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盛岡市

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もりおかし ウィキデータを編集
盛岡市
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 岩手県
市町村コード 03201-8
法人番号 6000020032018 ウィキデータを編集
面積 886.47km2
総人口 281,364[編集]
推計人口、2024年7月1日)
人口密度 317人/km2
隣接自治体 花巻市八幡平市
岩手郡雫石町滝沢村岩手町葛巻町
紫波郡紫波町矢巾町
下閉伊郡岩泉町川井村
市の木 カツラ
市の花 カキツバタ
市の鳥 セキレイ
盛岡市役所
市長 内舘茂
所在地 020-8530
岩手県盛岡市内丸12番2号
外部リンク ウェブもりおか
ファイル:岩手県盛岡市県内位置図.svg
ウィキプロジェクト

盛岡市(もりおかし)は、東北地方の北部、岩手県内陸部のほぼ中央に位置する都市で、同県の県庁所在地である。2000年12月より特例市森岡 将弘

概要

平安時代桓武天皇の命により「志波城」が置かれ、古代陸奥国最前線の治府となる。 在郷豪族安倍氏により治められたが、度重なる源軍の進攻を受け清原氏に、次いで平氏政権の下奥州藤原氏による独立的自治を経て、再び源氏により鎌倉幕府の統治下となる。 源頼朝自らの指揮により、関東から多くの御家人が配置され、安倍氏の旧城・厨川を拠点に「奥州工藤氏(厨川氏)」が治めた。 南北朝期には両統群雄割拠する中、甲斐源氏の流れを汲む南部氏三戸青森県三戸町)からの南進を果たす。先に南部氏の目代福士氏が「不来方城」を設け、これが後の盛岡城の基となった。 この城を中心に、江戸時代初期に「三日月の円くなるまで南部領」と広大無比を歌われた南部藩(後の盛岡藩)の城下町として開かれ、以後およそ400年の歴史を刻む。

東北新幹線東北自動車道八戸自動車道の開通以後、流通・交通の要衝となり、秋田新幹線の開通と東北新幹線の八戸延伸で北東北の主要都市圏同士を結ぶ結節点として拠点性が高まった。 1995年には、盛岡都市圏秋田都市圏を抜いて北東北最大の都市圏となった。2000年国勢調査で、仙台都市圏(156万人)、郡山都市圏(54万人)に次ぎ、盛岡都市圏は山形都市圏と並ぶ約48万人の人口を擁し、東北地方第三の都市圏・経済圏を形成していると見なされている(山形都市圏が仙台経済圏内にあるため)。このため、「北東北の拠点都市」をキャッチフレーズとしている。 2008年度に中核市へ移行する予定である。

由来

名称

「盛岡」とは、元禄4年(1691年)に、南部家第29代当主・重信公と宝珠盛岡山永福寺第42世・清珊法印との間で交わされた連歌

「幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の山」

に由来する瑞祥地名。「盛り上がり栄える岡」の意味を持つ。

旧称

当地は南北朝期から「岩手郡仁王郷不来方(逆志方)」と記され、「不来方(こずかた)」と呼ばれた。時の南部藩主がその文字を忌み嫌い、のち「森が岡」を経て「盛岡」に改名、現在に落ち着いたと伝えられる。これは盛岡城鬼門鎮護寺・永福寺境内の裏山を「森が岡」と呼んでいたことに関係すると伝わる。 俗伝によると、「不来方」とは、往古、村を荒らした「羅刹」という鬼が三石神(三ツ石神社)に成敗の上退散を命じられ、「二度と災いを及ぼさない、二度と訪れない」ことを誓った故事によるもの。この時に約束の証として岩に押した手形が、かつて盛岡を含んだ郡名、後に県名となる岩手の名の由来であり、この時、里人が神への感謝を捧げて踊ったのが「さんさ踊り」だと伝えられる。 なお、現在の盛岡市域を含み今に続く旧名の由来は、次の通り。

  • 「仁王郷」- 長谷寺に仁王像を置いたことに因む。江戸時代以後、仁王像と十一面観音像は、玉東山筑波寺へ移された(現在は東楽寺が収蔵)。現・盛岡市立仁王小学校にその名を留める。
  • 岩手郡」- 文献に表れるのは、平城天皇の御代に陸奥国から献上された鷹を愛で、帝がつけた名前「いはて」(大和物語第152段)が最初という。大納言は「いはて」を取り逃がしてしまい、奏じるのを躊躇っていたがついに口にすると、これを嘆いた帝は何も言わなかった。なぜ何もおっしゃらないのかと問うと、「いはて思ふぞ言ふにまされる」(言わないことこそが言うことよりも思いは深いのだ)と鷹の名に掛けて詠じたという。このほか、「岩出の森」に由来という説がある。

 心には 下行く水のわきかへり 言はで思ふぞ 言ふにまされる - 古今和歌集六帖

  • 紫波郡」- 天正年間に奥州斯波氏斯波詮直(最後の斯波御所)が北上川遊覧の折、川底の赤石に陽が射し、紫色に輝く川波を瑞兆として、古代よりの斯波郡を「紫波郡」と改めたという説がある。また、志賀理和気神社式内社だが、この赤石を御神石として引き上げ祀ったので、後世「赤石神社」とも呼ばれている。

 けふよりは  紫波と名づけん この川の 石にうつ波 紫に似て - 斯波詮直

雅称

不来方」は、今日ではむしろ雅称として使われることが多い。他に、盛岡を漢文調に読み雅号として杜陵(とりょう)とも称される。石川啄木は、その作品の中で「美しい追憶の都」、宮沢賢治エスペラント風に「モリーオ市」と記した。「杜と水の」「みちのく小京都」とも称される。現代では一般的呼称ではないが、中世には盛府(せいふ)とも記された。

地理

玉山村を編入合併する前の盛岡市、県内位置図

気候

  • 30年平均(1976年~2005年)で夏日が68.6日、真夏日が17.7日であるが、やませの影響を受ける年があったり、盆地のためにフェーン現象が発生したりするため、夏日は41~94日、真夏日は1~48日と年による変動幅が大きい。ただし、真夏日が多い年であっても熱帯夜となることは稀(1931年~2006年の76年間で2夜のみ)である。

  • 30年平均(1976年~2005年)で冬日が124.6日(97~147日)、真冬日が16.6日(1~40日)である。全体的には暖冬傾向がみられるが、年によって異なる。
  • 西高東低の冬型の気圧配置では、日本海で発生した雪雲が奥羽山脈を越えて盛岡に雪を降らせるかどうかが、上空の気温と関係しており、最寒期には積雪をもたらすが、寒気団の南下がなければ日本海側で雪が降っていても快晴となることもよくみられる。そのため、年間累計積雪量は東北地方において中位程度である一方、冬季の日照時間は長く、晴れた深夜・早朝に放射冷却現象が起きて路面凍結が度々発生し、雪害よりも問題となることが多い。近年は行政により、積雪・凍結に対して除雪融雪が行き届き、市民生活や経済活動への支障は以前ほど見られなくなった。更に、断熱材を多く用い、かつ、気密性が高い住宅が普及したこと、また、モータリゼーションが浸透したことなどで、屋外・屋内問わず暖かく過ごすことが出来るようになってきたため、暖冬傾向とあいまって、感覚的にも冬の厳しさはあまり感じられなくなってきた。
  • 昼夜の寒暖差(日隔差)が激しい典型的な盆地性気候であり、東北地方で最も冬季の気温が低い県庁所在地である(→東北地方#気候)。
  • 市内でも標高差など地理条件により気温差が顕著である。殊に玉山区藪川地区は、厳冬期には放射冷却によって零下20℃を下回ることもあり、岩手県川井村区界、青森県酸ヶ湯と並んで、本州でも寒冷な土地の一つとされる。

主な都市の降雪量・積雪量(平年値)

都市 降雪量累計 最深積雪 1月気温
札幌 630 cm 101 cm -4.1℃
青森 774 cm 114 cm -1.4℃
秋田 409 cm 41 cm -0.1℃
山形 491 cm 50 cm -0.5℃
盛岡 351 cm 36 cm -2.1℃
仙台 90 cm 17 cm 1.5℃
石巻 56 cm 17 cm 0.5℃
福島 235 cm 26 cm 1.4℃
いわき 14 cm 6 cm 3.6℃
NYC 57 cm - -0.6℃
都市 降雪量累計 最深積雪 1月気温
軽井沢 136 cm 32 cm -3.6℃
新潟 255 cm 39 cm 2.6℃
富山 433 cm 69 cm 2.5℃
金沢 360 cm 53 cm 3.7℃
彦根 131 cm 29 cm 3.6℃
岐阜 52 cm 16 cm 4.3℃
鳥取 263 cm 49 cm 3.9℃
松江 111 cm 24 cm 4.2℃
東京 13 cm 7 cm 5.8℃
シカゴ 97 cm - -5.6℃


降雪量累計気象庁の統計データでいう「降雪の深さ合計」のこと。日ごとの降雪量を、シーズン全体で合計した量(平年値)
最深積雪:一度に降る最も多い積雪量(平年値)
1月気温:1月の平均気温(平年値)
(参考):参考としてニューヨーク市(=NYC)とシカゴ市の値も付加。アメリカ合衆国の統計値はNational Weather Serviceによる。

