北海道日本ハムファイターズ/log20230528
北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。北海道を保護地域とし、札幌市豊平区にある札幌ドームを専用球場(本拠地)としている。この他函館市千代台公園野球場(オーシャンスタジアム)、旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場(スタルヒン球場)、帯広の森野球場、釧路市民球場など北海道内の野球場と、2003年まで専用球場としていた東京都文京区にある東京ドームでも主催公式戦を開催している。なお、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズスタジアムである。
北海道日本ハムファイターズ | |
---|---|
会社名 | 株式会社北海道日本ハムファイターズ |
創設 | 1946年(一軍)、1948年(二軍) |
今シーズン | |
![]() | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ(一軍)、イースタン・リーグ(二軍) | |
歴代チーム名 | |
(一軍) セネタース(1946年) →東急フライヤーズ(1947年) →急映フライヤーズ(1948年) →東急フライヤーズ(1949年 - 1953年) →東映フライヤーズ(1954年 - 1972年) →日拓ホームフライヤーズ(1973年) →日本ハムファイターズ(1974年 - 2003年) →北海道日本ハムファイターズ(2004年 - ) (二軍) 急映チックフライヤーズ(1948年) →東急チックフライヤーズ(1949年 - 1953年) →東映チックフライヤーズ(1954年 - 1955年) →(リーグ中断のため不明) →東映フライヤーズ(1961年 - 1972年) →日拓ホームフライヤーズ(1973年) →日本ハムファイターズ(1974年 - 2003年) →北海道日本ハムファイターズ(2004年 - ) | |
本拠地 | |
札幌ドーム(一軍)、ファイターズスタジアム(二軍 千葉県) | |
収容人員 | 40,572人(札幌ドーム。固定客席数) |
東京都(1952年 - 2003年)→北海道(2004年 - ) | |
獲得タイトル | |
成績(タイトル以外) | |
クライマックスシリーズ出場 | |
1回 - 1勝(太字は勝利した年) 2007 | |
プレーオフ出場 | |
4回 - 2勝2敗(太字は勝利した年) 1981、1982、2004、2006 | |
球団組織 | |
オーナー | 大社啓二 |
運営母体 | 日本ハム |
監督 | 梨田昌孝 |
球団の歴史
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/TokyoDome8946.jpg/300px-TokyoDome8946.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/SapporoDome2004-2.jpg/300px-SapporoDome2004-2.jpg)
セネタース・東急時代
- 戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規にセネタース(法人名:セネタース野球協会)を設立。
- 大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、個人で立ち上げた球団だったため財政的に非常に厳しく、ユニフォームなど戦前の阪急のお下がりという状態だった。
- 旧華族の西園寺公一(西園寺公望の孫)をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り横沢は球団経営を諦めざるを得なくなった。
- なお、東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と呼称している。これは東京ジャイアンツが「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため(ただし、阪神においては、公式な愛称としては定着しなかったが、現在の打線のネーミングは「猛虎打線」である)、定着しなかった(参照)。
- 1月7日、東京急行電鉄にチームを売却。球団権利金24万円を合わせ合計35万円であったという(大川博著書・真剣勝負に生きるp77)。東急ベースボール倶楽部が発足し、チーム名を東急フライヤーズ(とうきゅう-)とした。当時の東急はまだ大東急の時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。専務の大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が球界屈指の人気選手となり多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。
- プロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し、大塚アスレチックスと幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映球団が経営に参加し球団名を東急大映野球、チーム名を急映フライヤーズ(きゅうえい-)に改称。しかし大映は金星スターズを別途買収する事が決まり(詳しくは大映ユニオンズの項目を参照)、フライヤーズの運営から手を引き球団名およびチーム名は1年で元に戻った。
