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西川寧

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西川寧 (にしかわ やすし、1902年1月25日 - 1989年)は、日本の書家である。明治の大家西川春洞の三男として東京に生まれる。昭和の三筆の一人。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学を研究する博士として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。

子供時代

幕末から明治・大正にかけて活躍した書家・西川春洞の下に生まれる。幼少時より書に親しみ、父・春洞の集めた書跡拓本を玩具にして育った。5歳の時に早くも篆書と出会う。父の篆刻に興味を持ち、恐る恐る自分もやりたいと頼んだところ、石に布字してもらい彫ったという。その中で有名なのが「仁者寿」、そして実際にこの時書かれた篆書「寿」も残っている。これらはすでに異才を感じさせる作品であり、その早熟ぶりは異常に近いとまで言われる。

13歳の時に父と死別するが、すでにこの時、父の書作の態度は身についていたといってよい。10代の彼の頃の作品は、父の影響を強く受けている。

青年時代

父と死別してからは、自ら「篆書時代」と称したように、篆書に没頭する毎日であった。以降の彼の作品は徐三庚楊キ孫の書風で書かれ、自らを押し殺して完璧無比な作品を作り上げていった。 20代に入ると、王羲之の研究に没頭する。このときの「臨知足下帖」は「捨てがたき作品」として有名である。また、清代の諸作家の影響もあり、鄧石如の書に傾倒しては逃げ、傾倒しては逃げという繰り返しであったという。 そして彼の生涯傾倒する作家、趙之謙の書と出会う。自ら鄧石如包世臣呉譲之趙之謙西川寧として、趙之謙の「逆入平出」の筆法を汲み取り、以後の作品はすべてこの筆法による。 彼は趙之謙の書を手に入れて自宅に飾ったとき、心底気に入って真似をしようと思ったが、線と線の間の絶妙に輝く余白がどうしても表現できなかったという。そこで趙之謙が、「気満」の書を最高と説く包世臣の書論に基づいていることを知り、「気満」の奥義である「逆入平出」の筆法を得たという。 趙之謙は独自の「逆入平出」を編み出しており、西川寧はこの筆法に心酔した。

関連項目