ホンダ・145
ホンダ・145 | |
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145 クーペ | |
ボディ | |
乗車定員 | 5名 |
ボディタイプ | 4ドア セダン・2ドア クーペ |
駆動方式 | FF |
パワートレイン | |
エンジン |
水冷 直4 SOHC 1,433cc 80PS/5,500rpm 12.0kg·m/3,500rpm 90PS/6,000rpm 12.5kg·m/4,000rpm |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,250mm |
全長 |
セダン:3,995-4,020mm クーペ:4,140mm |
全幅 |
セダン:1,465mm クーペ:1,495mm |
全高 |
セダン:1,360mm クーペ:1,330mm |
車両重量 |
セダン:845-880kg クーペ:850-880kg |
ホンダ・145 (HONDA・145) は本田技研工業が1972年11月に発表し、1975年まで生産していた、フロントエンジン・フロントドライブ方式を採用した4ドアセダン、および2ドアクーペの小型乗用車で、実質的にはホンダ・1300のマイナーチェンジモデルである。
概要
ボディスタイルはホンダ・1300の後期型をほぼ踏襲しており、4ドアセダンは1300「ゴールデンシリーズ」の丸型二灯式ヘッドライトのオーソドックスなフロントグリルを受け継いだ平凡な、当時のホンダ車としては異例なほど地味なスタイルであった。クーペは旧1300「ダイナミックシリーズ」の1960年代ポンティアック風2分割グリルを受け継ぎ、更に初期の1300「77セダン」同様の角型ヘッドライトを採用、ややアグレッシブな顔付きとなった。
搭載エンジンは、一足先の1972年7月に登場したシビックのエンジンをスープアップした水冷 直4 SOHC 1,433ccで、シングルキャブレター仕様の最高出力は80PS/5,500rpmであった。2ドアクーペにのみ最上級グレード「FI」( Fuel Injection )が用意され、1960年代のF1レースの経験から開発された機械式燃料噴射装置付きエンジンが採用され、最高出力90PS/6,000rpmを発生していた。この新しいエンジンでは無鉛ガソリンが使用可能となり、水冷化が後の公害対策も視野に入れてのものであったことが窺える。
前身の1300は、特徴であった複雑な構造の空冷エンジン(DDAC)により車全体の重量配分を崩しており、しかも余りにピーキーな出力特性であったため操縦性もトリッキーであったが、新エンジンを得たことにより前軸重量が軽くなり重量配分が幾分改善され、145の操縦性は安定したものとなるとともに、空冷の弱点であったヒーター能力も向上した。また、スタンダードを含む全車種に前輪ディスクブレーキを採用していたことは時流に先んじていた。ホイールハブボルトのPCDはホンダ・1300同様の120 mm という特殊な規格で、これは初代シビック、初代アコードまで継承された。
バリエーションはセダンが「スタンダード」(発売当時の東京地区標準現金価格51.1万円)、「デラックス」(59.1万円)、「カスタム」(65.8万円)の3種、クーペが「SL」(62.3万円)、「GT」(67.3万円)、「GL」(71.1万円)、「FI」(81.1万円)の4種で、当初はフロアシフトの4速MTのみの設定であった。月間販売目標は1,000台と控え目に設定されていた。
1300の問題点をほぼ克服して完成度の高い車となった145だが、既には発売後3年を経過し不人気車となっていた1300の焼き直し版であったために人気は引き立たず、ヒット作シビックの影に隠れた存在となリ、販売は低調であった。セダンよりはクーペの「GT」や「GL」が売れていたが、「FI」は高価だったこともあり当時から路上では稀な存在であった。
歴史
- 1972年10月 東京モーターショーに参考出品。セダン2台、クーペ2台、それにエンジン単体1基が展示された。
- 1972年11月15日 発売開始
- 1973年5月 AT搭載車を追加。
- 1973年11月 保安基準適用のため一部改良。セダンは廃止されクーペのみとなる。
- 1974年10月 シビックの増産に伴い生産中止、その後在庫が細々と売られたが自然消滅となる。
車名の由来
約1,450ccのエンジン排気量から。
逸話
1300の販売不振にホンダが悩んだ1970年頃にあった有名な出来事は、エンジンの冷却方法について本田宗一郎と若手技術者達が激しく対立したことであった。「水でエンジンを冷やしても、その水を空気で冷やすのだから、最初から直接 空気でエンジンを冷やしたほうが無駄がない」という本田宗一郎の主張と、「水冷のほうがエンジン温度を制御しやすい」という若手技術者の主張は激しくぶつかり合い、当時技術者だった久米是志(後の3代目社長)が辞表を残して出社拒否をしたほどであった。
技術者達は、副社長の藤沢武夫に、あくまで空冷にこだわる宗一郎の説得を依頼、藤沢は電話で宗一郎に「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらなんだ?」と問い質し、宗一郎は自分が社長だという事をようやく認識、若手技術者の主張を認める事となり、1971年の初代ライフを皮切りに、初代シビック・145と水冷エンジン搭載車が次々に陽の目を見ることになったという。
1300の生産中止により、本田宗一郎が執念を燃やした空冷エンジン乗用車はホンダのラインナップから消滅し、本田宗一郎は藤沢武夫と共に、翌1973年に引退することになる。