- 2軍チームの名称「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックスのチックを絡ませた名称だった。
- シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。
東映・日拓ホーム時代
- 2月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。東映は子会社の東映興業に球団を移管。チーム名を東映フライヤーズ(とうえい-)に、法人名を東映フライヤーズ野球団にそれぞれ変更。1972年まで19年間続いた(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。
- 水原茂が巨人の監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋を呼ぶ。水原とは飲み友達であった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで大川にも可愛がられていた。この招聘工作から俊藤は東映に深く食い込んでいく。
- 東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることを受け、新宿区の明治神宮野球場に本拠地を移転(当時は学生野球優先がまだ残っていたことから、週末など日中に学生野球がある時は後楽園など他の球場を借りた)。同年、水原監督の下で土橋正幸、尾崎行雄の両エースが大車輪の活躍をし、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを破り念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。
- 名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任し、岡田の盟友で球団所有権を有する五島昇東急社長(強盗慶太の異名を取った五島慶太の長男。大川とは不仲とされた)と共に、大川色が強く不採算だった球団を手放した。
- 2月7日に岡田・五島共通の知人で、首都圏で不動産産業展開する西村昭孝経営の日拓ホームに身売り。チーム名は日拓ホームフライヤーズ(にったく-)に改称。西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発(後述)するなどして、球団運営にあらゆる新機軸を試みたが、結局不発に終わる。パ・リーグに将来は無いと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差し球団経営を放棄。同年終了後わずか1シーズンで日本ハムに身売りした。なお、球団売却後の1976年に日拓ホームはパチンコに進出した。
日本ハム(東京)時代
後楽園時代
- 11月19日に日本ハムに売却。チーム名は日本ハムファイターズ(にっぽん - )、法人名は日本ハム球団株式会社になり、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任、「フライヤーズ」のニックネームは27年で消滅した。
- この当時のフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場。それ故に日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(その当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくは無かった)という原則があった。但し、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。そういった事で、日本ハムはプロ野球界におけるファンクラブの先駆け的な存在として他の10球団(当時は巨人・中日にファンクラブが存在しなかった)の模範となっている。同時に日本プロ野球界初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場。
- 張本勲が7度目の首位打者獲得。
- 前・後期共に4位ながら、総合最下位に終わる。高橋直樹が17勝。
- 中西監督が辞任し、大沢啓二が監督就任。
- 高橋直樹が20勝。島田が1回3盗塁をはじめ、55盗塁を記録。
80年代はパリーグで突出した活躍をしたエースが多く、津野浩(80年代中期に2桁勝利を含むチーム勝ち頭を数年記録し、開幕投手を務める)、柴田保光(技巧派でオールスター3度出場し1990年にはノーヒットノーラン記録)といった投手が活躍。 1980年
- 新人の木田勇が22勝(8敗)で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。
- オフには広島とのトレードで高橋直樹を放出し、優勝請負人・江夏豊を獲得。
- 後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを破り、東映時代から数えて通算2度目のリーグ優勝。巨人との日本シリーズ、通称「後楽園決戦」では、トミー・クルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。
