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等級 (鉄道車両)

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鉄道車両の等級は、料金の段階を表わす。支払う価格によって、乗客はより多くの快適さを得る。

そこに含まれるのは、たとえばよりよい座席(布張り、革、クロスシートなど)、足元の余裕(個別の席の間隔)、個室あるいはより大きい空間をもつ車両、暖房や空調が効いた車両、携帯電話中継装置、静寂ソーン、コンセント、テーブル、日除けブラインド、などがある。旅行の前や(鉄道駅の特別の待合室)、列車内での通常以上のサービス(無料の飲物、食事あるいは新聞)も含まれる。列車の時間の正確さとスピード、ルート、鉄道駅とルートの状態などは等級に無関係である。

列車の種別により(例えばICEとローカル列車を比較した場合)車両等級ごとの価格、快適さとサービスはかなり変動する。1等の車両はそれぞれの乗客により多くの場所を提供するため、2等の車両より旅客収容力は少ない。さらに1等の車両がしばしば乗客の需要より多く割り当てられるため、特に混雑する時期には、比較的すいた車両を利用できる。

日本

等級制

日本においてはかつて、旅客列車の車両に国鉄が定めた等級制があった。私鉄でも会社により同様の制度があった。時期により以下の二つに分類される。

3等級制時代(1960年以前)

1872年鉄道開業の際に、客車は3等級とされ、上等・中等・下等に区分したが、1897年(明治30年)11月に一等・二等・三等へ変わった。「下等」の名称が乗客の感情を害するためであったと報じられている[1]。また客車の帯色の塗りわけは1896年関西鉄道が採用、官鉄も1897年に上記と同時に実施した。明治以来の3等級制下においては、最上級位車両。車体表記は、一等車はイ、二等車はロ、三等車はハとなっている。

2等級制時代(1960年~1969年)

1960年6月1日東海道本線特急の電車化に伴い、定期での一等展望車の使用が終了した。これを受けて7月1日に2等級制に移行、旧一等展望車と外国人客向け一等車は共に旧二等車と統合されて新しい2等級制の一等車になった

三等車は二等車となって、記号は一等車(後のグリーン車)がロ、二等車(後の普通車)がハとなった。

等級制時代の運賃・料金

等級制時代には、運賃および特急・急行料金は等級別に異なっていた。例えば1960年以前であれば、3等運賃・料金を基準とすると、2等運賃・料金はおおむねその2倍、1等運賃は2等運賃の2倍、1等特急料金は3等の3倍が収受されることになっていた。[2]。 なお、この倍率は採用時期・採用会社によって相当異なっており、国鉄でもたとえば1950年4月1日改定以前は、2等が3等の3倍であった[3]。また切符の色も等級別に異なっており、客車の帯の色から1等は「白切符」(実際には黄色)、2等は「青切符」、3等は「赤切符」と呼ばれていた。

モノクラス制

1969年5月10日、国鉄はモノクラス制に移行した。それまでの一等車はグリーン車、二等車は普通車となる。

それまでは等級に応じて分かれていた運賃、特急・急行料金等は一本化され、グリーン車利用の場合はグリーン料金のみ、別途払うこととなった。

ヨーロッパ・アメリカ諸国

アジア諸国

脚注

  1. ^ 厳密には続いて1898年1月に変更した山陽鉄道についてであるが、官鉄も同様であろう。長船、p.128。
  2. ^ ただし実際には1、2等運賃や料金には通行税2割が課せられていたので、1等料金は3等の3.6倍の金額になった。(日本交通公社『時刻表』1959年7月号による)
  3. ^ 星晃『回想の旅客車』上、p.67。

参考文献

  • 長船友則『山陽鉄道物語―先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』、JTBパブリッシング、2008年。
  • 星晃『回想の旅客車』上下、学研、2008年

関連項目