ベネディクト・アーノルド
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ベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold,1741年1月14日 - 1801年6月14日)は、アメリカ独立戦争での大陸軍将軍である。彼はニューヨークのウェストポイント砦でイギリス軍への降伏を画策したことで知られている。
アーノルドは、独立戦争の初期に革命の英雄として目覚ましい働きをしていた。たとえば、1775年タイコンデロガ砦の占領、カナダへの進軍中のモントリオール攻撃とケベック包囲、1776年チャンプレイン湖のバルカー島の戦い、1777年コネチカットのダンベリーとリッジフィールドの戦い(この後彼は少将に昇進)、そしてサラトガの戦いでの巧妙で勇敢な行動である。しかし彼は大陸会議がフランスと同盟を結ぶという決議を行ったことに強行に反対した。大陸会議への不満(彼の年功や功績にも拘わらず大陸会議は彼の昇進を見送った)、個人的負債の増加(彼はカナダ遠征の間の費用のほとんどすべてを個人で賄った)、さらにペンシルバニア政府による収賄容疑(ある男に唆されて彼はタイコンデロガの指揮官を解任した)といった逆境が重なった上に、彼の2番目の若妻ペギー・シッペン(彼女は王党派)との確執があった。
1780年9月、彼はイギリス軍にハドソン川の支配権を与え13植民地を分断してしまう計画を作った。この計画は挫折したが、ジョン・ボーンズの支援もあって、ニューヨークのイギリス軍の撤退を助け、彼はイギリス軍の准将の位と6,000ポンドの報酬を得た。
生い立ち
アーノルドは、1741年コネチカットのノーウィックで父親ベネディクト・アーノルド3世と母親ハンナ・ウォーターマン・キングの6人中6番目の子供として生まれた。彼の名前はロードアイランド植民地の知事を務めた曾祖父と、幼くして逝った兄の名前に因んでいる。彼と姉のハンナだけが成人し、他の兄弟は黄熱病で夭折した。母方の祖母は、少なくとも4人のアメリカ合衆国大統領(グラント、F.D.ルーズベルト、2人のブッシュ)の祖先ということになるジョン・ラスロップの子孫である。
アーノルド家は裕福だったが、彼の父親が事業に失敗して負債を抱えてしまった。その頃から父親はアルコールに依存してしまった。彼は教育費を払うのにも困ってアーノルドが14歳のときに学校を止めさせてしまった。 彼の父親が酒浸りとなり健康を害したために、息子を家業で鍛えることもできず、母親のコネで2人の彼女の従兄弟ダニエル・ラスロップとジョシュア・ラスロップの所に奉公に出された。2人はノーウィックで薬局などを営んでいた。
フレンチ・インディアン戦争
15歳の時、アーノルドはコネチカット民兵に志願し、フランスのカナダからの侵略に対し、アルバニーとジョージ湖に進軍、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いに参加した。
ここでイギリス軍は、ルイ・ジョセフ子爵指揮下のフランス軍に屈辱的な大敗を喫した。イギリス軍の降伏に続いて、フランスの同盟インディアンはイギリス軍と植民地軍が提示した降伏条件を知って激怒した。イギリス軍は頭皮、武器などの戦利品を約束したが、何も実行されなかった。イギリス軍は捕虜となって護送中に180人以上が虐殺された。フランス正規軍はそれを止めることができなかった。 このできごとは、若く多感であったアーノルドにフランスに対する変わらぬ憎しみを植え付け、彼の後の人生に影響することになる。
両親の死
ベネディクトが特に愛していた母が1759年、彼の18歳の時に亡くなった。まだ若い彼が飲み助の父と若い姉を扶養することになった。彼の父のアルコール中毒は母の死後さらに悪化した。彼の父は白昼酔っぱらって何度か拘束までされており、教会への出入りも止められた。彼の父は1761年に亡くなり、20歳のアーノルドは家名を昔のように上げる決心をした。
独立戦争前の行動
