山本浩二
愛称 | ミスター赤ヘル |
所属球団 | 広島東洋カープ |
国籍 | ![]() |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1946年10月25日(77歳) |
身長 体重 |
183 cm 82 kg |
血液型 | B型 |
守備位置 | 中堅手 |
投球・打席 | 右投右打 |
プロ入り年度 | 1968年 |
ドラフト順位 | 1位 |
背番号 | 8 |
英語表記 | YAMAMOTO |
初出場 | 1969年4月12日 |
最終出場 | 1986年 |
経歴 | 廿日市高校 - 法政大学 - 広島東洋カープ |
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山本 浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督。本名及び旧登録名「浩司(こうじ)」(1974年まで)。現役時代は広島東洋カープで長きに渡って活躍、球界を代表するスター選手の一人で、「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれた。引退後も広島監督を2度務めた。現北京五輪野球日本代表守備走塁コーチ。
来歴・人物
広島市佐伯区(当時は佐伯郡五日市町)の生まれ。子供の頃、父に連れられ当時の広島カープの本拠地・広島県営球場に太田川対岸から渡し船で何度も通い、当時の広島の主力、エースピッチャー・長谷川良平、四番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎に憧れ、全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだ。16歳の時、自分の力で甲子園へ行きたいという野望と、家族の意向もあり大学進学を視野に入れた文武両道の学生生活を希望したため野球では全くの無名だった廿日市高校へと進学、入学時からエースで四番を務める。3年時には主将として広島県予選(県内の同期に高橋一三、小川邦和ら)を勝ち抜き、あわや甲子園かという所までいったが、準決勝で広陵に17安打を打たれ涙を飲んだ。その評判を人伝に聞いた南海ホークスの鶴岡一人監督の目にとまり、「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧められ、1965年高校卒業と同時に法政大学に入学した(鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている)。
大学進学後、投手として野球部に入部したが、1年生部員だけで50人もいた法大ではなかなか通用せず、すぐにエリートコース(合宿組)に入った田淵幸一と違い、富田勝、桑原秀範(のち広島商監督、堀越監督、穎明館監督を歴任)らと共に一般部員だった。しかし2年時、山中正竹の入部をきっかけに外野にコンバート。また、松永怜一監督に個人特訓を受けて打撃の才能が開花し、2年生にしてクリーンナップに抜擢される。やがて山本は、田淵、富田と共に「法大三羽ガラス」の異名を取るようになり、法政黄金時代を築き上げる大きな原動力となっていった。
1969年、ドラフト1位で地元広島カープに入団。入団当初の背番号は27だったが、山内一弘引退後、背番号8を譲り受けた。長らく中距離打者として脇を固めていたが、根本陸夫、上田利治、関根潤三、広岡達朗ら指導者にも恵まれ、長距離バッターとして開眼。1975年には4番に就く。この年のオールスターゲーム第1戦、セ・リーグの3番として4番王貞治、5番田淵幸一とクリーンアップを組み、6番に入った衣笠祥雄とともに二打席連続アベックホームランを放った(このアベックホーマーは、オールスターの名場面として紹介される)。その勢いに乗り同年、自身初のシーズン打率3割とシーズン30本塁打を記録し、首位打者を獲得。チーム初優勝に大きく貢献すると共に、MVPにも輝いた。優勝を決めた10月15日の巨人戦(後楽園)では人目もはばからず男泣きし、広島の人々から郷土の英雄として「ミスター赤ヘル」の二つ名を送られた。
