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'''小林 且雄'''(こばやし かつお、[[1961年]][[2月28日]] - )は、日本の[[レーシングドライバー]]。[[長野県]]出身で血液型はB型。
'''小林 且雄'''(こばやし かつお、[[1961年]][[2月28日]] - )は、日本の[[レーシングドライバー]]。[[長野県]][[小諸市]]出身で血液型はB型。


免許取得後に[[ラリー]]を始め、その後[[ダートトライアル]]に転向。[[1989年]]、[[1990年]]には全日本ダートトライアル選手権のC2クラスチャンピオンを獲得する(翌1991年はダートラ休業)。また、1990年にはレースにも参戦し始め同年[[富士スピードウェイ|富士]]フレッシュマンシリーズ・[[日産・シルビア|シルビア]]のチャンピオンを獲得する。[[1991年]]、[[1992年]]には[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]]インターカップに参戦。1992年からダートラ復帰、A1クラスに参戦。[[1993年]]にはJSSスーパースポーツセダンレースに参戦。1994年からはレースに完全転向し、[[1995年]]より[[全日本GT選手権]]に参戦している。[[2003年]]、[[2004年]]には、アメリカ[[パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム]]にも参戦。
免許取得後に[[ラリー]]を始め、その後[[ダートトライアル]]に転向。[[1989年]]、[[1990年]]には全日本ダートトライアル選手権のC2クラスチャンピオンを獲得する(翌1991年はダートラ休業)。また、1990年にはレースにも参戦し始め同年[[富士スピードウェイ|富士]]フレッシュマンシリーズ・[[日産・シルビア|シルビア]]のチャンピオンを獲得する。[[1991年]]、[[1992年]]には[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]]インターカップに参戦。1992年からダートラ復帰、A1クラスに参戦。[[1993年]]にはJSSスーパースポーツセダンレースに参戦。1994年からはレースに完全転向し、[[1995年]]より[[全日本GT選手権]]に参戦している。[[2003年]]、[[2004年]]には、アメリカ[[パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム]]にも参戦。

2007年1月12日 (金) 12:43時点における版

小林 且雄(こばやし かつお、1961年2月28日 - )は、日本のレーシングドライバー長野県小諸市出身で血液型はB型。

免許取得後にラリーを始め、その後ダートトライアルに転向。1989年1990年には全日本ダートトライアル選手権のC2クラスチャンピオンを獲得する(翌1991年はダートラ休業)。また、1990年にはレースにも参戦し始め同年富士フレッシュマンシリーズ・シルビアのチャンピオンを獲得する。1991年1992年にはミラージュインターカップに参戦。1992年からダートラ復帰、A1クラスに参戦。1993年にはJSSスーパースポーツセダンレースに参戦。1994年からはレースに完全転向し、1995年より全日本GT選手権に参戦している。2003年2004年には、アメリカパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにも参戦。

エピソード

  • ホッケンハイムで行われたドリフトイベントで、ニック・ハイドフェルドを抑え優勝したことがある。
  • ダートラ参戦時、ダートラ会場の実況アナウンサーから「日本一貧乏なチャンピオン」と言われた事がある。
  • 1992~93年とスバル・ヴィヴィオでダートラA1クラスに参戦、A3クラス(トヨタ・スターレット)のトップタイムをも上回るタイムを叩き出していたが、ライバルである粟津原豊が更に上のタイムを叩き出していた。

外部リンク