地形

  • 盆地

盛岡市は、岩手県の主要部である北上盆地(人口約100万人)の北端にあり、南へ向かって平野部・河岸段丘が開けている。 この盆地は、東の北上山地、西の奥羽山脈に囲まれている。東北地方最長の大河である北上川流域の肥沃な穀倉地帯で、宮城県の仙台平野へ連なっている。

  • 山脈・高地

岩手県の最高峰岩手山を北西に、駒ケ岳を西に、内陸部と三陸海岸とを隔てる北上山地の主峰早池峰山を南東に、円錐形の独立峰姫神山を北東に仰ぐ。南に南昌山東根山を配し、市街の周縁部に「岩山」「愛宕山」「鑪(たたら)山」「蝶ヶ森」「飯岡山」「黒石山」「神庭山」など低い里山・丘陵地が入り組み、良好な緑地を形成するとともに、総じて街のランドマークとなっている。

  • 河川

御堂観世音(天台宗北上山新通法寺正覚院境内の「弓弭の泉」)から北上川を発し、盛岡の北から南へ貫く。西から雫石川、東から中津川が市の中心部で北上川に合流し、南方の平野部へ流れて穀倉地帯を形成している。それぞれの河川上流にはダムが作られ、三方に湖をたたえる。また簗川(やながわ)、米内川(よないがわ)、木賊川(とくさがわ)、諸葛川(もろくずがわ)、南川(みなみかわ)などの小河川が市内を流れる。

  • 湖沼

北上川の上流に「南部片富士湖(四十四田ダム)」、雫石川の上流に「御所湖(御所ダム」)、中津川の上流に「綱取ダム」があり、三大河川の調整を図っている。
また江戸時代に灌漑用として「上田堤」が築かれ、現在は「高松の池」として市民の憩いの場となっている。

交通

国道4号東北縦貫自動車道東北新幹線などの主要幹線道路や東北本線が、北上川に沿って建設されている。また、盛岡駅を基点に田沢湖線山田線花輪線いわて銀河鉄道が走り、盛岡市を中心に岩手県道が放射状に伸びている。
東西に国道106号線で太平洋沿岸の宮古市、国道46号線で日本海沿岸の秋田市とほぼ直線上に結ばれる。

土地利用

東西の丘陵地帯に囲まれ、南北に長い平地の広がる北上盆地の北端にあって、三大河川の合流点となる「盛岡城」跡を中心に市街地が南北へ広がる。可住面積に比して高い森林面積比率を持つため、平野部へ特化した開発が進み、南北に隣接する町村へ住宅地・商業地を拡大させている。

  • 中心部

市の中心部は戦災を受けなかったため、城下町開府以来の区画が残されているのが特徴である。盛岡城内丸」跡を中心に官庁街が形成され、岩手県庁、岩手県警察本部岩手県民会館、岩手県公会堂、盛岡市役所、国・県の盛岡地区合同庁舎、盛岡東警察署、盛岡地区広域行政事務組合消防本部、盛岡地方裁判所など公共機関が集中している。また金融機関として岩手銀行東北銀行北日本銀行の各本店と農林中央金庫盛岡支店、マスコミとして岩手日報社、テレビ岩手エフエム岩手、医療機関として岩手県高次救急センター及び岩手医科大学の本部・本社も位置する。

商業地区として「菜園・大通」があるが、これは城内の食膳に野菜を供するための「盛岡城御菜園」跡を、都市計画によって市街化したものである。 当地にはかつての盛岡藩校「作人館」の置かれた歴史的経緯もあり、これを現代に到る諸校のルーツとして、かつて「盛岡農学校」「旧制盛岡中学校」「岩手女子師範附属小学校」など主要な文教施設も集中していたが、時代を追うごとに郊外への移転を図っていった。創設以来、内丸に本拠を置く岩手医科大学も、現在移転準備中である。

中津川を挟んだ旧城下に中心業務地区が展開、歴史的建造物と混在する街並みを形成する。中高層マンションが林立し、高さ30メートル以上の高層ビルは、高層マンションを中心に177棟以上である。なお、建設中のビルを含めると200棟近い。 古くから、内丸を含む中津川以北・以西を「河北」と呼ぶ。

  • 北部

中心部から北部にかけては、岩手医科大学岩手大学盛岡一高盛岡三高盛岡市立図書館岩手県営野球場岩手県立博物館等の教育文化施設が連なり、広範囲に文教地区を形成している。 藩政時代以来の寺院が集中する(北山・名須川町)一方で、盛岡ドミニカン修道院、日本ハリストス正教会盛岡教会などの歴史あるキリスト教会も点在(上田・高松・山岸)し、シャルトル聖パウロ修道女会系の盛岡白百合学園がある。江戸時代は、三陸海岸から城下へ塩を運ぶ「塩の道」と呼ばれる野田街道沿いに開けた。 また四十四田ダム湖畔には山林部を開いた松園ニュータウンと呼ばれる大規模な宅地があり、姫神山を中心とする玉山区(旧玉山村)に到る。

  • 東部

城下町開府以来、「河南」と呼ばれる中津川以南及び以東のこの地域は、商業街として発達した肴町、「盛岡八幡宮」の門前町として発達した八幡町、舟運による物流拠点「新山河岸(現・明治橋際)」、最寄の「新穀町惣門」などを中心に、古くから賑わうところである。 市街を取り囲むような配置で天神、住吉、松尾などの各神社と、大慈寺ほかの寺院が集中(「寺ノ下寺院群」)している。 江戸時代に架けられた「盛岡三橋」と呼ばれる「上・中・下」の橋が中津川上流から連なり、河北と結ばれている。

「上ノ橋」附近は、街道沿いで往来が多く、「鍛冶町一里塚」や、「牛越場」といった旧跡が残る。盛岡天満宮と結ぶ通り沿いには文教地区が形成され、良好な住宅地ともなっている。 「中ノ橋」附近は、盛岡藩の高札場が置かれた経済交流の中心地で、旧盛岡銀行本店、旧国立第九十銀行、盛岡信用金庫本店、旧小野組跡など、歴史的価値の高い金融機関の建造物を有し、一時は金融街が形成されていた。 「下ノ橋」附近は、南昌荘、大清水多賀本店など近代の邸宅・料亭建築が残され、江戸時代から近代にかけての近代化建築史を知る上で貴重なエリアである。

東部の丘陵地帯には、盛岡市動物公園(動物園)や岩山公園、岩山漆芸美術館、盛岡競馬場などがあり、行楽地となっている。さらに東部は北上山地が広がり、区界高原のある川井村など農村地帯となっている。

  • 西部

西部は、中心部と北上川を挟んで結ばれ、盛岡駅を核とする市街地が展開する。東北新幹線の開通に伴う盛岡駅前(東口)再開発と、2005年以後に複数のビジネスホテル進出が進出、目覚しい発展を続けている。 平成に入って、旧国鉄盛岡工場跡地の再開発をはじめとする「盛岡駅西口開発」が進み、「盛岡地域交流センター(マリオス)」「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」などの建設で、従前の市街地と盛岡南都市開発地域とを結ぶ「都心軸」の結節点を構築しようとしている。 平安時代に安倍氏や奥州工藤氏が拠点とした地域であり、安倍館遺跡、里館遺跡などが幅広く存在、今日まで関連する地名が多く遺され、「厨川柵」「嫗戸柵」の擬定地となっている。また、大館町遺跡、大新町遺跡など、古代の埋蔵遺跡も多く見られる。

外周部には「観武ヶ原練兵場」跡を開拓した農地から移行して住宅地が広がり、2006年には盛岡西警察署盛岡西消防署が所在する青山通り沿いに青山駅が開業。みたけ地区には、昭和47年の岩手国体を契機として県営のスポーツ競技施設(総合運動公園、スケート場、武道館、体育館)などが集中、その外周部には、独立行政法人東北農業研究センターをはじめ、隣接する滝沢村には岩手県立大学盛岡大学岩手産業文化センターが立地するなど、国と県の農業研究機関・教育機関等が集中している。 国道46号盛岡西バイパスの接続により店舗等の進出が増えており、秋田県からの往来が顕著である。御所湖附近の繋温泉は「盛岡の奥座敷」とも呼ばれ、盛岡手づくり村をはじめとした観光拠点となっており、隣接する雫石町の小岩井農場はじめ温泉地・スキー場への足がかりとなっている。

  • 南部

南部は「盛岡駅西口開発地区」の延長上に都市再生機構などによって都心を補完する「盛岡南新都市(ゆいとぴあ盛南)」整備が進められ、雫石川以南に急速な開発が進行中である。平成18年の「杜の大橋」「杜の道」開通に伴い、「岩手県立美術館」「盛岡市先人記念館」「盛岡市子ども科学館」「盛岡市アイスアリーナ」「盛岡市総合プール」などが集積する本宮地区へのアクセスが向上した。

平安時代に坂上田村麻呂によって「志波城」「大宮神社」などが開かれ、中央政権によって早くから開拓が進められた痕跡の見られる地域で、台太郎遺跡に代表される竪穴式住居などの埋蔵文化財が多く、「盛岡市遺跡の学び館」が置かれている。江戸時代には「鹿妻穴堰」開削事業により水利に恵まれ、長らく優良な穀倉地帯であった。 昭和後期になって「盛岡流通センター」「貨物ターミナル」が置かれた。

  • 玉山区

姫神山岩洞湖を中心とした地区。石川啄木の生地「旧・渋民村」を含む。2006年(平成18)1月10日に、同市北部に隣接した岩手郡玉山村と合併し、旧玉山村地域は地域自治区、盛岡市玉山区となった。近年人口が減少傾向にあるが、同市と合併した事で、開発が期待されている。 昭和47年には、岩洞湖畔が「北上京遷都」(早稲田大学21世紀の日本研究会)の候補地となり注目を集めた。

