外山脩造
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外山脩造(とやま しゅうぞう、1842年11月10日~1916年1月13日)は、明治期の実業家、政治家。
新潟県出身。村役人外山伝の子として生まれた脩三は、17歳で江戸へ行き、清川八郎、塩谷宕陰のもとで学業を修め、昌平坂学問所に入った。維新の動乱期、河井継之助のもと、長岡で戦い、河井の遺訓により商人として生きることを決意する。明治2年、に慶応義塾、4年に開成学校に入った脩三は、5年に秋田県に出仕し、翌年、大蔵省銀行課に入り、国立銀行創設に力を出した。11年渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行総監役として、業務の内容に取り組み、15年から3年間、日本銀行大阪支店長に就任して大阪銀行界の指導者になった。20年から21年にかけて欧米の経済機関視察に加わった脩三は、信用調査機関の必要性を再認識し、24年、大阪に商業興信所を設立して自ら総長となった。またその前に大阪貯蓄銀行副頭取、25年に衆議院議員、31年、浪速銀行頭取、大阪舎密工業社長、32年に阪神電鉄社長に就任したのをはじめ数多くの関西の会社設立に尽力し、大阪銀行集会所委員長として関西財界の指導者として活躍した。