- 打撃陣ではクルーズの他、柏原純一、トニー・ソレイタらの活躍が光った。また同年の優勝メンバーは島田、菅野、高代といった小兵選手が多かったのも特徴であった。
- 間柴が15勝無敗。ソレイタが本塁打・打点の2冠王。岡部が防御率1位。江夏がセーブ王。柏原がプレーオフMVP。
- 後期優勝も、プレーオフで前期優勝の西武に敗れ、2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望と見られていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。
- 工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。
- 1シーズン制元年。二村が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。
- 植村義信が監督に就任するも、最下位に低迷するなど、成績不振のため途中解任。終盤は大沢が代行した。
- 高田繁が監督就任。
東京ドーム時代
1988 - 2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎や柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」といったイベントなどを打ち出す。
- 東京ドーム元年。西崎、松浦宏明が最多勝。河野が防御率1位。
- 高田監督が辞任し、近藤貞雄が就任。
- 白井一幸が最高出塁率。武田一浩が最優秀救援投手。
- 東映時代のエース・土橋正幸が監督就任。
- 大沢が監督復帰。リーグ2位。広瀬が初のベストナインに選出される。
- リーグ最下位。最終戦には東京ドームのマウンド上で大沢監督自ら土下座でファンに謝罪した。
- 上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養、チームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。
- グロスが最多勝、金子誠が新人王、島崎が最多ホールドを獲得。
- 落合博満を獲得、リーグ4位。
- ナイジェル・ウィルソンが本塁打王。
- 球団史上唯一のファーム日本選手権制覇。(同試合に「9番遊撃」でフルイニング出場の城石憲之は翌春ヤクルトスワローズへ野口寿浩とトレード)
- ウィルソン、ジェリー・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦、小笠原を擁してビッグバン打線と呼ばれた。前半戦は首位だったが、西武に大逆転され優勝を逃した。落合が引退。
- ウィルソンが本塁打・打点王。金村が防御率1位。片岡が最高出塁率。
- 小笠原が1塁コンバート、「史上最強の2番打者」として活躍。
- 上田が辞任し、大島康徳が監督就任。小笠原が最多安打。強力打線で優勝争いに加わるもホークス、ライオンズに破れ3位に終わる。
- 小笠原が最多安打。リーグ最下位。
- 観客増を図るため、それまでプロ野球球団がなかった北海道の札幌市に本拠地を移す構想が、3月20日刊の北海道新聞でトップ記事になる。
- 東京のファンや、同市の準本拠化を計画していた西武ライオンズからの反発もあったが、他球団の公式戦試合も開催するという条件を付けて、移転を受諾させた。
- 小笠原が首位打者を獲得。正田が球団では金子以来の新人王。チームは5位に終わる。
北海道日本ハム時代
- 本拠地を札幌ドームに移転。チーム名も北海道日本ハムファイターズとし、地域に密着したチーム作りを目指す。既存の球団会社(日本ハム球団株式会社)は新会社(株式会社北海道日本ハムファイターズ、2003年8月設立)へ球団運営権を譲渡し、旧会社は特別清算手続きをとっている。
- 同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ(上位3チームが進出する、リーグ優勝を懸けたトーナメント)出場を、千葉ロッテマリーンズとシーズン終盤まで争い、9月24日のオリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決めた(4位ロッテとは0.5ゲーム差)。
- セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横山が28セーブで最多セーブ。
- 4月18日、SHINJOが2006年限りでの引退を発表。
- セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の東京ヤクルト戦から、7月7日の西武戦まで、45年ぶりとなる11連勝(当時の球団最多タイ)を記録。
- 西武・福岡ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップ。ソフトバンクにはダイエー時代から含めると9年ぶりの勝ち越し、オリックス、東北楽天にはそれぞれ17勝3敗と完全にカモにした。
- 10月12日、プレーオフ第2ステージ(対・ソフトバンク)を2連勝で制し、25年ぶりのリーグ優勝。
- 10月26日、中日ドラゴンズとの日本シリーズに4勝1敗の戦績で44年ぶりの(「ファイターズ」として初の)日本一。
- 11月、かつての本拠地・東京ドームで行われたアジアシリーズでも優勝を飾り、アジア王者となる。
- 小笠原が本塁打・打点の2冠王(打点は西武・カブレラと同数)。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。八木が12勝で新人王。
