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ティワナク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ティワナク(Tiwanaku)とも呼ばれる。現在では、世界遺産登録の名称であるTiwanakuを使うことが多いが、現地では、Tiahuanaco,Tiahuanacu,Tihuanacuなどと表記されることもある。アイマラ語では母音が、本来はa,i,uの3音しかないので、本来の音はTiwanakuあるいはTiahunacuが近い。この名称の起源は、インカがこの地を訪れたときに、飛脚に対して、「ここへ座れ、グワナコよ」と言ったことが起源とする説があるが、確かではない。本来はこの地は、Taypi Kalaつまり、世界の中心(直訳すれば石の中心)などと呼ばれていた。

 この文化の起源は、紀元前後にまでさかのぼるとされるがまだはっきりとはわかっていない。確実にTiwanaku独自の文化が形成されてくるのは、紀元後400から500年ころからであり、その最盛期(おおよそ750あるいは800年ころから1000年前後ころ)には、北はペルー領のティティカカ湖北岸や現在のモケグワ県、南はチリのサン・ペドロ・デ・アタカマやアルゼンチン北部、東は現在のボリヴィア国コチャバンバ地方にまで影響が及んだとされている。これらの地方にはTiwanakuの飛び地があったとされており、特にモケグワにはTiwanauku様式の土器や建築が存在する。    どのような形で地方へ影響を及ぼしたのかについては、研究者の間でも意見が異なっているが、現在では、Tiwanakuからの移民による直接的な統治ではなく、むしろ地方の地元豪族がTiwanakuの物質文化などを利用して地元に権力を行使していたとされる説が強い。また、地域ごとにTiwanakuの影響は異なっており、モケグワにおいては、人骨の形態分析などからTiwanakuからの直接移民があったことが確認されている。

 Tiwanakuは「帝国」か?とされると、これはかなり難しい問題であり、研究者の間で意見が分かれている。最近では、Tiwanakuを官僚制を伴う高度な国家とみなすモデルが提案されているが、考古学的証拠のみから「官僚制」を推測するのは難しいため、反論も多い。反論としてあげられているモデルでは、「複雑な地縁・血縁組織(アイリュと呼ばれる)が高度に絡み合って発達した複合的な社会」とみなすものがある。

 いずれにせよ「帝国」「国家」などの概念が研究者の間で一致が見られていないため、Tiwanakuのモデルは混沌とした状態にあるといってもいいだろう。国家を示す考古学的な指標としてよくあげられる、物資を集めるための倉庫や、権威や情報を伝達するための「王道」、権力者の存在を示す王墓などの強い証拠が、Tiwanaku文化においてはほとんど明らかにされていないため、国家であることすら現段階で論じるのは難しいとおもわれる。

 遺跡中心部分は、カラササヤと呼ばれる長方形をした建築物と、アカパナと呼ばれるピラミッド、半地下式の方形の広場、プtゥニと呼ばれる住居址跡などからなり、少し離れたところにプマ・プンクと呼ばれる低い基壇状のピラミッド状建築物がある。    遺跡の石材は、近くのTiwanaku山脈から切り出された砂岩を多用しており、その他コパカバーナ方面からもたらされたとされる安山岩なども利用している。また、チャチャプーマなどの重要な石像には、オルーロ方面からもたらされた黒色玄武岩が利用されている。

 遺跡の破壊はすさまじく、ピラミッドにはもはや昔日の面影はない。一見するとただの丘になっており、一部石壁が露出したり復元されたりしている。ただし、ピラミッドには、内部に複雑な水路が走っていたことが近年の調査で明らかにされている。  また、かつてはピラミッドの裏側にあるカンタタリータと呼ばれる場所には石の門がたっており、見事なリンテル(まぐさ)があったが、現在では崩壊しており、地上に転がっている。  プマ・プンクには数トンもある一枚岩でできた建築の一部が今も残っており、見事なものであるが、破壊がすさまじいため当時の面影はほとんど残っていない。

 また、各所の建築石材には表面に一部加工が施され文様が入ったものがあるが、風化が激しいため見えづらい。遺跡の石材は豆腐状に方形に切り出されたものが多く、その面は見事に平らである。  いずれにせよ、今から千年以上前にこれほどの石材の切り出し加工技術が存在し、かつ「鉄を利用せず」に、ここまで見事に加工したのは、驚嘆に値する。    残念ながら新大陸への白人侵略後の遺跡の破壊がすさまじいため(これはTiwanakuに限ったことではないが)、当時遺跡がどのような状態にあったのか、どのように機能していたのかについては確実なことはわかっていない。

 遺跡からはがされた石は、村の教会建設に利用されており、また、村の一般の住居でも遺跡から持ち運ばれた石材が良く見られる。遠く、Lajaの町の教会にまで、遺跡からはがされた石材が利用されている。