コンテンツにスキップ

桂文吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Kunipoo (会話 | 投稿記録) による 2008年4月15日 (火) 05:42個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎4代目: typo)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

桂 文吾(かつら ぶんご)は、上方落語名跡。現在は空き名跡となっている。

桂きん枝が師匠の5代目桂文枝に名乗りたいと申し出ていたが襲名にはいたっていない。

初代

初代 桂文吾生没年不詳)は、本名、享年とも不詳。

初め春好を名乗る。次に田舎焉馬の門下となり、春馬、後に焉馬を襲名。後、3代目桂文治に従って江戸へと下り、桂花玉、初代文吾を経て、再び花玉へと改名。初代朝寝坊むらくと共に両国の寄席を務め、大道具やせり上げを用いた噺を得意にしたという、「大道具大志かけ落はなし桂文吾」と大書した一枚刷のビラ(1829年頃の物)が現存する。1852年4月13日神田鍋町での高座が最後であったらしい。

なお、『落語系圖』『古今東西落語家事典』には初代文治門人とあるが、『文之助系図』には3代目文治門下とある。あるいは初代門下から3代目門下に移ったのか、詳細は不明である。

2代目

2代目 桂文吾(生年不詳 - 1874年)は、本名、享年とも不詳。

文化文政頃の生まれ、初め初代文吾の門下で三光齋源吾を経て、2代目文吾襲名。講談師の門人となった後、初代林家正三(正翁)の門下で林家圓玉。後に上京し、三遊亭圓生一門との混同をさけるため、三光斎延玉から林家延玉と改名。帰阪後は初代桂文枝の桂派に対抗して川喜派の頭取になった。

音曲を得意とし「とっちりとん」や「えんかいな節」等の替唄を作り、唄本や刷り物残し発表した。

3代目

3代目 桂文吾(? - 1886年5月17日)は、本名、享年とも不詳。

幕末の生まれ、初代桂文枝の門下で3代目文吾を襲名。1880年夏に林家延玉を名乗る、同年秋に再度、文吾になるが1886年3月に延玉に複名。あだ名の「山寺」は、大阪市中央区清水町の自宅で「山寺」という看板を掲げて酒商を営んでいたためらしい。

文吾と延玉は同時に引継ぎ使い分けていた。

1880年8月、落語取締役に当選。落語研究会を企画したりと活躍したが、初代桂文團治4代目林家正三と同じく、流行のコレラで死去。

弟子には4代目文吾、2代目桂文三初代桂枝太郎3代目桂文都3代目桂文三桂文屋3代目笑福亭圓笑がいる。

墓所は大阪市天王寺区上本町9丁目の寿法寺(別名・紅葉寺)。

4代目

4代目 桂文吾1865年 - 1915年9月17日)は、本名: 鈴永孝次郎(鈴木孝次郎、幸吉とも)。享年51。出囃子は「のっと」

1883年立川八百蔵の門下で立川八百壽、1884年頃に桂錦枝の門下で錦治。1885年頃に3代目の門下で3代目桂小文吾1886年頃に3代目林家木鶴2代目桂文三)の門下で木松、1887年頃に三鶴、1888年頃に再度小文吾、1894年頃に3代目桂藤兵衛の門下で桂藤枝、1899年頃に藤茂栄。『上方はなし』第9集には「茂枝」とある。を経て、1902年頃、4代目文吾を襲名。また、笑福亭福圓の説によれば、元々、酒屋の丁稚で、初め立川八百蔵の門下で立川八百枝(八百寿(壽)とも)と名乗ったという。

主に京都の寄席で真打として活躍。『鹿鍋』『お文さん』『後家ごろし』『市助酒』などを得意とし、晩年は『らくだ』が売り物だった。俗受けはしなかったが、噺は絶品で、真の名人であったという。東京の3代目柳家小さんも4代目文吾の崇拝者で、『らくだ』を口伝されている。

若い時から大酒飲みだったが、酒で酔わず酢に唐辛子を入れて呑んだり、つまみ以外の食事は殆ど取らなかったため、遂には塩ゆで豌豆を「文吾豆」と呼ぶようになったりと、酒にまつわる様々な話が伝わっている。晩年はアルコール依存症となり、京都・笑福亭で『外科本道』の口演途中に発狂したのが最後の高座となった。

後に壊疽のため足首を切断し、京都市中京区六角裏寺町下ルにあった西念寺(現在は西京区に移転し、跡地はボウリング場になっている)境内で侘び住まいをしていた。死去の際、家には酒樽の他は何もなかったという、正に『らくだ』の噺を地で行くような最後であった。

葬儀委員長は2代目林家染丸が勤めたが、金銭が全くなかったため、読経の代わりに出囃子の「のっと」を木魚で叩いたり、香典返しとして追善落語会の切符を配るなどして、何とか無事に果たしたという。

法名: 仁王齋桂山文吾居士。墓は西念寺にあったといい、反対派太夫元の岡田政太郎と初代桂ざこばによって建立された。

5代目

5代目 桂文吾1896年12月30日 - 1971年頃)は、本名: 富士村彦次郎。2代目桂文團治(後の7代目桂文治)門下の桂團輔の実子。享年不詳。

子役からの噺家で、初め初代笑福亭福松の門下で笑福亭小福松。次に1904年10月に3代目桂文枝の門下で3代目桂小文と改名。この頃は芝居噺、手踊りをやっていた。後に上京し、にあった「惠智十(えちじゅう)」という寄席(1935年に閉館)の養子となり、一時桂小文枝を許可なく襲名(代外)。1938年12月に桂華緑(かろく)と改名。落語芸術協会に所属して活動した。

寄席の経営に失敗し、戦後は帰阪。1948年頃に2代目桂文我を襲名。後、更に京都へ居を移し、1950年頃に5代目文吾を名乗る。4代目文吾ゆかりの西念寺で「文吾の会」を昭和30年代後半まで細々と続けていたが、生活は貧しく、寂しい晩年であった。昭和40年頃に死去。

得意ネタは『袈裟茶屋』『花の都』『付きの馬』等があった。

弟子には、現在でも鳥取県米子市で活動している6代目桂小文吾がいる。

後妻は2代目笑福亭福松の娘だったといい、5代目文吾の次に3代目福松を襲名する予定があった。しかし、文我、文吾、福松と、大名跡を次々と襲名する裏には、集金目的の興行を打つ意図があったとされる。これを憤った2代目文の家かしくが、高齢にも係わらず3代目福松を先に襲名し、大切な師匠の名跡を守ったのだという。丁度50回忌にあたった。

出典

  • 『古今落語系図一覧(文之助系図)』(日本芸術文化振興会、2004年)
  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『続・上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1985) p183 - 5代目文吾に関して
  • 『三集・上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1991年)p69 - 3代目福松の襲名に関して