ギャラリー

歴史

冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は現代より温暖で、専ら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、国内最大級の縄文式土器が発掘されている一方、弥生式土器の発掘例は殆どない。

「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に12000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。 岩手県指定遺跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴式住居跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における「爪形文土器」他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「ヒスイ」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。

南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。このことは、耐寒性品種の開発をみる近代まで、結果として当地に経済的立ち遅れを招く要因ともなった。

「高櫓A遺跡」から「土製紡錘車」が発見されるなど、当時の人々の暮らしを物語る奈良時代の遺構も発掘されているが、未だ解明されていないところが多い。

平安時代の盛岡には、当時の律令支配から独立した土豪勢力が割拠しており、蝦夷と呼ばれ、ヤマト政権から異民族視されていた。「上田蝦夷森古墳群」「太田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」、「蕨手刀」からは、古くからここに高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測される。

延暦22年(803年)、桓武天皇の東北進攻政策にあたり、征夷大将軍で「造志波城使」の坂上田村麻呂によって陸奥国最北、八丁四方の城柵志波城」(現在の志波城古代公園、盛岡市中太田方八丁附近)が造営され、一帯が律令体制下に置かれた。 その規模は外郭で鎮守府胆沢城岩手県奥州市)」、政庁規模で陸奥国府「多賀城宮城県多賀城市)」をも超えるが、河川の氾濫により10年で徳丹城(現・徳田小学校)へ移転した。一帯では、朝廷による東北経営のための移住政策が進められており、上総千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。

朝廷の財政難による進攻政策の停止により、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)に構え、厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)などの拠点も造営した。これは支配地最北の砦であったと考えられる。

安倍頼時安倍貞任父子らは、北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る陸奥守源義家の謀略により、戦闘状態に陥る。(前九年の役)当初安倍氏が有利な戦闘状況であったが、義家の説得で出羽の俘囚長清原氏が義家に味方すると戦況は一転し、厨川次郎とも呼ばれた貞任と子の千代童子は、厨川(現在の盛岡市北西部)で戦死した。また、貞任の弟である安倍宗任は、伊予国、九州大宰府などに配流、後に松浦党を構成する一族の始祖となったと伝える。さらにこの時、安倍氏に加勢した在庁官人藤原経清も処刑され、その妻は経清との間に生まれた清衡を連れ清原武貞に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則とその子武貞の支配下に置かれた。「陸奥話記」は、この頃不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主になったと伝える。

清原武貞の死後、清原氏の跡目相続の内紛に陸奥守として赴任して来た源義家が介入し、後三年の役が起きる。義家は合戦に勝利したものの、私戦と認定され、何も得ずに陸奥を去る。これによりこの地は、清原氏を名乗るも藤原氏の血統にあり、さらに平家出身の母を持ち安倍貞任の甥にあたる清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなった。清衡は実父の姓藤原に復す。これが平泉奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。

奥州藤原氏は産金と北方貿易による巨万の富を背景に、人口規模で国内第二の都市平泉を中心とした独自の政権を打ち立て、浄土思想を基調とする仏教文化が花開いた。平氏政権を倒し、独自の武家政権を創立しようとする源頼朝を頭領とする鎌倉幕府は、源義経を庇護したことを口実に藤原泰衡を追捕の対象とした。源頼朝は全国の武士を動員し、阿津賀志山の戦いで藤原氏を破り陣ヶ岡に到る。この時、頼朝は「高水寺」に詣で伊豆国走湯権現を勧請したと吾妻鏡は伝える。 頼朝は前九年の役における父祖(源義家)の故事にならい、藤原泰衡の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。これを「奥州合戦」と呼ぶ。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った御家人で伊豆国(神奈川県)地頭「工藤氏」が岩手郡を与えられ統治を始めた。工藤小次郎行光は嫗戸柵跡に「厨川(栗谷川)城」を定め、厨川柵跡には安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現:曹洞宗巌鷲山天昌寺)を創建、聖俗ともに岩手郡を統治する立場として巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。 奥州藤原氏初代清衡の4男清綱に始まる樋爪氏は、斯波郡(現・紫波郡紫波町日詰)にあって馬と産金をもって平泉を支えたが、その子樋爪俊衡は厨川に逃避するも最後には投降、他の一族は全て配流されたが頼朝に領地を安堵され、真言宗南池山大荘厳寺で入道した。 この頃の「台太郎遺跡」から大陸産の北宋銭や青磁器常滑焼が出土していることから、現在の盛岡南新都市にあたる地域周辺に、奥州藤原氏の流れを汲む有力な支配者層が居館を構えていたことが推測される。

後の盛岡藩主となる南部氏も、合戦の功によって頼朝から奥州糠部郷を拝領していたと伝えられる。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たして以後、一度の領地替えもなく、約800年間に亘って奥州北部の掌握を遂げたと考えられる。(当初は代官が支配に当たり、実際に南部氏が直接奥州に移住するのは南北朝期であったと見られる。)

工藤氏はのちに「厨川(栗谷川)氏」を名乗り、南部氏と対立しながらも、福士氏をはじめ周囲の有力武門である斯波氏葛西氏と縁戚関係を組みながら南部家臣下に組み込まれていった。またその末裔「栗谷川仁右衛門」は江戸末期に山林奉行となり、「諸木植立秘伝抄(山林雑記)」を著して食糧自給や林政の重要性を説いた。弘化3年(1846年)以後、藩命を受け製紙・養蚕など殖産政策にも貢献した。幕末期、戊辰戦争の責を負い切腹した家老「楢山佐渡」は、母方が栗谷川氏の出である。

南北朝動乱期、現在の盛岡周辺でも有力氏族が割拠し、北朝の斯波氏・稗貫氏一族に対し南朝の北畠氏・南部氏・葛西氏一族の対立が続いた。この斯波氏とは、足利家氏が斯波郡(紫波郡)に下向したことに発する一族で、当地で前九年の役を戦った源義家の末裔に当たる。室町幕府が開かれると、有力守護家として将軍を補佐する三管領に着任、その地位は事実上筆頭であり、貞治元年(1362年)に初代管領・斯波義将が任命された。また傍流は大崎氏として奥州管領(後に奥州探題)、最上氏として羽州探題となっている。

建武2年(1335年)、足利尊氏陸奥国府と南部氏を制するため、独自に奥州総大将として斯波家長を下向させたことに発するのが、「奥州斯波氏」であり、奥州では「奥州惣奉行」葛西氏に比肩する唯一の名族であった。 さらに斯波家長の直系子孫とされる高水寺斯波氏は、高水寺城(現在の城山公園)を拠点に中央からは「奥の斯波殿」、奥州でも「斯波御所」の尊称で呼ばれ、奥州では最上級の家格として扱われた。また、その分家も「雫石御所」、「猪去御所」など「御所」の尊称で呼ばれた。これが盛岡市の「御所湖」の名の由来である。

南部氏は南北朝時代から戦国時代に急速に勢力を伸ばし、「福士氏」を目代とし不来方(現在の盛岡)を支配する。福士氏は「甲州衆」と呼ばれる、南部家初代に従い甲斐国からやってきた家系である。福士伊勢入道慶善淡路と糠部彦次郎は不来方城(慶善館・淡路館)を築き、これは後の盛岡城の土台となった。大石寺文書には、建武元年(1334年)、日道上人の弟・新田孫五郎道章が陸奥国府より国宣を受け、仁王郷の三分の二を後藤氏へ授ける旨示しているが、南條氏がそれを認めず、という記述が残っている。これは波木井南部氏が甲斐国地頭時代から日蓮宗と深い関わりがあった影響とも見られる。南條氏は福士氏の祖との説もある。

天正16年(1588年)、南部氏は斯波氏を滅ぼし、岩手郡と斯波郡を完全に支配下に置く。しかし、南部氏が相続問題で混乱している最中に家臣大浦為信津軽氏の祖)が謀反し、羽柴秀吉に謁見し津軽3郡3万石の安堵状を得ると、南部氏は元来の領地である津軽地方(青森県西部)を失う。これ以後、南部藩と津軽藩の精神的対立は領民の間ですら深刻なものとなり、現代に到るまで重大な禍根を残すこととなる。

南部氏三戸南部氏)は、はじめ三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として在郷勢力九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城岩手県二戸市) と改名する。 さらに加賀藩主前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡和賀郡稗貫郡の支配も認められると、本拠地三戸が領地の北側に大きく偏ることとなった。 その後浅野長政蒲生氏郷の推挙により、領地のほぼ中央部に位置する岩手郡仁王郷不来方を新たな本拠に決定。天正18年(1588年)に日詰高水寺城を「郡山城」に改め居を構えながら、信直、利直、重直の三代にわたり「不来方城」の旧地に「盛岡城」を築く。これが「都市としての盛岡」の発祥である。以後、三戸南部氏は盛岡南部氏と呼ばれ、後世には八戸の「根城南部氏」(元の「波木井南部氏」)を配下に収めて遠野へ移封(後の「遠野南部氏」)、中世的同族連合であった南部氏を脱却し、南部家一党の宗家として近世大名となった。

この頃既に南部領には、佐比内金山など領内の豊富な砂金を目当てに現在の滋賀県高島市をはじめとする地域から近江商人が進出し、北上川の河港・日詰郡山駅を拠点として城下町盛岡進出への足がかりとしていた。