1977年からは、5年連続40本塁打を記録(この記録を持つのは王貞治と山本のみ)。1978年、1980年、1981年、1983年と4度の本塁打王に輝き、打点王も3度獲得した。また、強肩巧守のセンター(1983年からレフトにコンバート)としても知られ、ゴールデングラブ賞を10年連続で受賞。盗塁も11年連続でシーズン2桁を記録、通算でも231個を数える俊足で、走攻守と三拍子揃った選手として、衣笠祥雄、三村敏之、水谷実雄らと共に広島黄金時代を築いた。1983年4月30日の阪神戦(甲子園)ではサイクルヒットを記録。1984年より打撃コーチを兼任し、1985年には史上2人目の通算500本塁打・200盗塁を達成する(この記録を持つのは張本勲、山本、衣笠祥雄の3人のみ)。そして1986年、リーグ優勝を花道に、40歳で現役を引退した。
名の通った大選手でも、プロ入り当初や現役晩年は出場が少なかったり成績が振るわなかったりするが、山本は1年目から引退年までほぼ全試合に出場し、成績も極端に下降することはなかった。引退した1986年にも打率.276をマークし、27本もの本塁打を放っている。また、大卒での通算536本塁打は日本最多記録である。30歳を越えてから通算本塁打の半数以上を放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。その功績を讃え、背番号「8」は広島球団史上初の永久欠番となっている。
引退後はNHKの野球解説者を務め、1989年、監督に就任する。1989年、1990年はリーグ2位、1991年にはリーグ優勝を果たした。1992年も4位ではあったが、まれにみる混戦状態の中、最後まで優勝争いに加わり続けた。しかし、1993年には現役時代の1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、その責任をとる形で辞任した。その後、日本テレビの解説者をしていたが、球団の要請で2001年再び広島監督に就任。在任中に一度もチームをAクラスに導くことなく2005年、成績不振により2度目の辞任。監督としての在任期間(第1期・第2期合わせて)は10年間で、古葉竹識監督、白石勝巳監督の11年に次ぐ長期政権となった。 2006年より、日本テレビ、広島テレビ解説者に復帰。また2007年、星野仙一監督の下、北京オリンピック野球代表チームの守備走塁コーチに就任。
監督時代、第一期政権時代には前田智徳や緒方孝市、江藤智(現埼玉西武)など、第二期政権時代には新井貴浩(現阪神)や嶋重宣、栗原健太を打線の主力として育成した。
所属球団
背番号
タイトル・表彰・記録
タイトル
- MVP:2回(1975年、1980年)
- 首位打者:1回(1975年)
- 本塁打王:4回(1978年、1980年、1981年、1983年)
- 打点王:3回(1979年 - 1981年)
- 最多出塁数:3回(1979年、1980年、1983年)
- ベストナイン:10回(1975年、1977年 - 1984年、1986年)
- ゴールデングラブ賞:10回(1972年 - 1981年)※通算10回受賞は、セ・リーグの外野手としては歴代最多。
表彰
- 日本シリーズ敢闘賞:1回(1975年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1984年)
- 月間MVP:5回(1975年8月、1978年8月、1980年6月、1983年4月、1986年4月)
- オールスターMVP:2回(1975年第1戦、1979年第3戦)
- 野球殿堂競技者表彰(2008年)
記録
- シーズン40本塁打以上:5回(1977年 - 1981年)※歴代3位タイ。
- シーズン30本塁打以上:9回(1975年、1977年 - 1984年)※歴代3位タイ。
- シーズン100打点以上:6回(1977年 - 1981年、1983年)※歴代3位。
- 5年連続シーズン40本塁打以上(1977年 - 1981年)※歴代2位。
- 8年連続シーズン30本塁打以上(1977年 - 1984年)※歴代3位。
- 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ。
- 5年連続シーズン100打点以上(1977年 - 1981年)※歴代2位タイ。
- 17年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1986年)※歴代4位タイ。
