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小田和正

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小田 和正
出生名 小田 和正
生誕 (1947-09-20) 1947年9月20日(76歳)
出身地 日本の旗 日本神奈川県横浜市
学歴

東北大学工学部建築学科卒業 

              早稲田大学大学院理工学研究科修了
ジャンル J-POP
職業 シンガーソングライター
歌手
作曲家
活動期間 1970年
レーベル ファンハウス
1986年1999年
BMG JAPAN(BMGファンハウス)/Little Tokyo
1999年~)
事務所 ファー・イースト・クラブ
公式サイト Far East Café (公式サイト)

小田 和正(おだ かずまさ、1947年9月20日 - )は、日本ニューミュージックを代表するシンガー、シンガーソングライター。元オフコースボーカルリーダー。株式会社ファー・イースト・クラブ(FAR EAST CLUB INC.)代表取締役社長。実家は神奈川県逗子市披露山で隣家は松任谷由美邸。東京都渋谷区に在住。身長172cm。血液型A型

概略

将来、建築家を目指していた小田は高校時代から同級生らと続けてきたフォークグループ「ジ・オフ・コース」のアマチュア音楽活動の有終の美を飾るべく、自信をもって臨んだ「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で不本意にも2位になったことで、「オフコース」として、プロの道を歩み出すことになる。

数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代から1980年代にかけて、次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコース時代のシングルのA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代のヒット曲には「さよなら」「Yes-No」「君が、嘘を、ついた」などがある。

オフコース時代から、ソロ活動は始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後に活動を本格化させる。特に、1991年の『東京ラブストーリー』というトレンディドラマの主題歌『ラブ・ストーリーは突然に』が大ヒットし、オフコース時代にも達成できなかった「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルのミリオンセラー」の達成を一挙に成し遂げ、それ以降の曲もヒットを重ねている。

CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。また、音楽以外の分野では映画やドキュメンタリーの制作なども行った。

来歴

建築家藤森照信は学部時代からの友人。

オフコース時代

  • 1970年 「ジ・オフ・コース」というグループ名でシングル『群衆の中で』(作詞:山上路夫・作曲:BETTY DEAN・編曲:馬飼野俊一)でデビュー
  • 1973年、初めて自身の作詞・作曲した曲、『僕の贈りもの』がシングルとしてリリースされる。この曲からグループ名が「オフ・コース」になる。
  • その後オフコースとして数々のシングルやアルバムを発売するも、なかなか売れない時代が続いた。当時は時代的に思想的なメッセージ性の強い曲が受けていたので、オフコースのようなストレートに愛を歌うグループは冷ややかに見られ、客席から「帰れ!」とブーイングされたこともあったという。
  • 同じ事務所の杉田二郎のバーター(知名度を上げるため、事務所の先輩の出演する番組に抱き合わせで出演)としての活動が多く、ラジオのDJもやっていたが、受けなくて苦痛だったという。
  • 当時、大人気だったかぐや姫井上陽水の活躍を横目に辛い時期を過ごしていた。しかし、地道にコンサート活動を続けてきた結果、徐々に『眠れぬ夜』、『秋の気配』、『愛を止めないで』とスマッシュヒットを重ね、1979年12月に発売されたシングル『さよなら』(小田和正 作詞・作曲)が72万枚(オリコン最高位2位)の大ヒット、一躍人気ニューミュージックバンドとなった。
  • シンコペーション転調を多用した印象的なメロディや、行間のある叙情的な作詞は、オフコース時代に小田和正のものとなった。
  • 1981年 11月23日 NHK教育テレビのドキュメンタリー番組『若い広場』でオフコースとして初めてのテレビ出演。
  • 1982年
    • 1月22日~6月30日まで、「Off course Concert 1982 “over”」 全国28ヶ所69回公演の全国ツアーを行う。
    • 9月3日、ファンクラブの手伝いをしていた女性と結婚。(現在、子供はいない…街で騒ぐ子どもの声が嫌いで、そういう子どもに育てない自信がないから作らないとの本人の談がある)

ソロ活動の成功

  • その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、『伝えたいことがあるんだ』、『キラキラ』、『まっ白』などのヒット曲を生み出している。
  • またオフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK』『LOOKING BACK 2』や『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなり、改めて小田サウンドの力を見せつけた。
  • 2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル『こころ』で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。

