中川文蔵
中川 文蔵 | |
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出生地 | 富山県西砺波郡福光町(現在の南砺市) |
死没地 | 北海道 |
前職 | 農民、商人 |
配偶者 | 妻・中川セイ |
親族 | 息子・中川一郎、中川義雄など |
広尾町会議員 |
中川 文蔵(? - 昭和53年(1978年))は日本の農民、商人(雑貨商兼家畜商)、政治家。元広尾町議。あだ名は“拙者(せっしゃ)文蔵”[1]。
経歴
入植者
14歳の時北海道に渡り[2]、道東の僻地を選んで開拓に従事した[2]。
19歳で父を失った[3]。以来、文蔵はたったひとりで一家眷族(いっかけんぞく)を養うことになった[3]。ある時は田地田畑の作物が全滅し、また牛や馬が人手に渡ったことも一度や二度ではなかった[3]。
雑貨商兼家畜商
一郎が小学校2年生の時、文蔵は開拓地を離れて町なかに住み、雑貨商兼家畜商に転じた[4]。
政治家として
政治評論家の今井久夫によると「村議となった文蔵はある時陳情のため札幌の道庁に出かけた[3]。そこで受けた待遇が文蔵の頭にカチンときた[3]。そのカチンが中川の運命を左右する[3]。道庁の役人は、田舎の村議をまるで虫ケラの如く扱ったのである[3]。その尊大な、威張り散らした態度に、文蔵は屈辱を覚えると同時に、ハラの底から怒りがこみあげてくるのを押えることができなかった[5]。“よーし、この仇はとってやる”文蔵はそう決意する。そのためには文蔵は長男の一郎を一流の官吏に育てあげ、道庁の木っ葉役人どもを見返すほかはない[6]。文蔵は中川に後事を托するような気持で中川の成長を見守り、その出世(しゅっせ)を期待する[6]。…」。
晩年
昭和53年(1978年)一郎が農林大臣の要職にある時に85歳で逝去した[7]。
道庁の役人を見返してやろうと思った文蔵の願いを、一郎は十倍にも二十倍にもしてかなえてくれた[8]。
人物像
長男の一郎と貞子が結婚したのは、昭和26年(1951年)7月9日)[9]。札幌市中央区南14条西4丁目にある弥彦神社で、神前結婚式が行われた[9]。二人の結婚に当初から反対していた文蔵は姿を見せなかった[9]。
家族・親族
一郎の長男昭一は兎唇の障害を持って誕生した[11]。一郎の妻貞子はこれを“中川一族の血”のせいと信じ込み、夫の一郎にあたりちらした[12]。一郎の父文蔵が家畜商をしていた、そのたたりだとまで言ったという[13]。
参考文献
- 今井久夫 『反骨の宰相候補 中川一郎』1979年
- 内藤國夫 『悶死 中川一郎怪死事件』 1985年
脚注
- ^ 『反骨の宰相候補 中川一郎』240頁によると「“拙者文蔵”というのは文蔵が改まった時に使う一人称である。つまり文蔵は「拙者(せっしゃ)文蔵…」と切り出すような明治の古いタイプの人間であった。広尾周辺の人たちは、文蔵を“拙者文蔵”とアダ名で呼ぶようになった。」という
- ^ a b c 『反骨の宰相候補 中川一郎』239頁
- ^ a b c d e f g 『反骨の宰相候補 中川一郎』240頁
- ^ 『悶死 中川一郎怪死事件』73頁
- ^ 今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』240-241頁
- ^ a b 『反骨の宰相候補 中川一郎』241頁
- ^ 『悶死 中川一郎怪死事件』150頁
- ^ 『反骨の宰相候補 中川一郎』251頁
- ^ a b c 『悶死 中川一郎怪死事件』 139頁
- ^ 『悶死 中川一郎怪死事件』73頁
- ^ 『悶死 中川一郎怪死事件』 140頁
- ^ 『悶死 中川一郎怪死事件』 140-141頁
- ^ 『悶死 中川一郎怪死事件』 141頁