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金谷秀夫

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金谷 秀夫(かなや ひでお、1945年2月3日 - )は、バイクレーサー兵庫県神戸市生まれ。若かりし頃は片山義美氏主催の「チーム木の実」の伝説の六甲山トレーニングでテクニックを磨く。

後に、カワサキワークスライダーとして、1968年鈴鹿で開催されたロードレース世界選手権日本GP125ccクラスでGPデビューを果たす。1970年 ヤマハワークス契約。1972年 世界GP参戦 開幕戦の西ドイツGP 250ccクラス優勝。同日開催の350CCクラスでも表彰台・3位入賞を獲得し、その名を「世界のカナヤ」として欧州の関係者達に認知させるところとなる。

翌、1973年シーズンは開幕から僚友でもあり親友でもあった、ヤーノ・サーリネンとともに開幕から350CC、500CCクラスを席巻するも、第4戦イタリアGPでのレンツォ・パゾリーニ、サーリネンが死亡するという悲劇的な多重クラッシュに巻き込まれ、重症を負う。サーリネンの死に追悼の意を表す為、所属するヤマハがこのシーズンのGP参戦を取消しの決定を受け、シーズン半ばで撤退する。

1975年、2年ぶりにGP参戦となったこのシーズンでは、前年より新たなヤマハのエースとして迎えられたジャコモ・アゴスティーニのサポート役としてヤマハから命を受け、再びGPに参戦。500CCクラスで開幕フランスで2位、続くオーストリアでは(世界GP)で当時の最高峰500CCクラスで初めて優勝を飾った日本人ライダーとして歴史に名を残すこととなる。

同日開催された350ccクラスでも優勝を遂げ、日本人唯一の1開催GPでのWウィンを飾る。その後も順調に上位に入賞するも、第5戦イタリアGPを終えた時点で500ccクラスのランキング1位の座にありながら、シーズン途中で参戦を休止し、急遽日本へ帰国。結局全10戦中5戦を走ったのみで1975年シーズンの500ccクラスをランキング3位で終える。この時、帰国の途につこうとする金谷に驚いたヨーロッパジャーナリスト達が『ランキング1位のお前がなぜ、帰るんだ?』『世界チャンプになりたくないのか?』と質問を浴びせる中、『勝つのはアゴ(アゴスティーニ)の仕事、俺には日本での(マシン開発の)仕事があるんや!』という名言を残したという。

一説によると、この出来事はこのままでは本当に金谷がアゴスティーニを破り、チャンピオンになってしまうことを恐れたヤマハが急遽金谷を帰国させたとも伝えられている。当時の時代背景では日本車がチャンピオンになることはヨーロッパの人々は受容れても、日本人が、まして後に歴代の記録を全て塗り替えた王者、アゴスティーニより速い日本人、などという現実をヨーロッパの人々が受容れてくれる筈もない、と風評を恐れた会社側が金谷の参戦を途中で打切ったとも漏れ伝え聞こえている。

また、このシーズン金谷自身は、内心アゴスティーニを打ち負かすことこそが、彼が唯一速さを認めた親友、サーリネンへの手向けと捕らえていた、と観る向きも多かった。

帰国後の1976年、レーシンククラブ「チーム・カナヤ」創設。1982年に引退。以後、多くの若手ライダーの育成に力を注ぐこととなる。引退後はTVのロードレース解説、ライディング本の著作などで活躍。また1982年公開の映画『汚れた英雄』ではレースシーンの監修を担当するなどオートバイ・ライフの浸透に力を注いでいる。

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