レコード・CDセールスの記録

1985年 シングル『今だから』(松任谷由実・小田和正・財津和夫共作) - 「オリコン シングルチャート1位」獲得は、小田の音楽キャリア史上初。売上げ36.5万枚

1991年 シングル 『Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に』 - 「オリコン シングルチャート週間1位」「年間シングルチャート1位」 ソロで初の1位獲得、270万枚を売り上げ、当時のシングルCD・レコード売上枚数記録史上、過去最高記録達成。

2001年 アルバム 『LOOKING BACK 2』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」 53歳8ヶ月 (それまでの同記録は井上陽水『GOLDEN BEST』1999年7月 51歳0カ月)

2002年 アルバム 『自己ベスト』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 54歳8ヶ月←53歳8ヶ月

2004年『自己ベスト』 - 「オリコン アルバム売上200万枚突破 最年長記録」57歳3ヶ月 (それまでの同記録は松任谷由実『Neue Musik(ノイエ・ムジーク)』1998年11月 44歳10カ月)、「男性ソロアーティスト アルバム200万枚突破 史上2人目達成」 (同年12月、初記録は河村隆一『Love』1997年12月

2005年6月 アルバム 『そうかな』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 57歳9ヶ月←54歳8ヶ月

2007年8月 シングル 『こころ』 - 「オリコン シングルチャート週間1位獲得 最年長記録」 59歳11ヶ月 (それまでの同記録は石原裕次郎『北の旅人』1987年8月 52歳7カ月)

2007年12月 アルバム 『自己ベスト-2』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 60歳3ヶ月←57歳9ヶ月、60代での1位獲得・30代から60代すべての年代でアルバムチャート1位獲得ともに史上初。

※2007年12月現在、オリコンチャート週間1位の最年長記録は、アルバム・シングル共に小田和正が有している。

プロデュースやコラボレーション

ソロになった1989年以降、他のアーティストとの交流が急速に活発化する。

ソングライターとして鈴木雅之中村雅俊島倉千代子松たか子らの楽曲を全面的にプロデュースする他、ASKA佐藤竹善らとコラボレーションする。

また、チャリティ目的のコラボレーショングループUSED TO BE A CHILDの主催、泉谷しげるらとのチャリティライブ、スターダストレビューCHAGE and ASKA等とのジョイントライブや音楽イベントに積極的に参加するようになった。

小田自身のソロライブでも、コーラスに安部恭弘佐藤竹善山本潤子加藤いづみらを起用している。

映画監督としての活動

中学生時代に見た映画『ティファニーで朝食を』の主題歌でヘンリー・マンシーニ作曲の『ムーン・リバー』に大変感動し、初めてレコードを買い、「将来こんな素敵な仕事ができたら」と思っていた。音楽と映像を融合させた表現にはオフコース時代から積極的に取り組んでおり、当時としては珍しい、楽曲のビデオクリップ制作などに注力していた。

1992年、最初の映画監督作品となる『いつか どこかで』を発表。全国ロードショウされたが、映画評論家には不評を買い、セールス的にも成功とはいえなかった。アルバム『sometime somewhere』はこの映画のサウンドトラック的存在として作られた。

1997年、一作目の映画製作時の体験を元に、監督第二作目となる『緑の街』を制作、発表した。この作品は映画会社配給ではなく、全国のホールなどに上映機材を持ち込んで上映をしていく「シネマ・ツアー」という公開形式をとった。「歌手である主人公が映画製作を果たす」というストーリーが、実体験を元にさわやかな感覚で描かれており好評を得た。

折に触れ、第三作の映画にとりかかるという話は聞かれるが、2007年3月現在、具体的な話は始まっていないようである。

ファンへむけた活動

Far East Café という名のカフェを経営している。カフェでは飲み物はもちろん、ファン向けの様々なサービスが提供され、小田和正グッズも販売されている。また、ファン向けに『Far East Café Press』という会報を毎月発行しており、日々の活動などが伝えられている。1995年からは、毎年の活動をまとめたビデオ「LIFE-SIZE」を、Press購読会員限定で発売している(現在はDVDで発売)。