南部家中興の祖とも呼ばれる第26代信直(初代南部藩主)は、安倍氏の末裔とされる「一方井氏」を母に持ち、盛岡への城下町建設を始めた人物である。信直は、まず甲州衆をはじめとして多くの家臣団の盛岡移住を進めた。また旧城下「三戸」から町人移転を進め「三戸町」(現在の中央通三丁目)と命名。定期市を立てて賑わいの核とし、寛永10年(1633年)、盛岡が正式な南部藩の城下町となった。

城から仰ぐ岩手・早池峰・姫神の「南部三山」に大権現を勧請。元和3年(1617年)には鬼門の方角に「宝珠盛岡山永福寺(真言宗)」を、また別に城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗)」を建立した。この二ヶ寺に加え、京都にならい北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、東禅寺(臨済宗)、教浄寺(時宗)、鳩峰山報恩寺(臨済宗)を特に「盛岡五山(北山五山)」と定め、東には八幡宮、天満宮、住吉神社などの神社を配した。 元禄16年には、金剛院の僧「空念」の指摘に拠り、南に「南部の繁昌」を願い毒ケ森を「南昌山」と改名したと伝えられる。「五の字割」と呼ばれる複雑に入り組んだ町割りで外敵を防ぎ、武家屋敷を「小路」、町人街を「町」と表記した盛岡は、総じて軍事よりも宗教的安定を求めた設計であった。

物流は北上川舟運による輸送が主流であり、石巻を経由して江戸・上方と結ばれていたが、西には秋田街道流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。

慶長4年(1599年)、南部藩の命により、鉱山師「鎌津田甚六」が鹿妻に堰の掘削を行い大規模水路が完成。藩御用の用水として新田開発を進められる。この結果、盛岡南部・紫波郡での良質な米穀生産が可能となり、生産された米は悉く御蔵米となった。盛岡の繁栄は、この城下近郊での安定生産と農業技術向上によるものが大きい。 この水路管理は明治に至り「鹿妻穴堰普通水利組合」(現在の「鹿妻穴堰土地改良区」)に受け継がれ、平成元年に国営盛岡南部水利事業の指定を受け、今日に至る。

南部藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。それは開府にあたり招聘した近江商人をはじめとする領外商人進出による影響も大きい。 うち有力な者は現在の滋賀県高島市大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の大阪府から「平野杜氏」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人の他、山城(京都府)・大坂(大阪府)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・常陸(茨城県)・富山など主に関西から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。殊に京都からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれ勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要商店街であった。 また上方関西地方)出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町(秋田県仙北市からの移住者が集住)、津軽町(青森県津軽地方からの移住者が集住、現在の津志田)の他、岩手町・久慈町(現在の材木町)など、城下近郊からの移住者による町も生まれた。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。

盛岡へは、寛永10年(1633年)に黒田騒動筑前国福岡藩福岡県福岡市)家老・栗山大膳が、寛永12年(1635年)に朝鮮通信使を巡る外交問題で対馬藩長崎県対馬市)から「方長老」(規伯玄方)が、遠く九州からお預けの身となったが、当時の藩主は茶の湯漢文を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸の文化を取り入れることに成功した。また、これが地場工芸南部鉄器や作庭、後世の菓子創作などに影響し、芸術文化の土壌を生み出したと考えられている。

万治2年(1659年)、茶道に造詣の深い南部家第28代当主(第2代南部藩主)重直は、甲州から鋳物師の「鈴木縫殿(ぬいと)家綱」を、京都より釜師「小泉仁左衛門五郎七」を召抱え、領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される南部鉄器の本格的な生産が開始される。

南部重信は「不来方」の名を忌み嫌い、「盛り上がり栄える岡」という願いを込めた「盛岡」へと改称した。これは、元禄4年(1691年)、重信公と、城下の鬼門に当たる真言密教の鎮護寺「宝珠盛岡山永福寺」の第四十二世・清珊頂相法印との連歌から生まれたものだと言われている。「国統大年譜」によると、南部が単に甲州の村落名であるという理由から、文化14年(1817年)に南部藩も改称し、盛岡は盛岡藩の城下町となった。

明和4年(1767年)に醸造業「近江屋(現・平金商店)」、文化13年(1816年)に荒物商「茣蓙九(現・ござ九森商店)」、安政4年(1857年)に薬種商「村源」、慶応2年(1866年)鉈屋町に興された木綿商が「川徳呉服店(現・川徳)」として発展するなど、形態を変えながらも、藩政時代創業の商家が現在にまで連なる例が多い。

盛岡城で南部家による統治が第17代を数えた時、明治維新を迎える。奥羽越列藩同盟として薩長(明治政府)に抗った盛岡藩は、薩摩藩長州藩に寝返った秋田藩津軽藩に対し、会津藩仙台藩とともに最後まで対戦したが抗しきれず、事実上「最後の幕府軍」となって朝敵の汚名を付される。主席家老楢山佐渡は戦の責を負って切腹、城郭はことごとく破却、民間に払い下げられた。現在、盛岡城が残されていないのはこのためである。

明治2年(1869年)、南部藩領宮古沖で宮古湾海戦が起きる中、戊辰戦争で旧幕府軍に謀反した「津軽藩(青森県)」・「秋田藩(秋田県)」が新政府から論功行賞を受ける。一方、それらに隣接する盛岡藩には厳罰処分が下され、明治3年(1870年)、他に先駆けた廃藩置県により盛岡県とされた。さらに藩制の弱体化を狙う明治政府は、他の旧藩領地を分割し、盛岡県に統合して岩手県とした。盛岡を「賊軍の名」と忌避されて選ばれた岩手の名は、盛岡が属していた岩手郡から取られたものである。 北は会津藩の転封先である斗南藩領から、南は仙台藩一関藩を含む)北部をも包含し、多様な歴史と文化を有する「岩手県」の県都となることは、以後の盛岡市の処遇に大きく影響した[1]。生活実態にそぐわない県域は、住民意志統一の低下を招くものであり、県域を跨る制度問題など、今日なお多くの社会問題を残している。青森県南部の三八上北地方秋田県鹿角市花輪地方などの旧盛岡藩領において、現在に到るまで住民意識が盛岡地域と深く結びついているのはこのためである。 こうした動乱の中、秩禄を失った武家の間では、新天地を求める必然から、北海道開拓へ旅立つものも少なくなかった。現在の札幌市北区をはじめとする地域の開拓に努めたのは、旧盛岡藩士であった。

南部家(幕末の表高20万石)は、政府が仙台藩から没収した白石城宮城県白石市)に13万石で転封されるなど、盛岡藩は徹底した制裁処分に苦しめられた。戊辰戦争で国替えを命じられたのは、会津藩と盛岡藩のみである。 その後、領民は藩主の盛岡復帰請願を行なったが、これに対してもさらに上納金を課せられるなど、薩長による締め付けは極限を極めた。以後、薩長に敵対する盛岡には文武で身を立てる風土が生まれ、明治以降に多くの軍人・政治家を輩出する契機となる。 明治4(1871)年、最後の盛岡藩主・南部利恭は東京・湯島に「共慣義塾」を開設し、外国人教師を招いて盛岡藩出身者の養成に努めた。この義塾には、盛岡出身の原敬、新渡戸稲造のみならず、犬養毅尾崎行雄も学んだ。

明治5年(1872年)、盛岡・東京・京都を拠点に全国規模の両替商として発展、為替方として新政府樹立に資金面で貢献した近江商人系の「小野組」は、政府方針により「三井組」(現在の三井グループ)と共同で「三井小野組合銀行」の設立を命じられる。同行は金融政策の煽りを受けた明治7年(1874年)の小野組の破産後、三井組が独立金融機関設立(旧三井銀行、現在の三井住友銀行)を画策するのに伴い、両者の手を離れて渋沢栄一主唱のもと第一国立銀行(後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)となった。

盛岡で藩為替方鴻池伊助店(後に三和銀行となった大阪鴻池の分店)を経て「小野組糸店」に奉公していた古河市兵衛は、明治4年(1871年)、東京に「築地製糸場(小野組製糸場)」を開設、開港で賑わう横浜で生糸貿易により莫大な利益を上げていた。この時古河と共にあったのが、元盛岡藩士で後の古河鉱業理事、岩手銀行頭取となる葛西重雄葛西萬司の義父)である。

小野組は、政府金融方針の急変に伴う破産後、足尾銅山などの鉱山経営に転じた。これが古河鉱山を礎とする古河財閥(古河グループ)の起源で、古河鉱業原敬が副社長の座にあった。この流れは、現在の古河電気工業富士電機富士通ニフティ等へ連なる。そのうちの古河銀行は後の昭和6年、小野組同様に当時の第一銀行、現在のみずほ銀行に引き継がれた。

明治8年(1875年)、盛岡では南部家による旧藩士授産のための開墾事業が開始され、当時有力産業であった生糸生産のための桑田経営がなされ、今日までその企業系譜が連なる。明治9年(1876年)、明治天皇行幸、「第一国立銀行(現みずほ銀行)」盛岡支店開業。「盛岡師範学校(現岩手大学教育学部)」開校、「盛岡正教会(現・盛岡ハリストス正教会)」が小人町に設立、「丸竹」が内丸に創業。 明治11年(1878年)には、旧盛岡藩士が士族の銀行として「第九十国立銀行(現・もりおか啄木・賢治青春館)」設立、明治後期には、旧呉服町を中心に金融街が誕生する。明治20年(1887年)には「盛岡医会」が開かれ、既に現在の岩手県医師会の礎が築かれていた。 明治21年(1888年)の時点で、盛岡は仙台に次いで東北地方で2番目の人口を有する都市であった(→東北地方#県別人口・主要都市人口市制#1889年の都市人口)。

