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パレスチナ

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パレスチナは、地中海東岸の歴史的シリア南部にあたる地域。西アジア中東に位置する。ヘブライ語表記はפלשתינה (Palestina)、アラビア語表記はفلسطين (Filastīn)。

近代的な意味でパレスチナと呼ばれる地域は、現在イスラエルが排他的に領有している地域に加え、パレスチナ暫定自治区とされているヨルダン川西岸地区ガザ地区を加えた地域に相当するが、現在の日本語の用例上では、パレスチナ自治政府が管理するパレスチナ自治区の地域を限定して指すこともある。中世以降の主要な住民はアラビア語を日常語とするムスリム(イスラム教徒)、キリスト教徒ユダヤ教徒ミズラヒム)で、前2者とごくわずかのミズラヒムが近代以降世界各地から入植してきたユダヤ人に対してアラブ人とされ、パレスチナ人と呼ばれる。(ただし本来はパレスチナ人という民族はいないので、パレスチナ難民と呼ぶのが正しい。)

歴史

古称は「フル」、「カナン」という。パレスチナの語源ペリシテ人の土地という意味で、紀元前13世紀頃にペリシテ人が住みついたことに由来する。紀元前10世紀イスラエル王国が建設され、地域の中心都市としてエルサレムが建設された。イスラエル王国の人々が育んだ民族宗教ユダヤ教の聖典旧約聖書ではパレスチナの地は神がイスラエルの民に与えた約束の地であると説かれ、このためヘブライ語では「イスラエルの地 (Eretz Israel)」とも呼ばれるようになる。

イスラエル王国崩壊後には周辺諸国の支配を受け、のちにユダヤ教の中からキリスト教が興ると、その聖地と定められた。さらに、ユダヤ教・キリスト教の影響を受けてアラビア半島に興ったイスラム教もエルサレムを聖地としたため、諸宗教の聖地としてエルサレムを擁するパレスチナは宗教的に特別な争奪の場となった。

7世紀にはイスラム帝国の支配下に入り、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の間で帰属がしばしば変わった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が到来し、エルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝サラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝の支配下に入った。16世紀になると、エジプトのマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの新しい支配者となる。

19世紀以降、ヨーロッパで次々に国民国家が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ヨーロッパにおいてマイノリティーとして排除されてきたユダヤ人が新天地を求めてオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。彼ら入植ユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を勝ち取るが、このために多くのパレスチナ人が難民化してパレスチナ問題が発生。中東の火薬庫となる。

イスラエル政府とパレスチナ勢力のパレスチナ解放機構は長い闘争の末、1993年になってオスロ合意を結び、1994年からパレスチナの一部でパレスチナ解放機構が主導する暫定自治が開始された。しかし、オスロ合意で定められたパレスチナ問題の包括的解決に向けた話し合いは頓挫し、さらにイスラエルとの和平に合意しない非パレスチナ解放機構系の組織によるテロや軍事行動が続いた。2000年以降、再びイスラエルとパレスチナの闘争が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にある。

パレスチナ自治区

ファイル:Palestine flag medium.png
パレスチナ暫定自治政府旗

パレスチナ自治区は、パレスチナ地域のうちヨルダンに接するヨルダン川西岸地区とエジプトに接するガザ地区からなるパレスチナ人の自治地区である。その行政は、パレスチナ解放機構が母体となって設立されたパレスチナ自治政府が行う。ただし、パレスチナの最終的な地位は将来イスラエルとパレスチナ解放機構との間で結ばれる包括的和平によって定められることになっており、目下の正式な地位は暫定自治区・暫定自治政府となっている。

パレスチナ自治区の人口は約330万人で、西岸地区が3分の2、ガザ地区が3分の1を占めるとされる。これは、900万人強いるとされるパレスチナ人の全人口の3分の1にあたる。

自治政府は1995年の暫定自治拡大合意に基づき、1996年に行われた立法評議会選挙によって正式に発足した。

設立の経緯

パレスチナ自治区は、イスラエル建国直前の1947年に行われた国連決議181号(パレスチナ分割決議)が定めた、パレスチナをユダヤ人アラブ人、国連統括地の3つに分割する決定を基礎としている。この決議は、これに反対する周辺のヨルダンとエジプトが第一次中東戦争でヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領したためにパレスチナのアラブ人には寸土の領域も残されず、ユダヤ人によるイスラエル国家しか建設されなかった。

その後、西岸地区とガザ地区はイスラエルによって占領されるが、1964年にエジプトのナーセル大統領の後押しによって西岸地区とガザ地区のアラブ系住民とパレスチナ難民の統合抵抗組織としてパレスチナ解放機構が設立され、事実上のパレスチナ亡命政府となった。

当初、パレスチナ解放機構はイスラエル国家を打倒し、全パレスチナにムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒の全てが共存する非宗派的な民主国家を樹立することを目標としていた。しかし、1980年代後半に繰り広げられたイスラエルに対する大規模な抵抗運動(インティファーダ)の中で現実主義路線に転じ、ヨルダンに西岸地区の放棄を宣言させて、西岸地区とガザ地区を中心にパレスチナ人の独立国家を樹立してイスラエルと平和共存する道を模索するようになった。

こうしてイスラエルと解放機構の直接交渉の末、1993年のオスロ合意、パレスチナ暫定自治協定に基づいてパレスチナ暫定自治区が設立された。

機構

暫定自治政府は、憲法にあたる基本法に基づいて運営される。最高議決機関は民選によって選出されたパレスチナ立法評議会(PLC)で、立法府に相当する。立法評議会の定数は88である。

行政事項を執行するのはパレスチナ行政機関で、自治政府の長である元首(ライース、大統領に相当)がその長を務める。また、行政機関の各庁の長官が閣僚となり、内閣を構成する。2003年からは内閣の長として首相が置かれるようになったが、元首であるヤーセル・アラファートPLO議長が安全保障関係の権限を内閣に委譲することを拒否し、翌年のアラファート死去まで元首のワンマン支配が続いた。

治安維持を担当するのはパレスチナ警察隊で、パレスチナ解放機構の正規軍にあたるパレスチナ解放軍を基礎として設立された。しかし、アラファート議長が独占する自治政府の治安維持部門が対イスラエルテロの抑制に十分働いていないことに対し、イスラエル政府やアメリカは不信の目を向けている。

人口

主な都市

関連項目

外部リンク