- 5月17日、田中幸雄が通算2000本安打を達成。新人時代から同一球団での2000本安打は、日本ハム史上初。
- 6月8日、5月19日の福岡ソフトバンクホークス戦から、交流戦を挿み6月8日の東京ヤクルトスワローズ戦まで、1961年と2006年の連勝記録を大きく塗り替える、球団史上最多の14連勝を記録。
- 6月23日、阪神甲子園球場での阪神戦を制し、18勝5敗で日本生命プロ野球セ・パ交流戦初優勝を決めた。グリンが5勝0敗で交流戦MVPを獲得。
- 9月7日、長年、日本ハム一筋でプレイをしてきた田中幸雄が引退表明。
- 9月8日、トレイ・ヒルマン監督が今季限りでの退任を表明。後任は梨田昌孝元近鉄監督。
- 9月19日、この年から導入された「クライマックスシリーズ」の出場権を最初に獲得。
- 9月28日、西武戦に勝利し、西武に対して20年ぶりの勝ち越しを決める。
- 9月29日、球団初のリーグ2連覇を達成。
- 稲葉が自己最高の打率.334、176安打で首位打者、最多安打の2冠。
- 10月13日 - 18日、クライマックスシリーズ第2ステージでロッテと対戦し、3勝2敗でクライマックスシリーズを制し、2年連続で日本シリーズ出場を決めるも、1勝4敗で敗退、連覇はならなかった。高田GMが退団、後任は山田正雄シニアディレクター。
チームの特徴
- 札幌ドーム公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、午後7時半以降は一律子供料金の「730チケット」を発売している。これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら!超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。その結果、札幌ドームではオープン戦や消化試合でもレフトスタンドが常に満員になるようになった。本来ビジターチームの応援席であるライトスタンドもセンター寄りを中心に日本ハムファンで占められるようになり、いつしか、ビジター応援席を除く、ほぼ球場全体が日本ハムファンで埋められるようになった。しかし、阪神戦ではライトスタンドや、ライト側の内野席もほぼ阪神ファンで埋められるため、普段日ハムファンで埋められるライトスタンドの一部や、ライト側の内野席には、ほとんど日ハムファンはいない。2005年には、93年以来の100万人を突破しており、ソフトバンクに次いでリーグ2位とされる観客動員を誇る。
- 球団史上、チームの生え抜き監督は大下弘と土橋正幸の2人しかいない。ただし大下は後に西鉄ライオンズで活躍し、土橋も日本ハム監督就任以前にヤクルトの監督を務めているので、東急・東映・日拓時代を含め、生涯このチームでプレーして監督になった例は、まだない。
- 歴代の4番打者も他球団から移籍した選手が多い。小田義人〔ヤクルト〕、柏原純一〔南海〕、落合博満〔巨人〕、外国人では2000年のナイジェル・ウィルソン、1999年・2004年のシャーマン・オバンドー、2004年から2007年まで、4番に座っていたフェルナンド・セギノールなどである。80年以降、半シーズン以上定着した生え抜きの4番打者は古屋英夫、田中幸雄のみである。
- 他球団からトレード、または戦力外となり移籍してきた選手には、日本ハムに来てから下馬評以上に活躍した者が多い。70年代にはロッテから移籍した野村収、巨人から移籍した高橋一三、大洋から移籍した間柴茂有がおり、84年には西武から柴田保光が移籍して活躍した。近年では1998 - 2002年の野口寿浩、2004年の横山道哉、2006年の岡島秀樹、2004 - 2007年のフェルナンド・セギノール(元オリックスブルーウェーブ)が好例。現在活躍中の選手としては稲葉篤紀(元ヤクルトスワローズ)、坪井智哉(元阪神タイガース)がこれにあたる。特に古いファンには、V9巨人を一時期エースとして支えた高橋一三が故障を抱えたまま巨人から移籍し、81年に日本ハムが優勝した際に再生して中心選手として活躍したことが印象に強いだろう。
- 一方で、FA宣言の選手の獲得は、若手の育成を優先するチーム方針や高年俸などがネックになり、消極的であったとされるが、稲葉篤紀はFAで獲得している。ただし稲葉も当初は大リーグ入りを目指したものの、応じる球団がなく断念し、国内で唯一オファーがあった日本ハムに移籍し、活躍した。
- 数多くのタイトルホルダーを生んでいるが、現在に至るまで唯一盗塁王は球団史上一人も輩出していない。張本勲・島田誠はかつてともに通算300盗塁を記録したが、広瀬叔功や福本豊がタイトルを保持し続けた期間が長くタイトルを取れなかった。ちなみに大下剛史は、広島移籍後の1975年に盗塁王となった。
- 1990年代以来、「ビッグバン打線」を中心とした超攻撃型チームであり、投手陣に弱点を抱えていたが、06年には、ダルビッシュ有・八木智哉・武田久・マイケル中村・岡島秀樹ら投手陣がシーズンを通して大車輪の活躍を見せ、小笠原道大・フェルナンド・セギノール・稲葉篤紀を中心とした元来の長打力に加え、「犠打で送り、ヒットで確実に1点を入れる」いわゆるスモールベースボールも導入。「究極の和洋折衷型野球」(命名・球団OB岩本勉)となって実を結び、日本一を成し遂げた。07シーズンには長打力と打率が著しく低下したが、今度は犠打やエンドラン、積極走塁を複雑に絡めた「高度なスモールベースボール」で長打力の低下を補い、再びリーグ優勝を果たした。