声について

女声域までの高音をファルセットを使わず素直に出せる澄んだ歌声が大きな特徴で、天性のものと言うほかない。オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばだったという。少年のような歌声に、変声期を経ずに成長したのではとの見方もあり、自身も音楽評論家の小貫信昭のインタービュー本『たしかなこと』で「変声期があった記憶がないので、声変わりしていないと思う」との旨を述べているが、2005年のコンサート中のMCにて「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があった様子を伺わせた(発声が生来しっかりしていたため、声変わりしても元の音域で話せたせいで、声変わりに気づかなかっただけという可能性が指摘されている)。話す声はわりあい低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいと感じる人が多く、「どうしたら高い声で歌えるのか」という質問をよくされるが、それに対しては「僕はただシャウトしているだけ」と答えている。東北大学時代は混声合唱団でテノールを担当していた。

交通事故

1998年7月22日夜、愛車セルシオを自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催のゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町東北自動車道下り線を走行中、自損事故を起こし、全治4週間の重傷を負う。現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制が出されていたところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行しており、スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。車は大破。同乗者はいなかった。幸いにも、後続車による追突や、横転、反対車線への飛び出しといったことがなかったため、九死に一生を得る。約2週間の入院を経た後奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県にある「海の中道」で行われた、スターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない不自由な体ながらも見事に歌手活動に復帰した。

音楽作品

シングル

  1. 19851986年11月1日
  2. 僕の贈りもの1988年3月5日
  3. Little Tokyo1989年10月18日
  4. 君にMerry Xmas (1989年12月1日
  5. 恋は大騒ぎ1990年2月21日
  6. Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に1991年2月6日
  7. あなたを見つめて (1991年11月20日
  8. いつか どこかで1992年1月25日
  9. そのままの君が好き (1992年7月25日
  10. 緑の日々1993年3月25日
  11. 風の坂道1993年9月22日
  12. 真夏の恋1994年7月16日
  13. so long my love1995年1月25日
  14. 君との思い出 (1995年11月22日
  15. 遠い海辺1997年5月21日
  16. 伝えたいことがあるんだ (1997年7月24日
  17. 緑の街 (1997年8月29日
  18. こんな日だったね1999年10月21日
  19. woh woh2000年3月23日
  20. 風の街2001年3月7日
  21. キラキラ2002年2月27日
  22. まっ白2004年2月25日
  23. たしかなこと2005年5月25日
  24. ダイジョウブ2007年4月25日
  25. こころ2007年8月15日

オリジナルアルバム

  1. K.ODA (1986年、オフコース時代に製作)
  2. BETWEEN THE WORD & THE HEART (1988年、オフコース時代に製作)
  3. Far East Café (1990年5月9日)
  4. sometime somewhere (1992年1月25日)
  5. MY HOME TOWN (1993年10月27日)
  6. 個人主義 (2000年4月19日)
  7. そうかな 相対性の彼方 (2005年6月15日)

ベストアルバム

  1. Oh! Yeah! (1991年2月6日)
  2. 伝えたいことがあるんだ (1997年11月21日)
  3. 自己ベスト (2002年4月24日)
  4. 自己ベスト-2 (2007年11月28日)

セルフカバーアルバム

  1. LOOKING BACK (1996年2月1日)
  2. LOOKING BACK 2 (2001年5月16日)

カバーアルバム

コラボレーション

  • 今だからシングルレコード)(1985年、松任谷由実財津和夫との共作 編曲は坂本龍一 未CD化)オリコン最高位1位 売り上げ36.5万枚
  • 僕らが生まれたあの日のように(8cmCD)(1993年、飛鳥涼(現:ASKA)らとのユニット「USED TO BE A CHILD」名義)
  • クリスマスが過ぎても(8cmCD)(1996年、佐藤竹善とのユニット「PLUS ONE」名義)
  • この日のこと(未CD化)(2001年、『クリスマスの約束』テーマソング。作詞・作曲:小田和正。21組のアーティストと合唱)
  • クリスマスの約束 (2003年、『クリスマスの約束』内で一度だけ披露した、ゆずとのコラボレーション曲。2006年11月29日にゆずおだ名義でCDシングルとして発売)
  • 月見ヶ丘(2006年11月29日発売、スキマスイッチの3rdアルバム「夕風ブレンド」に収録。コーラスとして参加)
  • 僕らなら (クリスマスの約束2006でスキマスイッチと共同制作)
  • カオ上げて (2007年3月28日、佐藤竹善シングル「FOUR WORLDS」のカップリングに佐藤竹善とのユニット「PLUS ONE」名義で発売。スキマスイッチの大橋卓弥がコーラスで参加。2007年6月20日発売のアルバム「INDIGO」にも収録)
  • おやすみ(2007年4月25日発売、松たか子の8thアルバム「Cherish You」に収録。作詞・作曲:小田和正。コーラスとしても参加。スターダストレビュー根本要もコーラスで参加。)
  • 蘇州夜曲(2007年10月17日発売、「服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜 [Compilation] 」に収録)
  • RED RIBBON Spiritual Song ~生まれ来る子供たちのために~ (2007年11月28日、AIDS チャリティ PROJECT)
    • 世界エイズデー・プロジェクト2007 チャリティー・シングル
    • オフコースの『生まれ来る子供たちのために』を原曲に、サウンド・プロデューサーのYANAGIMANがアレンジを施している。
  • たとえば (クリスマスの約束2007でさだまさしと共同制作)
  • 恋バス (クリスマスの約束2007で矢井田瞳と共同制作。矢井田瞳の7thアルバム「colorhythm」(2008年3月5日発売予定)に矢井田瞳album ver.で収録。コーラスで参加)
  • たしかなこと(2008年4月2日発売、大橋卓弥(from スキマスイッチ)のソロプロジェクト第2弾シングル「ありがとう」のカップリングに収録。)
  • DearMama feat.小田和正 (2008年5月9日発売、インディーズ11万枚アーティストであるLGYankeesのメジャーデビュー第1弾シングルに参加。