1762年、ラスロップの助けもあり、アーノルドはニューヘブンで薬剤師と本屋として実績を上げ始めた。 アーノルドには大望があり、積極的だったので、商売は急速に拡大した。1763年には、彼の父が負債の形に売り払っていた家産を取り戻した。さらに1年後、十分な利益を出してそれを売り払った。1764年、彼はニューヘブンの若い商人アダム・バブコックと共同経営者になった。彼の家産を売った時に得た利益を元手に彼らは3隻の商船を買い、有利な西インド諸島貿易に乗り出した。この間、姉のハンナをニューヘブンに連れてきて、彼が留守でも薬局をやっていけるようにした。彼は自分の船を指揮してニューイングランドからケベック、西インド諸島まで商用で旅した。
1765年の印紙法は植民地での商売をひどく制限した。アーノルドは当初特に大衆運動に加わらなかった。多くの商人と同じで、印紙法など存在していないかのように商売を続け、実のところ法律を無視して密貿易業者のようになっていた。 1767年1月31日の夜、アーノルドはイギリス議会の押しつける法律と植民地を抑圧する政策に抗議するデモに加わった。その地方に派遣されていたイギリスの事務官を象った人形が燃やされた。彼とその船の乗組員が密貿易を密告した疑いのある男にけがをさせた。アーノルドは平和を脅かした罪で逮捕され50シリングの科料を払わされた。 政府によって課された抑圧的な税金のために、多くのニューイングランド商人が廃業に追い込まれた。アーノルド自身も個人破産に近い状態になり、15,000ポンドの借金を抱えた。
アーノルドはホンジュラスで彼のことを「ばかなヤンキー、恥も外聞も知らぬ奴め」と罵ったイギリスの船長と決闘した。アーノルドは彼の不躾さと決闘を挑まれたことにショックを受けた。その船長が傷つき、彼に謝らせられた。 アーノルドは、1770年3月5日にボストン虐殺事件が起こったとき西インド諸島にいたが、後に「大変な衝撃だった」と書き、「神よ、大陸の人間はみんな眠らされて従順に自由を放棄したのか、あるいはあんな悪党達に仕返しもできない哲学者になってしまったのか」と嘆いた。
1767年2月22日、彼はサミュエル・マンスフィールドの娘マーガレットと結婚した。ベネディクト、リチャード、ヘンリーと3人の息子に恵まれたが、妻は1775年6月19日に亡くなった。
独立戦争初期の活躍
ウェストポイント
1780年7月、アーノルドは志願してウェストポイント砦の指揮官となった。彼は既にジョン・アンドレ少佐を通じてイギリス軍ニューヨーク駐屯軍の司令官ヘンリー・クリントン将軍と連絡を取り始めていた。また王党派軍の著名な指揮官であるビバリー・ロビンンソンとも親交を深めていた。アーノルドはイギリス軍に20,000ポンドとイギリス軍の部隊指揮を任されるという条件で、砦を明け渡すことを提案した。彼の計画は挫折した。アーノルドの署名のある通行証を持ったアンドレが補足され、しかも計画を明かす文書を持っており、それはアーノルドの罪を示すものだった。アンドレは兵士の死として銃殺を求めたが容れられず、スパイとして絞首刑に処せられた。
アーノルドはアンドレの逮捕を知ってイギリス軍に逃げた。イギリス軍は彼を准将に据えたが、計画が挫折したために報酬は6,000ポンドに減らされた。
イギリスへの奉仕
アーノルドはアメリカ大陸の戦場で活躍したが、イギリス軍は本当に信用はしていなかった。12月にクリントンの命令で、アーノルドは1,600名の部隊を率いてバージニアに遠征し、リッチモンドを占領、南部植民地への物資輸送経路を遮断した。アーノルドは捕虜を捕らえた士官に、大陸軍がアーノルドを捕らえたらどうするだろうと尋ねた。その士官は答えた、「あなたの右足を切り取って軍葬の礼で埋葬します、そして残りの体を絞首台に掛けます。」
南部戦線では、チャールズ・コーンウォリス将軍が1781年5月にヨークタウンに撤退した。一方、アーノルドはコネチカットのニューロンドン占領のために北に向かった。これがジョージ・ワシントンの目をコーンウォリスから離すことになるという作戦であった。アーノルドの部隊は9月8日にコネチカットのグリスウォード砦を占領した。12月、イギリス政府の政策転換により、アーノルドは他の士官達とともにイギリスに呼び戻された。
アーノルドの死とその後の評価
- ベネディクト・アーノルドは、1801年ロンドンで後悔の念を抱きながら亡くなったと言われる。
- 彼の後生の評価は、独立戦争の英雄として賞賛の声と、裏切り者として非難の声が、独立後300年以上経った今でも続いている。
- ニューヨーク州ビクトリーに立つ戦勝記念碑にはサラトガの戦いで活躍した4人の英雄を顕彰する台座があるが、その内の1つは空白のままである。ベネディクト・アーノルドの名前を入れるためだと言われる。