- 選手同士仲がよく、選手とファンの距離も非常に近く、移籍当時の坪井智哉はこれを「アットホームすぎる」と表現した。このチームカラーは多摩川時代から確立されており、整備が整っておらず自ずと選手とファンの距離が近くなる(選手の着替えがファンから丸見えとなるほどであった)環境が生んだ伝統とも言える。[1]
- 2004年のドラフト会議でイラン系のダルビッシュ有、日本とオーストラリアの二重国籍であるマイケル中村を獲得したのを始め、2005年には台湾人留学生の陽仲壽、2006年にはインド系のダース・ローマシュ匡、過去にも韓国系日本人の森本稀哲・岩本勉を獲得するなど、国際色豊かなチームである。
東京時代
- 戦前の東京セネタースとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。ただし、セネタース・東急時代の項目にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。
- 1947年-1973年に使われた愛称「フライヤーズ」は鳥の英語表現から取った愛称だが、東京急行の「急行」の意も含むという説がある。ちなみに水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。「フライヤーズ」の商標は現在も東映が保有しており、2007年現在は東映アニメーションの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使用されている[2]。サイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使用されていた。また1974年から使われている「ファイターズ」は「闘士」の英語から取った。略号は「Fs」。
- 1962年にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神タイガースを破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。
- 後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、都市対抗野球による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神タイガースのいわゆる「死のロード(遠征)」に匹敵するものだった。特に、8月は子供が夏休みであるため家族連れが多く来る稼ぎ時として、巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた。こうした経緯から同じ東京ドームを本拠地としていた、巨人ファンへの対抗心は強い。
札幌時代
- 2004年、専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からJリーグのコンサドーレ札幌がホームスタジアムとして使用していた(札幌厚別公園競技場と併用)。サッカークラブとプロ野球チームが同じ専用球場を使用する事例は日本はもとよりも、世界初のケースで(アメリカではメジャーリーグとアメリカンフットボール・NFLの本拠地を共有する事例がある)、球団事務所もそれぞれ札幌ドーム内に併設されている。2006年には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。
- 札幌ドームでは3塁側ベンチに座っている。これは施設のレイアウト面やアクセス面で3塁側の方が便利であることやスコアボードとして使用されている電光掲示板がライトスタンド上方にあり、3塁側・レフト側からの方が見易いといった事情から。ホームチームが3塁側ベンチに座るようになったのは日本では日本ハムが初である(東京ドーム等の他球場で主催試合を行う時は1塁側ベンチに座っている)。
- ファイターズはニューヨーク・ヤンキースとの交流やアリゾナ・ダイヤモンドバックス、サンディエゴ・パドレスと業務提携など、比較的多くの外部接触を持っている。地元・北海道との関係についても、積極的な球団として知られている。北海道という広大な土地で、球団に親しんでもらおうという球団の意志の現れと捉えるべきであろう。その成果もあってか球場動員数は徐々に上昇傾向にある。ちなみに、ファイターズの球場外での活動としては以下のようなものが挙げられる。
- YOSAKOIソーラン祭り等の地域文化活動への参加
- OB、北海道出身選手による毎週末のコーチングキャラバン
- B.Bイベント出張
- ファンから年賀状を一般募集、選手と食事会
- 選手達の学校訪問
- 練習施設の一般公開
- HNFベースボール・クラブ(オフシーズン中に行う、中学3年を対象にした週1回の野球塾)
- オフィシャルショップ、レストラン建設
- 「旬感!北海道」という道中のJAと連携し、北海道の農産物をお取り寄せ、農家に還元というサイトを球団に設置
- 優勝したお礼行脚として、道内各地で選手のトークショーを開催(2006年)
- 先述の「なまら!チケット」等の道民優遇特典
- ファイターズガールがJR帯広駅東コンコース特設会場でダンスパフォーマンス、記念撮影。またみどりの窓口と改札担当係員は、日本ハムのユニフォームを着て接客
- また、東京時代にも先述のように公式ファンクラブを初めて設置、ギョロタンを着ぐるみにしたり、選手を野球以外でのメディア出演と色々新しい試みをしていた球団でもあり、自由なチームカラーがあると思われており、わずか3年でレフトスタンドをあふれ返す程の動員を達成したことから、他球団からの視察、真似た者も多い。例えば東北楽天ゴールデンイーグルスも「730チケット」に倣ったチケット「おばんですチケット」を販売、西武は「740チケット」、「なまら!超割チケット」に倣った、所沢市民応援デーを実施している。