コンサート

ツアー

タイトル 公演規模 公演日程 会場 備考
1990年 第一生命サウンドスペシャル
K.ODA TOUR 1990 Far East Club Band
全国40ヶ所、56公演 5月31日-11月7日 千葉県文化会館宇都宮市文化会館福岡サンパレス長崎市公会堂鳥栖市民文化会館熊本市民会館鹿児島市民文化ホール四日市市文化会館岐阜市民会館静岡市民文化会館松本社会文化会館長野県民文化会館大宮ソニックシティ群馬県民会館山梨県民文化会館高知県民文化ホール徳島市文化センター香川県県民ホール松山市民会館大阪フェスティバルホール神戸国際会館北海道厚生年金会館神奈川県民ホール石川厚生年金会館福井フェニックスプラザ富山市公会堂新潟県民会館徳山市文化会館メルパルクホール広島倉敷市民会館京都会館岩手県民会館青森市文化会館秋田県民会館郡山市民文化センター仙台イズミティ21横浜アリーナ[1]名古屋市民会館大阪城ホール日本武道館  
1991年-1992年 第一生命サウンドスペシャル
Sometime Somewhere K.ODA TOUR FAR EAST CLUB BAND 1992
全国33ヶ所、59公演 12月1日-4月25日 大宮ソニックシティ、市川市文化会館、福井フェニックスプラザ、伊那文化会館、長野県民文化会館、郡山市民文化センター、仙台サンプラザ[2]、新潟県民会館、北海道厚生年金会館、神奈川県民ホール、名古屋国際会議場センチュリーホール、静岡市民文化会館、京都会館、神戸国際会館、広島厚生年金会館、愛媛県民文化会館徳島市文化会館、福岡サンパレス、大阪フェスティバルホール、名古屋市民会館、秋田県民会館、岩手県民会館、青森市文化会館、国立代々木競技場第一体育館、鹿児島市民文化ホール、宮崎市民会館、大分文化会館、長崎市公会堂、日本武道館[3]  
1995年 FUN MORE TIME! KAZUMASA ODA TOUR 1995 全国36ヶ所、60公演 1月7日-5月23日 群馬県民会館、宇都宮市文化会館、アクトシティ浜松、静岡市民文化会館、北海道厚生年金会館、大宮ソニックシティ、仙台サンプラザ、新潟県民会館、神奈川県民ホール、徳山市文化会館、岡山市民会館、広島厚生年金会館、四日市市文化会館、岐阜市民会館鳥取県民文化会館島根県民会館、神戸国際会館[4]府中の森芸術劇場どりーむホール近江八幡市文化会館、徳島市文化センター、高知県民文化会館オレンジホール、松山市民会館香川県県民ホール、鹿児島市民文化ホール、熊本市民会館、福岡サンパレス、名古屋国際会議場センチュリーホール、青森市文化会館、岩手県民会館、京都会館、長野県民会館、松本文化会館、大阪フェスティバルホール、福井フェニックスプラザ、富山市公会堂、石川厚生年金会館、日本武道館[5]大分文化会館宮崎市民会館、長崎市公会堂、佐賀市文化会館、郡山市文化センター、宮崎県民会館 以後「ご当地紀行」と呼ばれる、ツアー先の名所などを小田が訪れたVTR上映がスタートした。
1997年-1998年 日産エルグランドPresents
K.ODA TOUR 1997-1998 THRU THE WINDOW
全国50ヶ所、65公演 9月2日-2月3日 神戸国際会館ハーバーランドプラザ[6]、島根県民会館、鳥取県民会館梨花ホール守山市民ホール和歌山市民会館、宇都宮市文化会館、山形県民会館、青森市民会館、岩手県民会館、仙台サンプラザ[7]、北海道厚生年金会館、旭川市民文化会館富山オーバードホール、長野県民会館、山梨県立県民文化ホール、ひたちなか市文化会館、市川市文化会館、豊橋勤労福祉会館、三重県文化会館大ホール、岐阜市民会館、静岡県民文化会館大ホール、秋田県民会館、郡山市民文化センター、群馬県民会館、金沢市観光会館、福井フェニックスプラザ、新潟県民会館、佐賀市文化会館、大分市文化会館、京都会館、大宮ソニックシティ、高知県立文化化会館オレンジホール、徳山市立文化センター、香川県民ホール、山口市民会館、松山市民会館、倉敷市民会館、広島厚生年金会館、福岡サンパレス、九州厚生年金会館、東京国際フォーラム・ホールA[8]、名古屋市民会館、大阪フェスティバルホール、パシフィコ横浜国立大ホール、アクトシティ浜松、名古屋国際会議場センチュリーホール、宮崎市民文化ホール、鹿児島市民文化ホール第1ホール、長崎市公会堂、熊本市民会館、奈良県文化会館、日本武道館 日本武道館公演で、ステージ上に客席を設ける試みがなされ、以後オンステージ・シートとして定着していくことになる。
