コンテンツにスキップ

近藤悠三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Moraykaita (会話 | 投稿記録) による 2007年9月8日 (土) 16:14個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新規投稿)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

近藤悠三(こんどうゆうぞう 1902年2月8日-1985年2月25日)は日本の陶芸家。1977年に人間国宝に認定。本名は近藤雄三。

略歴

京都市清水寺下出身。父正平、母千鶴の三男として生まれる。祖父である正慎は清水寺の寺侍であった。

1914年、京都市立陶磁器試験場付属伝習所轆轤科に入所。1917年に卒業後、同試験場で助手として勤務する。当時、河井寛次郎濱田庄司が東京高等工業を卒業して技手として陶磁を研究しており、近藤は濱田から窯業科学などを学んだ。

1921年に陶磁器試験場を辞め、イギリスから帰国して大和に窯を構えた富本憲吉の助手として師事。 素地や釉薬などの技法だけでなく、制作に対する心構えについても指導を受けている。

1924年京都に戻った後、関西美術院洋画研究所でデッサンや洋画の研究をする傍ら、清水新道石段下に窯を構え制作を始める。この頃は染付の他に、釉裏紅や象嵌等の技法も用いた作品を発表していた。

1926年、24歳で中島光子と結婚。

1928年の第9回帝展で初入選を果たし、以後13回連続で入選する。他、文展などで多くの作品を発表。1950年には第6回日展で審査員を務めた。1955年に日本工芸会に帰属。1956年、「山水染付壺」で第3回日本伝統工芸展が日本伝統工芸会賞を受賞。

1956年には岐阜県多治見市にて志野焼の研究をしている。以降は染付の制作に専念した。つけたてとぼかしを基調とした筆遣いによって濃淡を表し、ザクロや梅などをモチーフとして絵画的な表現を為した。更に1960年以降、呉須染付に併用して赤絵や金彩の技法を用いる様になり、更に独特の作風を確立した。

日本工芸会常任理事、陶芸部会長を歴任。1953年京都市立美術大学陶磁器科助教授、1956年同大学教授、1965年10月には学長に就任した。

1970年に紫綬褒章、1973年には勲三等瑞宝章、京都市文化功労者章を受章。1977年4月25日、重要無形文化財(人間国宝)「染付」の保持者に認定された。1980年、紺綬褒章受章。

1985年逝去。