明治22年(1889年)4月1日、南岩手郡から分立、市制施行により盛岡市が生まれ、以後、盛岡城内丸・御新丸・武家屋敷跡には県庁、市役所、裁判所、警察署、消防署、合同庁舎が集積、官庁街が形成された。

明治憲法発布から大正時代まで

明治憲法発布の明治23年(1890年)に日本鉄道の駅として東北本線盛岡駅が開通した。以後、盛岡は鉄道と深い関わりを持ち、維新後の荒廃から一転、勢い強い時代を迎える。

明治24年(1891年)の小岩井農場小岩井農牧)の設立がその一例で、創業者に日本鉄道会社の小野義真、鉄道庁長官の井上勝が名を連ねている。また三菱財閥創業家の岩崎弥之助が参画しており、農場名は彼らの頭文字を取って附された。 明治29年(1896年)には、「農商務省岩手種馬所」(現「岩手牧場」)が置かれたほか、現在も周辺には農林水産省所管の独立行政法人が集中する。

明治27(1894)年、小野組をルーツとし岩手県の為替方を担っていた「第一国立銀行盛岡支店」が閉鎖された。第九十国立銀行は経営不振に陥っており、洋物商「永卯」の佐々木卯太郎が頭取として再建に乗り出すも、渋沢栄一は、仙台の「第七十七国立銀行(現七十七銀行)」を斡旋して盛岡支店を開き、岩手県公金取扱業務を同行へ譲渡させた。 これに対抗して明治29年(1896年)には、村井家・佐藤家、さらに佐々木の協力により盛岡銀行(現・岩手銀行中ノ橋支店)が創業、明治32年(1899年)には県公金取扱業務を開始した。

明治30年(1897年)、三田家により「私立岩手病院(現・岩手医科大学附属病院)」が開院。明治33年(1900年)には、明治維新の盛岡城明け渡しで北山(旧桜山)移転を余儀なくされた桜山神社が再び盛岡城跡へ遷座。明治35年(1902年)、日本初の高等農林学校として、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)が開校。明治36年(1903年)には「盛岡信用金庫」が開かれた。 明治40年(1907年)には、小野組の系譜に連なる小野慶蔵が、第九十国立銀行取締役のまま「旧岩手銀行」を設立した。

明治39年(1906年)公布の鉄道国有法により日本国有鉄道が成立する経緯には、盛岡出身で当時鉄道を管掌する逓信大臣であった原敬の影響が大きい。後世、盛岡には国鉄盛岡工場・鉄道管理局が置かれ、鉄道を主軸とする地域経済の活発化に多大な影響を及ぼした。原敬は旧盛岡藩家老職の家に生まれた出自を背景に、明治維新で辛酸を嘗めた盛岡をはじめとする東北地方などの復権に貢献した。その例が、明治40年(1907年)、原敬の薦めにより古河鉱業が寄付金を献納し、東北帝国大学(現東北大学)と東北帝大農科大学(現北海道大学)、九州帝国大学(現九州大学)が開学したことである。明治9年(1876年)に札幌農学校に入学、北海道帝国大学初代総長となった佐藤昌介は、旧盛岡藩の人であった。 大正10年(1921年)、原敬は東京駅で銃弾に倒れた。東京駅を設計したのは、盛岡市出身の葛西萬司と、師の辰野金吾であった。

盛岡への鉄道敷設まで、主な物流は盛岡から石巻に到る定期船を「北上回漕会社」が担い、藩政以来の「舟運」を近江商人を中心とする財閥が継承していた。しかし、鉄道敷設による北上川舟運の衰退は、盛岡の経済界へ多大な影響を及ぼし、「鉄道・電気」といった新たな時代の要請に応えた「金田一家」の台頭を見た。この頃、江戸時代から紫根染を商ってきた豪商「糸屋(糸治)中村家」の中村治兵衛は、北上回漕会社・盛岡銀行・盛岡電気の役員を務め、のちに盛岡工業高校の設立に寄与した。

廃藩置県で付された逆賊の汚名を雪ぐため、盛岡への軍の誘致は地域の悲願であり、明治41年(1908年)「工兵第八大隊(現在の国立病院機構盛岡病院の地)」誘致が成功すると、一帯は「観武ヶ原(みたけがはら)」練兵場となり、歓迎ムードが広がる。この命名は、当時の特別演習に招かれた皇太子(後の大正天皇)によると伝えられる。この年に開校した桜城小学校の名は、校地が盛岡藩政時代の「桜の馬場」跡地にあって、馬事に関わる騎兵隊が盛岡へ移転することへの歓迎の意を込めていると言われている。この頃、東京府知事に盛岡出身の「阿部浩」が就任、安倍館に別邸「吾郷楳荘(現「一ノ倉庭園」)」を建設した。

明治42年(1909年)、「陸軍騎兵第三旅団23・24連隊」が置かれると秩父宮雍仁親王が入隊した他、特別大演習が行なわれた。これにより、盛岡は軍需が増し「軍都」としての性格を帯びることとなった。 明治44年(1911年)、内丸に日本赤十字社岩手県支部の洋館が建造(後に建物は上堂・蛇の島に移築)。

大正時代から第二次大戦まで

  • 大正元年(1912年)、盛岡高等農林学校本館が建造。
  • 大正2年(1913年)、東京駅を手がけた辰野・葛西建築事務所の設計により「盛岡劇場」が開館。「紺屋町番屋」建設。
  • 大正3年(1914年)、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。
  • 大正4年(1915年)、小野慶蔵、盛岡市に土地譲渡。(現在の「小鹿公園」)
  • 大正5年(1916年)、岩手県の提唱と中村治兵衛の協力により、盛岡藩特産の紫茜染技術を継承するため「南部紫根染研究所」設立。
  • 大正6年(1917年)、報恩寺にて原敬を祭主とし「戊辰戦争殉難者五十年祭」挙行。
  • 大正7年(1918年)、原敬が日本初の政党内閣を組閣し、内閣総理大臣に就任。
  • 大正9年(1920年)、新渡戸稲造が国連事務次長に就任。志家町に葛西重雄邸(現「IBC庭園」)建設。
  • 大正12年(1923年)、石割桜が国の特別天然記念物に指定。
  • 大正13年(1924年)、盛岡市でバス事業(現岩手県交通)開始。
  • 昭和2年(1927年)‐盛岡市中心部では、江戸時代から続く「木津屋」当主で旧岩手銀行取締役の池野藤兵衛と、旧盛岡藩士の流れを汲む実業家・三田義正がともに南部家所有の旧盛岡城御菜園跡に、新市街地「大通」を開発をはじめる。日比谷公会堂を手がけた佐藤功一設計により、昭和天皇の御成婚記念事業として「岩手県公会堂」竣工。
  • 昭和6年(1931年)‐金融恐慌により第九十国立銀行盛岡銀行・旧岩手銀行が破綻。鉄道敷設により財を成した盛岡銀行頭取の金田一勝定は、盛岡電気・花巻温泉・花巻電鉄を抱える財閥を形成していたが、豪奢な邸宅(現・南昌荘)を手放すこととなった。
  • 昭和7年(1932年)‐岩手県の主導で「岩手殖産銀行(後に現岩手銀行)」が設立。旧三行の流れを継承しながら、岩手県の公金取扱いを行なう。
  • 昭和10年(1935年)‐盛岡の陸軍騎兵第三旅団は満州へ移転。
  • 昭和13年(1938年)‐「NHK盛岡放送局」開局。
  • 昭和14年(1939年)‐第二次世界大戦開戦の「陸軍予備士官学校(現在の森永乳業盛岡工場の地)」が開かれ、通信教育隊などが置かれた。
  • 昭和15年(1940年)‐米内光政が内閣総理大臣に就任。
  • 昭和16年(1943年)‐「葛西重雄邸」を松尾鉱山が買収し「葛西荘」とする。
  • 昭和17年(1942年)‐「岩手県興産無尽(現北日本銀行)」創業。
  • 昭和20年(1945年)‐「盛岡駅前空襲」

第二次大戦後

  • 昭和24年(1949年)‐「岩手大学」開学。
  • 昭和25年(1950年)‐「日本国有鉄道盛岡鉄道管理局」発足。「東北銀行」創業。「農林水産省東北農業試験場(現東北農業研究センター)」が設置され農業研究の拠点地域となる。
  • 昭和28年(1953年)‐「ラジオ岩手(現IBC岩手放送)」が岩手県初の民間放送局として盛岡市内丸に設立。
  • 昭和29年(1954年)‐「食道園」が開店、「盛岡冷麺」の祖となる。
  • 昭和32年(1957年)‐岩手県初の公設体育館「盛岡体育館」開館。
  • 昭和33年(1958年)‐「盛岡バスセンター」開設。
  • 昭和34年(1959年)‐原敬別邸(古川端邸)「介寿荘(現・七十七日生盛岡ビル)」より、茶室を「白芳庵」として愛宕町へ移設。
  • 昭和42年(1967年)‐「岩手県営体育館」、岩手国体の開催を視野に盛岡市青山に開館。蛇の島サニーランドが開園。
  • 昭和44年(1969年)‐「テレビ岩手」が茶畑に開局。「盛岡タイムス」が創刊。
  • 昭和45年(1970年)‐「岩手国体」開催に伴う「岩手県営総合運動公園」整備によって、「観武ヶ原」を開拓したみたけ地区は碁盤目状に整備されて「岩手県営スケート場」「岩手県営武道館」など県立スポーツ施設が集中的に整備される契機となり、飛躍的な宅地化を遂げた。(戦後、観武ヶ原一帯は開拓され食糧自給を目的とした農地へ、兵廠跡は学校・病院・工場・倉庫へ転用された。)岩手国体の開催は、各種道路や岩手県民会館など社会資本の整備を進め、盛岡市の振興にも多大なる影響を及ぼした。大会成功のために進められた「花いっぱい運動」「きれいなまち推進隊」をはじめとする市民運動の高まりは「あすを築く盛岡市民運動」に継承されて今日に到る。