2000年 SAME MOON! KAZUMASA ODA TOUR 2000 全国45ヶ所、59公演 5月11日-10月12日 千葉県文化会館、山梨県民文化会館、秋田県民会館、八戸市公会堂、山形県県民会館、びわ湖ホール・大ホール、大阪フェスティバルホール、三重県文化会館、長良川国際会議場・メインホール瀬戸市文化センター、宇都宮市文化会館、大宮ソニックシティ、長野県県民文化会館、佐賀市文化会館、長崎ブリックホール、九州厚生年金会館、大分県立総合文化センター・グランシアター、京都会館、島根県民会館、鳥取県民文化会館、高知県民文化ホール、香川県県民ホール、松山市民会館、倉敷市民会館、徳山市文化会館、ふくやまリーデンローズ、広島厚生年金会館、神戸国際会館・こくさいホール、東京国際フォーラム・ホールA、富山オーバードホール、石川厚生年金会館、静岡市民文化会館、神奈川県民ホール、新潟県民会館、宮城県民会館会津風雅堂、郡山市民文化センター、岩手県民会館、北海道厚生年金会館、名古屋国際会議場センチュリーホール、熊本市民会館、鹿児島市民文化ホール第一、福岡サンパレス、日本武道館[9]  
2002年 ファミリーマート[10]Presents
K.ODA TOUR 2002 「Kira Kira」
全国25ヶ所、39公演 5月2日-8月18日 SHIBUYA-AX[11]大阪国際会議場メインホール米子コンベンションセンターZepp FUKUOKA、福岡サンパレス、鹿児島市民文化ホール第一、三重県文化会館、静岡市民文化会館、アクトシティ浜松、北海道厚生年金会館、岩手県民会館、福島県文化センター、仙台サンプラザ、東京厚生年金会館、パシフィコ横浜国立大ホール、神戸チキンジョージ、名古屋国際会議場センチュリーホール、新潟テルサ、石川厚生年金会館、広島国際会議場フェニックスホールさぬき市野外音楽広場・テアトロン、国立代々木競技場第一体育館、大阪城ホール、愛知県体育館 このツアーから、小田のコンサート会場では、オンステージ・シート及び、客席内に花道が設置されるのが恒例となっていった。
2005年 明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2005
"大好きな君に"
全国20ヶ所、40公演 6月3日-12月22日 静岡エコパアリーナマリンメッセ福岡朱鷺メッセ・新潟コンペディションセンター、さぬき市野外音楽広場・テアトロン、青森市文化会館、岩手県民会館、パシフィコ横浜国立大ホール、万博記念公園もみじ川芝生広場、名古屋港オープンエアパーク、真駒内アイスアリーナ仙台市体育館、長野県松本文化会館、石川厚生年金会館、広島グリーンアリーナ沖縄コンベンション劇場[12]、山梨県民文化ホール、日本武道館[13]、大阪城ホール、愛媛県民文化会館、宮崎市民文化ホール、名古屋市総合体育館レインボーホール 動員数約32万人。
2008年 明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2008
"今日もどこかで"
全国29ヶ所、52公演(予定) 4月5日-9月26日(予定) 静岡エコパアリーナ[14]神戸ワールド記念ホール、米子コンベンションセンター[15]アスティとくしま、マリンメッセ福岡[16]、三重県文化会館大ホール、長野県県民文化会館大ホール、青森市文化会館、岩手県民会館、横浜アリーナ[17]釧路市民文化会館旭川市民文化会館、富山オーバードホール、大阪城ホール[18]、名古屋・日本ガイシホール(旧・名古屋市総合体育館レインボーホール)[19]、国立代々木競技場第一体育館[20]、鹿児島市民文化ホール第一、宜野湾市海浜公園屋外劇場、広島グリーンアリーナ、ホットハウススーパーアリーナ(旧グランディ21)、朱鷺メッセ・新潟コンペディションセンター、京都会館第一ホール、さぬき市野外音楽広場・テアトロン、栃木県総合文化センター・メインホール、山梨県立県民文化ホール・大ホール、真駒内セキスイハイム・アイスアリーナ(旧・真駒内アイスアリーナ)、岡山市民会館、日本武道館[21]、愛媛県民文化会館メインホール  

