説
象戯図式 不明 不明 筆写本。各種将棋類の解説
大橋家家元秘傳記 大橋家秘伝の定跡書
大正期の大橋家断絶により公開
伊藤家将棋印可厳秘録 伊藤家秘伝の定跡書
大正期の伊藤家断絶により公開
平手相懸集奥義 大橋柳雪 大橋家秘伝の相掛かり定跡書

注解

明治以降の書籍

家元制度が衰退したため、明治時代江戸時代の定跡書の復刻が主となったが、昭和3年に十四世名人木村義雄の将棋定跡書『将棋大観』が出たのが近代の棋書の始まりである。木村の回想によれば、当時の将棋ファンから「将棋の本というのは分かりにくい、実際対局を出来るまでになるのは容易ではない」と言われ、「分かりやすいこと、出来るだけ親切に面白く学べること」をモットーに執筆し、好評を得たという[4]。木村以前の定跡書はただ指し手が書いてあり、最後に「これで先手よし」などと書いてあるだけのものであったが、木村は1手1手の指し手の解説を細かく行った最初の人である。この定跡を特に「大観定跡」といい、現在でも駒落ち将棋の基本定跡になっている。

昭和戦後は大量の棋書が出たが、棋士のゴーストライターが書いたものも多く、例えば人気棋士の升田幸三はアマ名人の関則可にゴーストを行わせ、サインをするときだけ自著と関の本を分けていたという。名著として名高い『升田式石田流』も実際は関の執筆だと雑誌『将棋ジャーナル』で関本人が明かしている。(詳しくは関の項目参照)

昭和期の棋書としては升田のものを除くと加藤治郎『将棋は歩から』・『将棋の公式』、米長邦雄『米長の将棋』・加藤一二三『棒銀の戦い』・『逆転の将棋』などがある[5]

夭逝した山田道美は若手のころの1957年から晩年の1967年に至るまでの10年に渡り、将棋雑誌『近代将棋』で連載を任される。連載のテーマは序盤作戦に精通し「序盤の金子」とも称された師匠の金子金五郎に倣ったもので、序盤研究の発表や定跡講座の連載などはこれ以降珍しいことではないのであるが、山田が開始した当時は実戦記や観戦記、簡単な戦法の解説以外はないので、この雑誌連載の定跡講座が初である[6]

山田は「近代戦法の実戦研究」と銘打って戦型別に最新の実戦研究を連載し、多くの研究手順や新手法が紹介される。「振り飛車の再認識」、「続・振り飛車の再認識」で、大野源一三間飛車大山康晴四間飛車対策をメインに研究を誌上で発表、連載は「四間飛車新対策の功罪」「四間飛車の研究」などと長期にわたり続き、棋士たちまでが多く愛読したことも知られる[7]。当時研究とは自分一人だけでのことで、その成果は自分だけにするのが普通であったため、連載の内容は本来棋士にとって機密事項ともいえる情報であり、それを惜しみなく公表している状態は得策ではないと、あまり自身の研究を外部に正直に発表するのことはやめるよう忠告した人もいたという。しかし、この山田が続けた連載により、山田が呼んでいた▲4六銀対策、▲3七銀対策などが山田定跡4六銀左戦法、対振り飛車用棒銀へと結実し、四間飛車対策は飛躍的に進歩を遂げる。そして、連載の成果である代表作のひとつ『現代将棋の急所』(1969年に文藝春秋刊、1990年に復刻)が刊行される。当時最新の相矢倉戦や山田定跡などが元となっており、当時四段であった野本虎次加藤一二三相手に本書通りの局面となったことで一手ずつ本を読みながら指して勝利したというエピソードもある[8]

こうして山田が多くの著作を残して亡くなって10年後、1980年から1981年にかけて、中原誠の編集により『山田道美将棋著作集』全8巻が大修館書店から出版された。

平成に入ってからは羽生善治『羽生の頭脳』が名著として名高い。また、「定跡伝道師」の異名をとった所司和晴と、その弟子の渡辺明はAIを取り入れた定跡研究書を大量に執筆している。

脚注

  1. ^ 平凡社版『詰むや詰まざるや 将棋無双・将棋図巧』、門脇芳雄解説より
  2. ^ 米長・羽生『勉強の仕方―頭がよくなる秘密』祥伝社文庫、1999
  3. ^ 河北新報『河北春秋』2020年7月17日付 https://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyunju/20200717_01.html
  4. ^ 木村『将棋大観』マイナビ、2018
  5. ^ 加藤一二三『一二三の玉手箱』光文社知恵の森文庫、2019。加藤の「逆転」は、自分の自戦記を解説した初めての定跡書で好評を得たという。加藤は棋譜をモーツァルトの演奏にたとえ、「芸術は解説がないと分かりにくい。将棋も芸術なのだから棋譜の解説も重要だ」と述べている。友人の米長の本も加藤と同じ自戦記定跡解説形式である。
  6. ^ 将棋講座 (NHK) でも1962年の「趣味講座」からである。
  7. ^ 『山田道美著作集』第一巻の「あとがき」に中原誠は「中でも、本巻に採録した一連の四間飛車対策は、つとに有名なものであり、『近代将棋』誌に連載中、多くの棋士や奨励会員がこぞって愛読したものである」と記している。
  8. ^ コラム「棋士達の話」『将棋マガジン』1987年1月号

関連項目