- サイクルヒット(1983年4月30日)
- 9打数連続安打(1972年7月6日 - 7月8日)
- 302守備機会連続無失策(1975年4月5日 - 9月24日)※外野手としてのセ・リーグ記録。
- 872試合連続出場(1976年10月22日 - 1983年8月28日)※歴代11位。
- 入団の年から引退の年まで規定打席到達(1969年 - 1986年)
- 通算500本塁打・200盗塁達成(1985年7月26日)※史上2人目。
- 通算満塁本塁打:11本(1972年、1974年、1977年、1978年、1980年、1981年、1982年、1983年、1984年)※歴代9位タイ。
- 通算長打率:.5416(1969年 - 1986年)※歴代10位。
- オールスター出場:14回(1973年 - 1986年)
- オールスター通算打率:.316 ※100打数以上では、歴代3位。
- オールスター通算本塁打:14本 ※歴代1位。
- オールスター通算打点:27 ※歴代3位タイ。
略歴
- 1969年:4月12日中日戦でプロ入り初出場。翌13日に初安打。
- 1969年:5月14日巨人戦で高橋明から初本塁打。
- 1974年:6月13日阪神戦で100号本塁打達成。
- 1975年:10月15日セントラル・リーグ初優勝を飾る。
- 1977年:8月11日阪神戦で200号本塁打達成。
- 1979年:10月8日セ・リーグ2回目の優勝を飾る。
- 1979年:11月8日近鉄を下し、日本一の栄冠。「江夏の21球」として球史に残る。
- 1980年:4月8日大洋戦で遠藤一彦から300号本塁打達成。
- 1980年:9月7日阪神戦で山本和行から1500本安打達成。
- 1980年:10月17日セ・リーグ3回目の優勝を飾る。
- 1980年:11月2日近鉄を下し、2年連続日本一。
- 1981年:8月2日中日戦で1000打点達成。
- 1981年:8月20日巨人戦で1000得点達成。
- 1982年:6月5日巨人戦で鹿取義隆から400号本塁打達成。
- 1984年:5月5日巨人戦で槙原寛己から2000本安打達成し、名球会入り。
- 1984年:10月4日セ・リーグ4回目の優勝を飾る。
- 1984年:10月22日阪急を下し、3回目の日本一。
- 1985年:7月26日中日戦で杉本正から500号本塁打達成。
- 1986年:10月12日セ・リーグ5回目の優勝を飾る。
- 1986年:10月27日西武に1分け3連勝するも4連敗で日本一を逃し、現役として最後の試合になる。翌日引退を表明、背番号「8」は球団初の永久欠番となる。
- 1987年:1月12日広島県から「県民栄誉賞」を贈られる。
- 1987年:4月5日近鉄とのオープン戦で引退試合。
- 1988年:10月21日阿南準郎監督の後任として現場復帰。
- 1991年:10月13日セ・リーグ6回目の優勝を飾る。
- 1993年:9月16日最下位に終わり、成績不振の責任を取って監督を辞任。
- 2000年:10月14日達川光男監督の辞任を受け2度目の監督就任。
- 2001年:復帰初年は貯金でシーズンを終えるも成績は4位(勝率は3位。この年は勝ち星で順位を決めた)。
- 2003年:エース黒田博樹の前半の不調、4番新井貴浩のシーズン通しての不調が原因で昨年と同じく5位。
- 2004年:赤ゴジラ嶋重宣のブレイクで4月は首位に立ったが、その後順位は急落、成績は5位。
- 2005年:黒田博樹が最多勝、新井貴浩が本塁打王を獲得するなど話題もあったが、1993年以来チーム12年ぶりの最下位に終わる。その責任を取り監督辞任。
- 2007年:星野仙一オリンピック野球日本代表監督から守備走塁コーチの就任を依頼され、受諾した。
年度別打撃成績
年度 | 球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
四 死 球 |
三 振 |
打 率 |
長 打 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969年 | 広島 | 27 | 120 | 366 | 37 | 88 | 20 | 1 | 12 | 146 | 40 | 9 | 29 | 74 | .240 | .399 |