脚注

  1. ^ 東京公演として。
  2. ^ 1991年12月に2公演、1992年に1公演実施。
  3. ^ 最終公演でCHAGE and ASKAがゲスト出演。3人で『SAY YES』を歌う。
  4. ^ 2月に2公演を予定していたが、阪神淡路大震災による倒壊のため中止。その後、1999年6月に新装し、『FUN MORE TIME! FINAL』として改めて行われた(ちなみにこのときのゲストは泉谷しげる)。
  5. ^ この時は4月と5月に2公演ずつ行われた。
  6. ^ 前回のツアー終了後、「次にツアーをやるときには神戸から始めたい」という小田の申し出から実現したもの。
  7. ^ 9月20日の公演が小田の50歳の誕生日ということもあり、アンコールの前にスタッフが用意したバースデーケーキとファンからの「ハッピーバースデー」の大合唱に驚く場面があった。
  8. ^ 12月に2公演、翌年2月に1公演(追加公演として。ライブビデオの収録も行われた)。
  9. ^ 最終公演で、アンコールの最中にカウントダウン・コンサートの開催を発表し、観客を驚かせた。
  10. ^ 明治生命も協賛。
  11. ^ 当日は渋谷の街頭ビジョンにて生中継された。
  12. ^ ソロとしては初の沖縄公演だが、オフコース時代を含めると、1987年9月以来。
  13. ^ 7月、9月、12月にそれぞれ2公演ずつ行われた。
  14. ^ 4月に2公演。
  15. ^ 4月に2公演。
  16. ^ 4月と9月にそれぞれ2公演ずつ。9月20日の小田の誕生日当日にも実施予定。
  17. ^ 1990年以来18年ぶり。5月と8月にそれぞれ2公演ずつ。
  18. ^ 6月と9月にそれぞれ2公演。
  19. ^ 6月と9月にそれぞれ2公演ずつ。
  20. ^ 6月に2公演。
  21. ^ 9月に2公演。

野外コンサート

形態 タイトル 公演規模 公演日程 会場 ゲスト 協賛
1992年 スタジアム MY HOME TOWN
KAZUMASA ODA/FAR EAST CLUB BAND
全3公演 8月25日8月29日-8月30日 阪急西宮スタジアム横浜スタジアム 鈴木雅之(8月29日)、徳永英明(8月30日) 第一生命、三菱自動車
2000年-2001年 カウントダウン ちょっと寒いけどみんなでSAME MOON! 全1公演 12月31日-1月1日 横浜・八景島シーパラダイス特設会場 山本潤子、鈴木雅之、佐橋佳幸 明治生命、日本中央競馬会

