右衛門佐局
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右衛門佐(えもんのすけ、うえもんのすけ、慶安3年(1650年) - 宝永3年2月11日(1706年3月25日)は、江戸時代前期の大奥女中。公家・水無瀬氏信の娘。
5代将軍徳川綱吉の時代、大奥では鶴姫、徳松の生母である於伝之方が「御袋様」と称され、綱吉の生母・桂昌院と共に絶大な権勢をふるっていた。綱吉御台所・鷹司信子(浄光院)はそれを快く思っておらず、学問好きな綱吉の心を於伝之方から引き離すため、霊元天皇中宮・新上西門院を通じて宮中から学問に秀でた女官を奥入りさせようと考えていた。 その頃、宮中随一の才媛との聞こえが高かったのが、典侍・常盤井の局(後の右衛門佐)であった。信子は学問指南の名目で常盤井を御台所付・上臈御年寄として奥入りさせる。その後、綱吉の寵愛を受けて大奥総取締に任命された。
- ※大奥総取締という呼称については、大奥を参照のこと。
その際に「右衛門佐」と改名したとされる。1000石を賜り、大奥で実権を握った。その後は大典侍、新典侍といった公家の姫を綱吉の側室として迎え入れた。また、正親町町子も右衛門佐の紹介で大奥に入り、鷹司信子の斡旋により柳沢吉保の側室となった。
1706年、57歳で死去。法名は心光院殿古鑑貞円大姉、心光院古媼貞円。墓所は東京都新宿区の月桂寺。