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尾崎雅彦

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獲得メダル
1980 ブザンソン プロ・スプリント

尾崎 雅彦(おざき まさひこ。1958年2月5日- )は日本競輪選手会東京支部に在籍していた元競輪選手日本競輪学校第39期生。師匠は父親である尾崎幸雄。松戸競輪場をホームバンクとしていた。

経歴

同期には、「ウルフ」と称された広島の木村一利がいた。デビュー戦は1977年5月5日京王閣競輪場。初勝利も同日。

尾崎の名で最初に思い出されるのは1979年日本選手権競輪決勝戦(立川競輪場)。断然人気の中野浩一を相手にマークの山口健治を連れて果敢に逃げ、中野を捲り不発に追い込み、山口に優勝をもたらした一戦だったが、当時中野を力でねじ伏せられる選手というのはまずいないのではないかという状況の中、5着に敗れたとはいえ、尾崎の走りは高く評価された。

1980年には世界自転車選手権のスプリント代表となり、決勝で中野にストレート負けを喫したとはいえ銀メダルを獲得。逃げよし、捲りよし、追い込みよし、という三拍子揃った脚質に加え、甘いマスクも手伝ってプリンスというニックネームもつけられた。

そして1981年1982年高松宮杯ではともに完全優勝に王手をかけた他、この頃からGI決勝戦の常連の顔となり、また競走得点等では常に上位トップ3に名を連ねるなど、尾崎は競輪界屈指の実力派選手として君臨するようになった。しかしなぜかここまで大きなタイトルには縁がなく、82年の宮杯決勝では優勝目前となりながらもゴール寸前、後方から猛然と追い込んできた伊藤豊明に交わされてしまった。

だが1983年の宮杯決勝では、完全優勝を狙う中野よりも一足早くバックから捲っていったことが功を奏して念願のGIタイトルを獲得。その後も記念では抜群の強さを誇り、真の意味で中野、井上茂徳の最大のライバルと目されたこともあった。ところが尾崎はフラワーラインという一大グループ内の絆を大事にしすぎるあまり、肝心なところで甘さを出すケースが少なくなかった。

1984年競輪祭決勝では人気の中心となりながらも清嶋彰一後位で何もできずに敗れたり、はたまた1985年KEIRINグランプリでも上位人気の一角に推されたが、ジャンで正攻法の位置にいた清嶋を中野が猛然と叩きに出たところ、その動きに尾崎が反応して一旦は中野を外に浮かせてしまうというプレーを見せたというのに、中野が最終バックで捲りを放った際には逆に何もできなかったといったこともあった。さらに1992年の宮杯決勝では、逃げる神山雄一郎の番手につけながらも、インで粘った滝澤正光に番手を奪われ、結果、滝澤に優勝をさらわれてしまったこともあった。結局尾崎が獲得したタイトルは上記の83年の宮杯だけ。総合力という点において中野と双璧と目されたことがあった尾崎にしては少々物足りないといえる。

もっとも、尾崎は40歳を過ぎてもS級で活躍し、引退年となった2005年12月26日時点においてもS級2班に在籍していた。次期(2006年1月~7月)もS2が確定していたが、夫人の実家が寺院であったことが縁となり、かねてからその職を受け継ぐ話が出ていたこともあったことから、現役を引退することになった。

関連項目


先代
伊藤豊明
高松宮記念杯競輪優勝者
1983年
次代
佐々木昭彦