1970年 | 128 | 461 | 67 | 112 | 8 | 4 | 22 | 194 | 56 | 21 | 49 | 77 | .243 | .421 | ||
1971年 | 8 | 123 | 431 | 42 | 108 | 19 | 0 | 10 | 157 | 52 | 25 | 45 | 56 | .251 | .364 | |
1972年 | 130 | 485 | 73 | 125 | 27 | 0 | 25 | 227 | 66 | 18 | 57 | 55 | .258 | .468 | ||
1973年 | 126 | 449 | 68 | 121 | 24 | 1 | 19 | 204 | 46 | 10 | 52 | 75 | .269 | .454 | ||
1974年 | 127 | 476 | 74 | 131 | 23 | 2 | 28 | 242 | 74 | 18 | 45 | 72 | .275 | .508 | ||
1975年 | 130 | 451 | 86 | 144 | 21 | 0 | 30 | 255 | 84 | 24 | 69 | 39 | .319 | .565 | ||
1976年 | 129 | 464 | 79 | 136 | 26 | 3 | 23 | 237 | 62 | 14 | 66 | 57 | .293 | .511 | ||
1977年 | 130 | 448 | 102 | 138 | 24 | 4 | 44 | 302 | 113 | 22 | 98 | 64 | .308 | .674 | ||
1978年 | 130 | 473 | 114 | 153 | 28 | 0 | 44 | 313 | 112 | 12 | 86 | 74 | .323 | .662 | ||
1979年 | 130 | 467 | 90 | 137 | 20 | 0 | 42 | 283 | 113 | 15 | 83 | 71 | .293 | .606 | ||
1980年 | 130 | 440 | 91 | 148 | 28 | 3 | 44 | 314 | 112 | 14 | 92 | 52 | .336 | .714 | ||
1981年 | 130 | 473 | 102 | 156 | 21 | 0 | 43 | 306 | 103 | 5 | 76 | 56 | .330 | .647 | ||
1982年 | 130 | 448 | 84 | 137 | 21 | 0 | 30 | 248 | 90 | 8 | 89 | 56 | .306 | .554 | ||
1983年 | 129 | 462 | 86 | 146 | 19 | 2 | 36 | 277 | 101 | 5 | 88 | 62 | .316 | .600 | ||
1984年 | 123 | 437 | 64 | 128 | 15 | 0 | 33 | 242 | 94 | 5 | 66 | 59 | .293 | .554 | ||
1985年 | 113 | 382 | 57 | 110 | 15 | 1 | 24 | 199 | 79 | 2 | 72 | 55 | .288 | .521 | ||
1986年 | 126 | 439 | 48 | 121 | 13 | 0 | 27 | 215 | 78 | 4 | 58 | 69 | .276 | .490 | ||
通算成績 | 2284 | 8052 | 1364 | 2339 | 372 | 21 | 536 | 4361 | 1475 | 231 | 1230 | 1123 | .290 | .542 | ||
12位 | 12位 | 6位 | 12位 | 16位 | - | 4位 | 7位 | 9位 | - | 8位 | - | - | 10位 |
- 太字はリーグトップ。
監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 | チーム 打率 | チーム 防御率 | 年齢 | 球団 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | 平成元年 | 2位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | 9 | 101 | .271 | 3.01 | 43歳 | 広島 |