現在まで

花と緑のまちづくり事業により、市長の提案による「ハンギングバスケット運動」の推進、「盛岡ブランド」創出に向けた取り組みや、城下町に由来する旧町名の復活・活用に向けて市民レベルでの動きがある。2008年4月までに中核市への移行を目指し、保健所の行政事務移譲に向けて、平成18年に岩手県競馬組合より競馬会館を取得。 また、岩手県が提唱する合併モデルに基づき、矢巾町雫石町紫波町滝沢村との広域合併を視野に調整が進められている。

経済

概況

県庁所在地として行政機関が集まることから、公共事業関連業種が集まっている。政策的に第二次産業の発達が重点化されなかったため、労働力や人口の吸引は、専ら第三次産業が担っており、典型的な商業都市となっている。

業務機能

1982年東北新幹線開業(大宮駅盛岡駅間。1985年上野駅、1991年東京駅延伸)や、1987年の東北自動車道全通(川口JCT青森IC間)、1989年の八戸自動車道との接続(安代JCT)など、80年代を通じて東京との間のみならず、東北地方内の南北方向の速達性が大きく向上した。仙台との交通利便性向上により、企業側では、既存の宮城県を管轄する仙台支社を格上げして東北全体を管轄する東北支社にし、岩手県を管轄する盛岡所在の支社をその下部組織とする流れ(ストロー現象)が発生した。他方、東京との交通利便性向上は、新規市場開拓のために新たに盛岡に出先機関が置かれる流れを生んだ。同時発生したこれらの現象は、日本の内需拡大を背景に後者の方が上回り、盛岡都市圏の業務機能増大が見られた。

バブル崩壊後の経済低迷の中、1997年に秋田新幹線開通、2002年には東北新幹線八戸駅延伸があり、既に開通していた高速道路網による流通網も含めて、盛岡は北東北3県における交通の要衝となった(秋田新幹線による県間移動(2000年)…秋田県⇔宮城県:58.6万人/年、秋田県⇔岩手県:16.9万人/年)。これにより、特に秋田市所在の支店に対するストロー現象が発生して、業務機能が仙台または盛岡に移転される傾向が見られる。盛岡へは食料品メーカーやスーパーマーケットなどの最寄品関連業種での統合例が多く見られる。 岩手・青森・秋田を統括する「北東北支店(営業所)」を盛岡市に置く企業として、味の素カルピスカゴメキッコーマンメルシャンキリンビールアサヒ飲料日本ミルクコミュニティ雪印乳業日清医療食品ニチレイフーズなどがある。また、2005年には盛岡市に本社を置くイオングループの「イオンスーパーセンター株式会社」が設立された。

なお、盛岡市に本社を置く代表的な企業としては、東日本ハウスワイズマン光商事川徳盛岡ターミナルビルIGRいわて銀河鉄道岩手県北自動車ジャスターがある。

出先を盛岡市に置き北東北を統括する企業

アサツーディ・ケイソフトバンクテレコムソフトバンクモバイル電通東日本、大日本住友製薬ショーボンド建設積水化学工業ケイエスオリンパス三菱電機三菱電機ビルテクノサービスNECインフロンティアニッセイ同和損害保険サンウェーブ三和シャッターマニュライフ生命三菱電機住環境システムズ住商オートリース住信・松下フィナンシャルサービス国際航業日立建機東芝テック学習研究社日本住宅保証検査機構文化シャッター日本音楽著作権協会

物販・サービス

岩手県南部が仙台経済圏の影響を受けるため、盛岡市の商圏は専ら岩手県北部・中部の旧盛岡藩地域を主とする。近年の盛岡都市圏では、中心商業地の吸引力が減退している。他方、最寄品のみならず買回り品専門品をも取り揃えた郊外型大規模店が出店して吸引力が増大し、同市の都市圏地域からの更なる流入のみならず秋田県の盛岡寄りにある仙北市鹿角市方面からの流入も見られる。郊外店では、岩手県外資本の「イオン盛岡ショッピングセンター」「イオン盛岡南ショッピングセンター」が中心をなしており、また、その周辺の地元資本によるロードサイド店舗集積がこれを追う。 商業地区としては、北部の「青山、みたけ、上堂地区」、西部の「前潟地区」、南部の「仙北・本宮・津志田地区」の集客力が目覚しく、県外資本は事実上盛岡への吸引力となっている[2]

他方、物販の郊外化および流通の寡占化によって商品の多様性は以前と比べて低下したため、ファッション関連品目などの高級品を中心に多様性の維持・拡充が続く仙台東京への流出傾向も見られる。

消費支出
  • 一人当たりの年間書籍購入額  県庁所在都市中 東北一位
  • 一世帯あたりの年間豆腐消費量         全国一位 (総務庁家計費調査)


中心市街地

中心市街地においては物販機能の郊外移転傾向が見られる[3]繁華街である大通・菜園地区では、バブル景気頃は物販業の比率が飲食業を遥かに上回っていたが、バブル崩壊後、バブル期の10分の1以下となった地価を反映して飲食店や娯楽店舗などの進出が相次ぎ、現在は物販と飲食の店舗割合は半々程度となって、歓楽街への機能転換が見られる。

また、東北新幹線開通前後に県外資本のディベロッパーが進出して、中心市街地辺縁に低中層マンションが建設され始めたが、近年は地価下落で中心市街地に高層マンションが建ち始め、都心回帰現象が見られる。しかし、継続的に利潤を生むオフィスや商業ビルなどがあるべき中心業務地区・商業地に、土地利用の転換が難しく、一時的な利潤しか生まない分譲マンションが並ぶことは、地価の低値安定を助長し、中心部の富の縮小を促進するのではないかとの指摘がある。ただし、中心部居住者の増加で、最寄品を中心とした都心部の商業復興に寄与するとの見方もある。

金融機関

盛岡市に本店を置く金融機関

岩手銀行東北銀行北日本銀行盛岡信用金庫岩手県信用農業協同組合連合会

盛岡市に支店・営業所を置く金融機関

日本銀行みずほ銀行国民生活金融公庫中小企業金融公庫商工組合中央金庫農林中央金庫農林漁業金融公庫東北労働金庫青森銀行みちのく銀行秋田銀行北都銀行七十七銀行杜陵信用組合岩手県医師信用組合あすか信用組合

日本銀行は、仙台支店の下部組織の盛岡事務所。都市銀行は、支店格ではみずほ銀行盛岡支店の1店。その他、三井住友銀行が「法人営業部」を、三菱東京UFJ銀行は「ローン推進室」と「法人営業部」とを別個に置いている。また、東京スター銀行ATMを設置している。

マスメディア

新聞社
テレビ局、および AM局
FM局
コミュニティFM
情報誌
フリーペーパー

伝統工芸品

経済産業大臣指定
その他

行政

行政機構

  • 市長:谷藤裕明(たにふじ ひろあき・2003年9月2日就任)

行政区域の変遷(市町村制施行以後)

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制が施行される。
    • 仁王村、志家村、東中野村の一部、新庄村の一部、加賀野村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部、上田村の一部、仙北町村の一部が合併して市制施行し、盛岡市となる。
    • 上米内村、下米内村、上田村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部が合併し、南岩手郡米内村が成立。
    • 下厨川村、上厨川村、土淵村、平賀新田が合併し、南岩手郡厨川村が成立。
    • 旧・浅岸村、加賀野村の一部、新庄村の一部が合併し、南岩手郡浅岸村が成立。
    • 門村、東安庭村、東中野村の一部が合併し、南岩手郡中野村が成立。
    • 旧・本宮村、向中野村、下鹿妻村、仙北町村の一部が合併し、南岩手郡本宮村が成立。
    • 旧・梁川村、川目村、砂子沢村、根田茂村が合併し、南岩手郡梁川村が成立。
    • 上太田村、中太田村、下太田村、上鹿妻村、猪去村が合併し、南岩手郡太田村が成立。
    • 上飯岡村、下飯岡村、飯岡新田、永井村、湯沢村、羽場村が合併し、紫波郡飯岡村が成立。
    • 東見前村、西見前村、三本柳村、津志田村が合併し、紫波郡見前村が成立。
    • 旧・乙部村、黒川村、手代森村、大ヶ生村が合併し、紫波郡乙部村が成立。
  • 1896年(明治29年)3月29日 - 南岩手郡と北岩手郡が合併し、岩手郡となる。
  • 1913年(大正2年)6月10日 - 厨川村の一部を編入する。
  • 1928年(昭和3年)4月1日 - 米内村を編入する。
  • 1940年(昭和15年)1月1日 - 厨川村を編入する。
  • 1941年(昭和16年)4月10日 - 浅岸村、中野村、本宮村を編入する。
  • 1955年(昭和30年)
    • 2月1日 - 梁川村を編入する。岩手郡玉山村の一部、同郡滝沢村の一部を編入する。
    • 4月1日 - 太田村を編入する。
      • 同日 - 飯岡村、見前村、乙部村が合併し、紫波郡都南村となる。
    • 10月1日 - 岩手郡雫石町の一部(現在の盛岡市繋地区)を編入する。
  • 1961年(昭和36年)2月1日 - 盛岡市の一部が玉山村へ編入される。
  • 1992年(平成4年)4月1日 - 都南村を編入する。
  • 2006年(平成18年)1月10日 - 玉山村を編入する。
旧玉山村の沿革は「玉山区」の項を参照のこと。