他アーティストとのジョイント

チャリテイコンサート

テレビ番組

テレビでの活動

オフコース時代よりテレビというメディアには不信感を抱いており、めったに出演しないことで有名であったが、ソロ活動を始めて以降、ネスカフェCM出演を皮切りに、自身の露出にも関心を持つ。しかしいわゆる普通の音楽番組にはほとんど出演しないことからも分かるように、制作段階から自身の構想や意見を反映できる余地のないオファーは論外のようだ(ネスカフェのCMも、自分の注文が受け入れられたからOKしたと語っている)。

2001年クリスマスの約束』の成功により番組は毎年制作され、ファン層の広がりやCDの売り上げなど、テレビ出演が自身の音楽活動に強く影響することを実感したと思われる。2004年には『クリスマスの約束』の発展形である『風のようにうたが流れていた』を、3ヶ月間毎週放送の自身初TVレギュラー番組として制作。制作に当たっては、時間的制約の中で選曲や練習、観衆の中での本番と、大変な奮闘だったようだが、ここでもまた達成感と共に意識変化があったと見え、「やるかやらないか」の選択時「やらなければ"ゼロ"、やれば"何か"が残る」と、積極的なコメントが聞かれるようになった。2005年には17年ぶりに企業CM出演の依頼も引き受けた。

2005年末に一部で、NHK紅白歌合戦より出演依頼を受けているとの噂が流れた。小田和正やオフコースの曲が、同年新企画の視聴者アンケート「スキウタ」上位にランクインしたためである。ファンの間では賛否両論あったが、結局出演することはなかった。小田自身はこの番組に対しコンサートで「大きな偏見を持っている」と話している。

クリスマスの約束

  • 2001年、「他にはない音楽番組を」というTBSの提案により、TBS系列の番組『クリスマスの約束』が制作された。日本の音楽シーンを代表し、かつ小田和正自身が歌いたいと思う楽曲7曲を独自に選出し、そのアーティスト達に自筆の手紙を書くところから始まった。長年確執があると言われてきた山下達郎をはじめ、SMAPサザンオールスターズ松任谷由実宇多田ヒカル福山雅治Mr.Childrenといった有名アーティスト本人に直接出演依頼し、一緒に歌いたい・新たな音楽番組を作りたいと呼びかけた。しかしそれぞれの都合で、全てのアーティストが出演辞退。一組のゲスト出演も叶わず、TBSは不承不承、本人は気持ちを切替え「一人でやってみせる」との意気込みで、一夜のスペシャルライブが東京ベイNKホールで開かれ、制作過程のドキュメントシーンを織り交ぜ12月25日深夜に放送された。山下達郎からの丁重な断りの手紙を読み上げ、彼の代表曲『クリスマス・イブ』を歌うシーンが最大の山場となった。福山雅治よりの辞退の手紙や、宇多田ヒカルが辞退の挨拶のため小田の元を訪れたというエピソードも紹介された。また、番組のテーマ曲制作のため、山本潤子加藤いづみ財津和夫CHAGE and ASKA、鈴木雅之、佐藤竹善など普段から親交の深いアーティストや、コブクロKiroroなど小田が気になる若手アーティストらに協力を呼びかけ、これに応えた21組のアーティストにより、『この日のこと』(作詞・作曲:小田和正)が生まれた(未CD化)。それまでほとんど「自分の曲」しか歌わなかった小田和正が、他人の曲を、自身の世界に引き寄せつつも、アーティストに敬意を表して懸命に丁寧に歌う姿が人々の心を捉え、事前の番組宣伝がほとんど無いままでの深夜枠の放送であったにもかかわらず、感動の声がTBSに多数寄せられた。(リクエストに応え、2002年2月16日(土)14:00~ 「完全版」として再放送された)
  • 2002年は、当初からゲストなしの企画。自身で選曲した中島みゆき吉田拓郎椎名林檎などの曲を歌った。前年の放送後まもなく届いたという桜井和寿よりの手紙を読み、Mr.Childrenの『HERO』を歌う場面が山場であった。12月25日深夜に放送。
  • 2003年でようやく念願が叶ってゲストとのコラボレーションが実現。ゲストはゆず財津和夫スターダスト・レビュー根本要Mr.Children桜井和寿アーティストはどんな曲が好きなのかとのアンケートを取り、その結果を選曲やゲスト招聘の参考とした。またこの年は、ゆずとのコラボレーション(共同制作)曲『クリスマスの約束』が披露された(CD化の詳細はコラボレーションの項を参照されたし)。初回以来この年まで、収録場所は東京ベイNKホールが定着し、山下達郎の『クリスマス・イブ』も歌い続けた。
  • 2004年には初のレギュラー番組としてTBS系列で『風のようにうたが流れていた』(全11回)をオンエア。この年の『クリスマスの約束』は『風のようにうたが流れていた』の総集編となった。
  • 2005年は、同年の小田和正の全国ツアー「大好きな君に」を基本にしたセットリストで、さいたまスーパーアリーナでライブ収録して編集、放送された。ツアー中に各会場でゲストとして登場したムッシュかまやつ松たか子財津和夫根本要ゆずスキマスイッチ星野仙一らの映像が流された他、当日唯一のゲストとしてSMAP中居正広が出演、二人で『夜空ノムコウ』を歌った。12月25日が連休の最終日に当たったためか12月22日深夜に放送。
  • 2006年は、「メッセージ」というテーマが決められ、いきものがかり松たか子斉藤哲夫スキマスイッチ、4組のゲストとの共演が番組構成のメインとなった。放送では、ゲスト達が持ち歌を歌い、小田が伴奏・コーラスをするという場面も多く、これまでの「小田が孤高に他アーティストの曲を歌う番組」という印象とは変化が見られた。12月28日深夜に放送。
  • 2007年は、宮沢和史さだまさしくるり矢井田瞳佐野元春と過去最多となる5組のゲストとの共演と、さだ、矢井田とのコラボレーション、小田の母校である聖光学院弦楽オーケストラ部、早稲田大学グリークラブとの共演が中心となった。前年同様、ゲスト達が持ち歌を歌い、小田が伴奏・コーラスをするという場面も多く見受けられた。この年は2004年以来となる12月25日深夜に放送された。