1990年 | 平成2年 | 2位 | 132 | 66 | 64 | 2 | .508 | 22 | 140 | .267 | 3.57 | 44歳 | |
1991年 | 平成3年 | 1位 | 132 | 74 | 56 | 2 | .569 | ― | 88 | .254 | 3.23 | 45歳 | |
1992年 | 平成4年 | 4位 | 130 | 66 | 64 | 0 | .508 | 3 | 122 | .260 | 3.60 | 46歳 | |
1993年 | 平成5年 | 6位 | 131 | 53 | 77 | 1 | .408 | 27 | 155 | .253 | 4.29 | 47歳 | |
2001年 | 平成13年 | 4位 | 140 | 68 | 65 | 7 | .511 | ― | 155 | .269 | 3.82 | 55歳 | |
2002年 | 平成14年 | 5位 | 140 | 64 | 72 | 4 | .471 | 21 | 154 | .259 | 4.36 | 56歳 | |
2003年 | 平成15年 | 5位 | 140 | 67 | 71 | 2 | .486 | 20 | 153 | .259 | 4.23 | 57歳 | |
2004年 | 平成16年 | 5位 | 138 | 60 | 77 | 1 | .438 | 20 | 187 | .276 | 4.75 | 58歳 | |
2005年 | 平成17年 | 6位 | 146 | 58 | 84 | 4 | .408 | 29.5 | 184 | .275 | 4.80 | 59歳 |
- ※1 1989年から1996年までは130試合制
- ※2 2001年から2004年までは140試合制
- ※3 2005年から146試合制
監督通算成績
- 1358試合 648勝621敗29分
- リーグ優勝1回
- Aクラス3回、Bクラス7回
エピソード
- 大学の同期であった田淵幸一(後のダイエー監督)、六大学リーグで何度となく対戦した星野仙一(後の中日・阪神監督)とは、大学時代から同学年の親友として有名である。プロ入り後みな家庭を持ったのちも、シーズン中に対戦があると、よく互いの家に泊ったりしていた。敵チームの選手宅に泊るには好ましいことでは無いが、ファンも彼らのことは黙認していたという。また、山本が現役引退を決意した時、一番最初に打ち明けたのも田淵、星野が阪神の監督辞任を決意し、田淵に「次(監督)お前やれ」と伝えた(田淵は固辞)のも、広島の山本宅に向かう途中のタクシーの中だったという。
- のんびり屋の性格で、後に夫人になる鏡子夫人が、神宮球場に憧れの山本本人を見に来ているのを見ながら、「あれ(鏡子夫人のこと)、誰の彼女じゃろか?」と感じていたほどのんきであったという。
- 法大では文学部英文学科で学んだが、卒業はしていない。野球選手はこういうケースが多く、プロフィールに〇〇大卒、例えば、法政大「卒」と記載されず、法政大「出」と書いてある場合が多い。
- 現役時代は投手の配球を読むのが上手く、「読みのコージ」とも呼ばれた。そのあまりの的中率にスパイ疑惑を持たれ、当時の週刊誌で大きな話題になった。晩年の堀内恒夫が、毎回山本に当たりの良い本塁打を打たれるので腹が立ち、「絶対打たれないはずの球を打たれた」とスパイ疑惑を臭わす発言をした事もあった。
- 1974年シーズンオフ、名前を「浩司」から「浩二」に改名。姓名判断で「浩司という名前は勝負師に向かない」と言われたためだという。翌1975年シーズンから飛躍的に成長し、以降球団のみならず球界を代表する選手となった。
- 来歴の項で述べたように、1983年4月30日の阪神戦でサイクルヒットを達成している。この日の第5打席、あとは三塁打さえ出ればサイクルヒット達成という場面においてライト側に長打を放ったが、俊足で鳴らした山本でも三塁まで狙うのはかなり厳しい打球であった。それでも果敢に塁を狙い、三塁で掛布雅之とのクロスプレーを制して悲願のサイクルヒット達成となったのだが、この時の掛布のタッチの動作が非常にゆっくりとしたものであったため、このシーンは今でもファンの間で語り草となっている。そもそもサイクルヒットは達成の前にチャンスを作ること自体が難業であり、またその試合は広島が大差でリードしており且つ試合も終盤であったため、山本浩二に三塁打を許しても流れは変わらないと判断した掛布が独断で「粋な配慮」を見せたと言われているが、掛布はこれを「あのタイミングでは完全に間に合わなかった」と否定している。