立法

国会議員

衆議院選挙区は紫波町矢巾町とともに岩手1区となり、参議院選挙区は岩手県全体で1区を占める。

岩手県議会議員

岩手県議会では盛岡市の定数は10名となっている。2003年の選挙では覆面プロレスラーのザ・グレート・サスケが当選し、全国的に話題となった。

市議会

姉妹都市・友好都市

海外

観光

岩手県の名の由来とされる「鬼の手形」がある「三ツ石神社」をはじめ、城下町としての歴史を伝える盛岡城趾(岩手公園、国指定特別史跡)、藩政時代の雰囲気を伝える上ノ橋擬宝珠(国指定特別美術工芸品)、報恩寺五百羅漢、旧南部家別邸及び庭園(御薬園跡)などの名所旧跡がある。また、明治期の古い銀行建築が遺されており、「岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店)」「盛岡信用金庫本店」が知られる。市内には、「酒買地蔵尊」「豆腐買地蔵尊」「おもかげ地蔵尊」など、特徴的な由来を持つ地蔵尊がある。

宮沢賢治石川啄木などが青春時代を過ごした町であり、優れた人材を数多く輩出していることから、先人に関する石碑や施設も多い(「もりおか啄木賢治青春館」「盛岡市先人記念館」)。

春には、高松公園日本さくら名所100選)や盛岡裁判所前の石割桜(国指定特別天然記念物)が先駆け、続いて盛岡市米内浄水場の枝垂桜が見頃を迎える。秋には「一ノ倉庭園(旧阿部浩邸)」の紅葉が知られる。

市内中心部を流れる中津川北上川支流)は、内陸にありながら秋にはが遡上する川として知られる。

陸中海岸国立公園浄土ヶ浜宮古市)など岩手県東部、小岩井農場雫石町)など岩手県西部、また八幡平安比高原などへの観光拠点。 市内西部には、盛岡の奥座敷と呼ばれる繋(つなぎ)温泉があるほか、周辺地域に「網張温泉」、「国見温泉」、「鶯宿温泉」などがあり、泉質も多様。

毎年8月上旬には伝統ある「盛岡さんさ踊り」が開催され、毎年30万人を超える観光客や市民で、市内中心部が埋め尽くされる。

味覚

類が有名で、「麺都」と称されることがある。南部杜氏の本場であり、酒どころである。三陸海岸(陸中海岸)を後背地とするため、寿司の名店が多いことでも知られる。「べんじぇもの(弁財物)」と呼ばれるこの地域独特な餅菓子類が多く見られる。

以下、盛岡でよく食される特徴的な料理方法、食材、呼び方など。

郷土料理
  • ひっつみ:郷土料理としての「すいとん
  • わんこそば:椀を重ねて次々と盛る動作は、元来、客を満腹にしてもてなす意味合いがある。当地では、冠婚葬祭の膳で最後に蕎麦を供するのが慣わしである。
  • 盛岡じゃじゃ麺及び鶏蛋湯(チータンタン):肉味噌・キュウリを和えて食するうどん状の麺と、卵スープ。
  • 盛岡冷麺:盛岡冷麺は他地域の冷麺と異なり、麺に蕎麦粉を加えず、小麦粉のみで練り上げた半透明の弾力ある仕上げが特徴。
  • 芋の子汁:本来、盛岡の「津志田芋」を煮て作る。芋の子汁を味わう集いを「芋の子食い」と言う。
  • そばはっと(蕎麦法度)
菓子
  • 醤油だんご:全国的に珍しい砂糖を加えない醤油味の串団子が好まれる。みたらし団子とは異なる。
  • ゆべし:北陸・九州で知られる「柚子釜ゆべし」と異なる。
  • きりせんしょ:ゆべしと同一視されることがある。関東以南で知られる「きりせんしょ」同様、山椒を加えることが稀にある。
  • お茶餅:「うちわもち」とも。胡桃味噌を塗して焼いた餅。
  • 鎌焼:「鎌」の歯に見立てた呼び名。胡桃餡や味噌餡などを包む。「味噌っぱさみ」とも。生地が白の場合、シソの葉で巻くことがある。
  • 花饅頭うるち米餅米をまぜ、ふかして作った菓子。桃の節句に食する。
  • 黄精飴:江戸時代に方長老が漢方薬として伝えたという「黄精(アマドコロ)」を使った菓子。
  • 葡萄飴山葡萄の甘味を生かした餅菓子。
  • 豆銀糖:江戸時代の豆銀に見立てた青豆菓子。
  • からめ餅:盛岡藩の「金山からめ節」に因んだとも、携行食とも言われる。
  • 南部煎餅小麦をベースに胡麻胡桃落花生などをあしらった焼菓子。
  • ぶぢょほ団子:黒蜜を包んだ一口餅。
  • 豆しとぎ枝豆で製する蒸し菓子。
  • 雁月(がんづき):小麦粉と胡桃・胡麻を混ぜ蒸した菓子。まぶした胡桃が月を渡る雁に見えることから。
  • へっちょこ団子:一口大の白玉団子をへこませて茹で、汁粉に入れて食す。「へっちょこ」とは、臍のこと。
  • 小麦餅:小麦粉を練って焼いた自家製菓子。
  • 蕎麦餅:蕎麦粉を練って焼いた自家製菓子。
  • 干し餅:餅を薄く切って乾燥させたもの。揚げたり湯に浸し崩して食べる。
  • 薄焼き:主に祭礼の出店で売られる、小麦粉を伸ばして焼いたクレープ状の菓子。
  • 盛岡駄菓子:元来、保存食として生まれ、祭事に用いられ子どもの菓子として定着した。石衣(兎玉)、青柳、丹切、茶玉、肉桂玉、薄荷糖、生姜糖、焼酎糖、黄粉ねじり、ラッキョウ飴など。正月に限り、相撲力士を象った小麦菓子を売る習慣がある。
食材の呼び方・食習慣
清酒銘柄

盛岡市内

盛岡市近郊

地ビール

主要公共施設

スポーツ施設
  • 岩手県営総合運動公園
  • 岩手県営体育館
  • 岩手県営スケート場
  • 岩手県営武道館
  • 盛岡市立武道館
  • 盛岡市立弓道場
  • 盛岡市アイスアリーナ
  • 盛岡市総合プール
  • 盛岡体育館
  • 盛岡南公園球技場
ホール
  • 岩手県公会堂
  • 岩手県民会館
  • 岩手教育会館
  • いわて県民情報交流センター・アイーナホール
  • 盛岡市民文化ホール
  • 盛岡劇場
  • 盛岡観光文化交流センター(プラザおでって)・おでってホール
  • 盛岡市都南文化会館(キャラホール)
  • 盛岡市渋民文化会館(姫神ホール)
図書館
  • 岩手県立図書館
  • 盛岡市立図書館
公民館
  • 盛岡市中央公民館
  • 盛岡市上田公民館
  • 盛岡市河南公民館
  • 盛岡市都南公民館
  • 盛岡市西部公民館

