龍興山一人
龍興山 一人(りゅうこうざん かずと、1967年(昭和42年)6月23日 - 1990年(平成2年)2月2日)は大相撲の力士。最高位は西前頭10枚目(没後東前頭5枚目)。大阪府堺市に生まれる。本名宮田 一人。
来歴
中学時代に元出羽海部屋の幕下力士播州山の知り合いに勧誘されて相撲部に入り3年になると出羽海部屋への入門を決め周囲の反対を押し切って1983年(昭和58年)3月の卒業とともに初土俵を踏んだ。だが一進一退が続き12月に脱走、しかし癌の治療中だった父に励まされて1984年(昭和59年)8月に兄弟子に連絡して部屋に戻ることになった。しかし、本人は復帰がかなり不安だったようで高速道路でさえ逃げ出そうとした。ところが、いざ部屋に戻ると廃業届も出されておらず髷も残っていたのですんなり復帰できた。そして父の没後は強みを増した。
始めは遅い相撲だったが1989年(平成元年)7月場所に十両に昇進した頃には速くなり、腰の重さを生かしたがぶり寄りも覚えて大きな期待をかけられその取り口から「琴風二世」と評された。平成2年1月新入幕、9勝6敗と勝ち越した。しかし同年2月2日の稽古後に廊下で突然倒れ、病院に運ばれたが手当ての甲斐もなく、虚血性心不全のため急死。22歳というあまりの若さでの死であったため、非常に惜しまれ周囲に与えた衝撃も大きかった。
本来ならばこの時期に亡くなった力士は番付から消されるが、新入幕を果たした年であり1月は勝越していたことから「せめて番付だけでも故郷(3月場所は大阪で行われる)に錦を飾らせたい」との配慮で残されることになり、3月場所番付では東前頭5枚目にその名が記載された。
本人の死後、同部屋・同年齢で十両・幕内も同時昇進だった親友の小城ノ花はそのショックが引退まで響き、「三役間違いなし」と言われながら結局は幕内と十両を行き来するエレベーター力士として終わった。
龍興山の母は泉州山(高砂部屋所属)の実家の鮮魚店を手伝っていた。落胆した龍興山の母の姿を見て、泉州山は龍興山の無念を晴らそうと決意し角界入りしたといわれている。
なお、「龍興山」とは大阪府堺市にある寺院「南宗寺」の山号でもある。
改名歴
- 宮田 一人(みやた かずひこ)1983年3月場所-1989年5月場所
- 龍興山 一人(りゅうこうざん-)1989年7月場所-1990年3月場所(没後)