- 山本は、29歳で首位打者をとるまでは3割を1度も打ったことがなく、本塁打も30本を超えたことはなかった。しかし、31歳となる1977年に44本塁打を放つと、以後、3割以上のアベレージをコンスタントに残すようになり、また本塁打を量産するようになった(37歳となる1983年にも、36本塁打で4度目の本塁打王に輝いている)。大器晩成型のスラッガーとして有名な打者である。
- 法政大学時代から腰痛が持病となっていた。年が経つにつれそれがひどくなり、自らは休養を求めたが、古葉監督(当時の広島の監督)が休養を許してくれず、出場を続けた。そうした中で、山本は、腰にできるだけ負担をかけずに球を遠くに飛ばす打法を習得。これにより、長距離打者として開眼、右翼への流し打ち本塁打の名手になったといわれる。
- 腰痛の有名なエピソードとして次のようなものがある。1975年8月7日、ヤクルト戦の試合前の練習中に山本はぎっくり腰になってしまい、試合への欠場を古葉監督に願い出た。しかし、古葉監督は聞き入れず、4番センターで山本をスタメン出場。腰の激痛で、山本は打席に立っても、ほとんどバットを振れなかった。試合は混戦に突入し、8回の時点で7対7の同点。そしてその回にランナーを3塁に置いて、山本に打席が回ってきた。山本は腰の痛みをこらえ、外角にきた直球をミートすると、打球は右翼席まで飛んでいき、9対7とする勝ち越し本塁打となった。
- 1986年に引退したが、日本シリーズの後に引退発表をしたのでこの年の日本シリーズ第8戦が事実上の引退試合となった。試合には敗れ、西武に優勝を譲ったが、引退を知らされていた広島ナインから惜別の胴上げを受け広島市民球場は万来の浩二コールに包まれた。翌日の引退発表会見の際、涙ながら「山本浩二は幸せな男です。」と述べた。
- ヘディング事件といえば元中日の宇野勝が有名であるが、山本もレフトフライを頭に当てて落球したことがある。
- ヤマザキの「エイトドーナツ」の袋に描かれている野球選手である。
- 現在、球場でファンが選手の名前で大声援することを「○○コール」と呼ばれているが、これは山本が「ミスター赤ヘル」としてチームを引っ張るようになってから、打席に立つたびに「浩二! 浩二!」というファンからの大声援が起こるようになり、マスコミがそれを「浩二コール」と名付けて広めたためである、といわれている。また、トランペットなどの楽器(鳴り物)による応援は、山本の打席で行われたのが最初だといわれている(昔は声での応援しか行なわれていなかった。鳴り物応援や広島東洋カープも参照のこと)。
- オールスターに強く、打率、本塁打、打点、得点がそれぞれ歴代3位以内に入っている。また、本塁打数は歴代最多である。
- 現役時代、王貞治、田淵幸一、星野仙一、平松政次、松岡弘と共に、細川たかしの「六つの星」という歌にバックコーラスで参加したことがある。しかしこの曲のジャケット写真では、なぜか山本だけがビジター用のユニフォームを着ていた。その理由は現在でも不明である。
- 2007年 オリンピック野球日本代表守備走塁コーチに就任し 三塁ベースコーチを務めるも 練習試合では監督からのサインを見落とすという失態を犯したことを認める。
著書
- 「栄光の背番号8 これがオレの野球人生だ」(1986年、交通タイムス社)
CM
- 現役中
- ますやみそ 味噌(広島ローカル。『麹の良さが決め手』がキャッチフレーズで、津田恒実に「ウチのチームと一緒ですね! ねぇ、浩二さん!」とギャグを言われる)
- 引退後
- ロート製薬「新V・ロート」
- ブリヂストン 自転車(浅野ゆう子と共演)
- サントリー「モルツ」
- ハウス食品 “カレーはハウス”キャンペーン(1990年代中頃、田淵幸一・星野仙一と共演…2008年にも再共演)
- 興和「バンテリン」(2000年代)
関連項目
- 最後のストライク(炎のストッパー津田を描いたドラマ。本人も出演している)
- 広島東洋カープの選手一覧
外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。