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明徳の和約

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明徳の和約(めいとくのわやく)とは、明徳3年/元中9年に南朝大覚寺統)と北朝持明院統)間で結ばれた和議と皇位継承について結ばれた協定の事。
この和約に従って同年閏10月5日ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来、南北朝に分裂していた日本天皇の地位及び朝廷の分裂状態が終了した。

50年以上わたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだ事(正平一統)もあったものの、次第に北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが固まりつつあった。殊に第3代将軍足利義満の時代になるとその勢力は絶対的なものとなり、1392年には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落した。南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれてゆく事になった。

1391年(明徳2年/元中8年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させ、武家勢力を統率した義満は、和泉紀伊守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で本格的交渉を開始した。南朝から北朝への神器の引渡し、国衙領を大覚寺統、長講堂領を持明院統の領地とする事、皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の子である小倉宮実仁親王の立太子)事など3か条を条件に和睦が成立し、1392年(明徳3年/元中9年)に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺にて後小松天皇と会見して神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に属していた公家は一部は北朝で任官したが、官職は既に北朝の公家で占められており、多くは公家社会への復帰が適わなかったと考えられている。

だが、1412年応永19年)には後小松皇子の称光天皇が即位して、両統迭立の条件は反故にされている。更に称光の死によって持明院統の嫡流は断絶したにも関わらず、傍流である伏見宮家から後花園天皇を迎えて再び約束を反故にした。これに反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。