教育

歴史

公教育史

  • 寛永13年(1636)、南部藩第3代藩主重直が盛岡城への「御新丸」建設に着手。
  • 寛永18年(1641)、盛岡城御新丸完成。
  • 寛文8年(1668)、南部藩第5代藩主行信が御新丸に「御稽古場」開設。武道の礎とする。
  • 明和8年(1771)、南部藩第9代藩主利雄、御稽古場を「武芸稽古場」として日影門外小路に移設。
  • 天保11(1840)、南部藩第13代藩主利済が武芸稽古場を基に藩校「明義堂」開校。儒学者・下田三蔵を招聘。
  • 安政元年(1854)、南部家御薬園(現・盛岡市中央公民館)を明義堂の医学・経学教場とする。
  • 慶応2(1866)、南部藩第15代藩主利剛が明義堂を「作人館」と改称。修文所、昭武場、医学所に再編。
  • 明治元(1868)、作人館が戊辰戦争により休校。
  • 明治3年(1870)、作人館に洋学所「日新堂」を加えて再開。「盛岡県学校」に再編。
  • 明治5年(1872)、学制発布により一時閉鎖を余儀なくされる。
  • 明治6年(1873)、修文所跡地に「第七大学区第十八番中学区第一番小学校」(現・仁王小学校)開校。同年、「盛岡小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
  • 明治7年(1874)、「鍛冶町小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
  • 明治8年(1875)、「仁王小学」、「公立仁王学校」と相次いで改称。
  • 明治9年(1876)、「盛岡師範学校」(現・岩手大学教育学部)設立。仁王学校にて「天覧授業」が行われ、明治天皇以下、岩倉具視・木戸孝允・大隅重信をはじめ文武百官が来盛。
  • 明治10年(1877)、「盛岡師範学校附属小学校」設立。
  • 明治12年(1879)、外山牧場獣医学舎(現・岩手県立盛岡農業高等学校)設立。
  • 明治13年(1880)、内丸に「公立岩手中学校」(現岩手県立盛岡第一高等学校)設立
  • 明治20年(1887)、「公立仁王学校」が「仁王尋常小学校」と改称。
  • 明治26年(1893)、「盛岡第二尋常小学校(旧盛岡小)」と「盛岡第三尋常小学校(旧鍛冶町小)」を統合して、「城南尋常小学校」が現在の「盛岡市立杜陵小学校」の地に開校。
  • 明治30年(1897)、内丸に「岩手県実業学校」(現・岩手県立盛岡工業高等学校)開校。「岩手県尋常中学校」が「岩手県立盛岡尋常中学校」へ改称。「旧鍛冶町小学校」校舎にて「私立盛岡商業学校」(現・岩手県立盛岡商業高等学校)開校。盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)内に「盛岡市立高等女学校」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)開校。
  • 明治32年(1899)、「岩手県立盛岡尋常中学校」が「岩手県盛岡中学校」へ改称。
  • 明治34年(1901)、「岩手県盛岡中学校」が「岩手県立盛岡中学校」と改称。「外山牧場獣医学舎」が「岩手県立農学校」へ改組。
  • 明治35年(1902)、「盛岡市立高等女学校」が「岩手県立高等女学校」へ再編。
  • 明治36年(1903)、上田三小路に「盛岡高等農林学校」(現・岩手大学農学部)開校。
  • 明治39年(1906)、仁王尋常小学校に高等科を併置し,仁王尋常高等小学校と改称。
  • 明治41年(1908)、工兵・騎兵旅団の盛岡移転、盛岡停車場設立による人口増に対応するため「桜城尋常小学校」設立。「仁王尋常小学校」他から分離。内丸に「武徳殿」建設。
  • 明治44年(1911)、「岩手県立高等女学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」と改称。
  • 大正2年(1913)、「仁王尋常小学校」跡地が「盛岡市立商業学校」校舎となる。
  • 大正9年(1920)、「盛岡実践女学校」(現・盛岡市立高等学校のルーツ)、盛岡尋常高等小学校分教場(現・杜陵小)にて開校。
  • 大正12年(1923)、「岩手県女子師範学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」に併設開校。
  • 大正13年(1924)、「私立盛岡夜間中学」(現・岩手県立杜陵高等学校)、岩手県立図書館で授業開始、同年設置認可。
  • 大正14年(1925)、「盛岡実践女学校」が「盛岡女子商業学校」と改称。
  • 大正15年(1926)、盛岡城御新丸跡に「岩手県女子師範学校附属小学校」(現岩手大学教育学部附属小学校)が開校。師範学校の上田移転により「仁王尋常高等小学校」が「盛岡師範学校附属小学校」の看板を併立する状態が昭和前期まで続く。
  • 昭和15年(1940)、「盛岡市立第一高等女学校」、「盛岡国民学校」内に創設。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業学校」と改称。
  • 昭和21年(1946)、「岩手県立盛岡高等女学校」」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)に「岩手県立女子専門学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)が併設開校。
  • 昭和22年(1947)、仁王小学校に「仁王中学校」併設。
  • 昭和23年(1948)、学制改革。「盛岡市立第一高等女学校」が「盛岡市立女子高等学校」と改称。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業高等学校」と改称。「岩手県立盛岡高等女学校」が「岩手県立盛岡第二高等学校」へ改称。「盛岡第一高等学校夜間定時制雫石分校」(現・岩手県立雫石高等学校)が開校。「岩手県立美術工芸学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)開校。
  • 昭和24年(1949)、「盛岡市立女子高等学校」と「盛岡市立女子商業高等学校」が統合し、「盛岡市立高等学校」が成立。「盛岡第一・盛岡第二・盛岡商業」の高等学校が統合し、「岩手県立盛岡高等学校」となる。新制大学制度により「岩手県女子師範附属小学校」が「岩手大学学芸学部附属小学校」として成立。
  • 昭和26年(1951)、「岩手県立盛岡高等学校」の再分離。「岩手県立女子専門学校」が「岩手県立盛岡短期大学」となる。
  • 昭和28年(1953)、御新丸跡の岩手県女子師範学校校舎に「岩手県消防学校」設立。(後の盛岡消防本部・岩手県警察本部)
  • 昭和29年(1954)、「盛岡市立河北小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和31年(1956)、「盛岡市立上田小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和33年(1958)、「盛岡市立山王小学校」設立に伴い城南小学校より分離。
  • 昭和37年(1962)、「岩手県立盛岡第三高等学校」、岩手大学学芸学部校舎にて開校。
  • 昭和39年(1964)、「岩手県立盛岡第四高等学校」、盛岡商業高等学校校舎にて開校。
  • 昭和41年(1966)、「岩手大学学芸学部附属小学校」が「岩手大学教育学部附属小学校」に改称。
  • 昭和44年(1969)、岩手県立盛岡短期大学に「附属こまくさ幼稚園」設置。
  • 昭和48年(1973)、仁王小学校に「盛岡市立中津川小学校」を統合。
  • 昭和49年(1974)、「岩手県立盛岡北高等学校」、杜陵高等学校校舎にて開校。
  • 昭和55年(1980)、「盛岡市立高松小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和56年(1981)、「盛岡市立武道館」建造。
  • 昭和57年(1982)、内丸の「武徳殿」解体。
  • 平成2年(1990)、「岩手県営武道館」創立。
  • 平成7年(1995)、「盛岡市弓道場」建造。
  • 平成9年(1997)、岩手県立大学設置に先立ち、盛岡短期大学の発展的解消に伴う募集停止。
  • 平成10年(1998)、「岩手県立大学」開学。岩手県立盛岡短期大学を「岩手県立大学盛岡短期大学部」とし、滝沢キャンパスへ移転。附属こまくさ幼稚園は、「岩手県立大学附属こまくさ幼稚園」となる。
  • 平成11年(1999)、「盛岡短期大学」跡地を仮庁舎として、盛岡東警察署が移転。「こまくさ幼稚園」が教育委員会へ移管され、「岩手県立こまくさ幼稚園」となる。

私学史

大学・短期大学等

なお、盛岡市と境界を接する滝沢村(盛岡都市圏内)に盛岡大学岩手県立大学(「盛岡短期大学部」を含む)がある。2000年度より、上記4大学と富士大学花巻市)とで「いわて5大学学長会議」が開催され、単位互換・図書館相互利用・共同研究等の事業を行っている。

この他近隣に岩手看護短期大学岩手県立産業技術短期大学校がある。

県立・市立高校

※盛岡市域外の「盛岡・雫石学区」「紫波学区」の高等学校は下記の通り。

私立高校

国立・私立中学校

公立中学校

  • 盛岡市立見前中学校
  • 盛岡市立見前南中学校
  • 盛岡市立土淵中学校
  • 盛岡市立繋中学校
  • 盛岡市立北陵中学校(滝沢村に所在)
  • 盛岡市立玉山中学校
  • 盛岡市立藪川中学校
  • 盛岡市立渋民中学校
  • 盛岡市立巻堀中学校
  • 盛岡市立米内中学校
  • 盛岡市立黒石野中学校
  • 盛岡市立飯岡中学校

国立・私立小学校

公立小学校

  • 盛岡市立繋小学校
  • 盛岡市立城北小学校
  • 盛岡市立大新小学校
  • 盛岡市立松園小学校
  • 盛岡市立高松小学校
  • 盛岡市立東松園中学校
  • 盛岡市立北松園小学校
  • 盛岡市立見前小学校
  • 盛岡市立飯岡小学校
  • 盛岡市立羽場小学校
  • 盛岡市立永井小学校
  • 盛岡市立手代森小学校
  • 盛岡市立津志田小学校
  • 盛岡市立見前南小学校
  • 盛岡市立都南東小学校
  • 盛岡市立月が丘小学校(滝沢村に所在)
  • 盛岡市立玉山小学校
  • 盛岡市立城内小学校
  • 盛岡市立外山小学校
  • 盛岡市立藪川小学校
  • 盛岡市立渋民小学校
  • 盛岡市立生出小学校
  • 盛岡市立巻堀小学校

交通

空港

市内に空港はない。最寄りの空港は、盛岡駅より(東北自動車道国道4号線経由共に)南方約35kmの花巻市にある花巻空港である。

鉄道

東日本旅客鉄道
IGRいわて銀河鉄道

高速バス・特急バス

盛岡市以北の都市との間の高速バスは、東北新幹線に接続する路線として発達した歴史を持つが、東北新幹線が八戸駅まで延伸(2002年12月1日)したことで利用客が減少し、普通の都市間高速バスとなりつつある。ただし、大館線はあまり影響を受けておらず、弘前線への影響も他の線ほどではない。仙台線も東北新幹線と競合するが、新幹線の半額に運賃が設定されているため利用客が多い。

※八戸延伸前に東北新幹線との接続路線だったものは太字
※2005年度の利用客数も付記[4]
昼行便
夜行便

道路

一般県道

盛岡を舞台とした作品

漫画
音楽
映画
文学
ドラマ

有名人

盛岡出身者

名誉市民

ゆかりの有名人

外部リンク


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