ドキュメンタリー制作

彼が制作したドキュメンタリーは好評を博し、プロゴルファー青木功のキャディをつとめた時のドキュメンタリー『キャディ』(1994年、テレビ東京系)や、チャリティライブ制作のドキュメンタリー『日本をすくえ』(1994年、テレビ朝日系)は話題となる。

主な出演番組

ファンを公言する小宮悦子によるロングインタビュー(小宮のテレビ朝日退社後、フリーとしての初仕事となった)がメイン。その他、映画「いつか どこかで」監督風景や、Far East Club Band リハーサル・ライブの映像(インタビュー以外は、後述の「音楽達人倶楽部」で放送されたものとほぼ同一)。

CM

本人出演

  • 1988年 曲:『goodtimes & badtimes』
  • 1989年 曲:『Little Tokyo』
  • 1989年 曲:『君にMerry Xmas』〈クリスマス2日間限定〉
  • 1991年 曲:『Oh! Yeah!』
  • 1992年 曲:『my home town』

楽曲提供

  • 1986年 『哀しみを、そのまま』(野球編・ラグビー編=野球編は小田自身の演出)
  • 1988年 『僕の贈りもの』(卒業編)
  • 1990年 『恋は大騒ぎ』(仲直り編・床屋編=小田自身も出演。仲直り編は小田自身の企画、演出による)
  • 1991年 『いつか どこかで』(小田が提供した映画『いつか どこかで』の撮影風景を使用)
  • 1991年 『風と君を待つだけ』
  • 1993年 『だからブルーにならないで』
  • 1993年 『風の坂道』
  • 1993年 『またたく星に願いを』
  • 1997年 『風のように』
  • 1999年 『こんな日だったね』
  • JRAブランドCM
  • 2000年 『woh woh』、『19の頃』
  • 2001年 『風の街』
  • 2004年 - 『たしかなこと』
  • 2003年 『大好きな君に』
  • 2006年3月 - 6月 オリジナル新曲
  • 2006年 『大好きな君に』

その他の楽曲

映像作品

ライブ映像

テレビ番組

監督映画

関連書籍

  • Time can't wait (小田和正 著、1990年初版、朝日新聞社
  • キャディ (小田和正 著、1994年初版、スタジオシップ
  • YES-NO 小田和正ヒストリー (小貫信昭 著、1998年初版、角川書店
  • たしかなこと (インタビュアー/著 小貫信昭、2005年初版、ソニー・マガジンズ
  • 小田和正歌詞集 風うた~恋~(小田和正 著/、2006年初版、主婦と生活社
  • 小田和正全詞集 大切なことば (小田和正 著/、2007年初版、ジービー

関連項目

関連人物

楽曲のプロデュースを担当

「クリスマスの約束」「風のようにうたが流れていた」で共演

外部リンク