チームのスローガン
- 2004年:「New Home,New Identity,New Dreams.」
- 2005年:「Faith,Hope,Love The Game」
- 2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong!」
- 2007年:「Focus,Advance,Nexus Spirit」
- 2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」~F・A・N・S '08~
応援スタイル
1980年代前半のまだトランペット使用でない頃の応援スタイルは、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(ちなみにこのスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承)。
現在の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがある。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB.Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風で覚えやすく、スタンドでも踊りやすい。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。鳴子は、札幌ドームや北海道内のローソン、ジャスコ等で入手する場合が多いようである。なお「Go! Go! ファイターズ」の歌い手は「ミスターYOSAKOIソーラン」こと宮本毅。
現在の札幌ドーム、以前の東京ドームとジェット風船を禁止している球場を本拠地としているため、ビジターや地方球場の試合で風船を飛ばすファンは少ない。
なお、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」も引き続き歌われている。歌い手としてはささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。2007年からは速水の再録音バージョンを使用。
応援スタイルは各選手別応援歌を歌う(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う)。2005年からは交流戦に備えて投手用の応援歌ができた。原則的には1回目は演奏なしでアカペラだが、森本稀哲などファンファーレのある場合はそれに続けて演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後トランペット応援が始まる選手もいる。非公式ではあるが、一部の選手には応援歌に合わせたアクションをすることもある。札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには「北の国から」得点が入った時のテーマが「お~い、北海道」など地元をイメージした応援歌になっている。ただし、東京ドームのみ、基本的に移転前のスタイルが継続されている。
相手投手がノックアウトで降板するときは「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌っている(ホームゲームのみ)。 東京時代では海援隊の贈る言葉を応援団が演奏する。札幌移転後も旧来の形としてビジターゲームで演奏する時がある。
札幌・東京ドームの試合では、稲葉篤紀の場合のみ入場曲(クイーンの"I WAS BORN TO LOVE YOU")が流れているときは応援バットを上に掲げ振り回す。さらに稲葉がチャンス時に打席に立つとファンファーレに乗ってジャンプして応援するが、その時に起こる振動でバックスクリーンに設置されたカメラが揺れて、テレビに映る映像も揺れる(札幌ドームのみ)ため、実況アナウンサーが「これはテレビが壊れたのではありません。球場が揺れているんです!」と言ったことがある(日本シリーズなどではチャンスで無いときもファンがジャンプしたりしていた)。ジャンプ自体は田中幸雄等の応援でも行われていたが、その場合もやはり大きなゆれを起こした。この揺れは、最大で震度3相当、78.5dbほどになる。このことから通称「稲葉ジャンプ」とも呼ばれている。
稲田直人の打席(ホームゲーム)では、登場曲の超!(DJ OZMA)に合わせて、肩を組み、左右交互に揺れるイナダンスが定着している。
試合後、日本ハムが勝利した場合に電光掲示板のカウントダウンともにスタンド最上段から銀色の紙テープ(2007年からは金色に変更)「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」時は銀色と青色の2色)がバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う。移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかること、野球・サッカーの共用スタジアムという性質上の問題などから2005年に廃止された。しかし勝利セレモニー復活の希望が多かったため、清掃しやすい現在のスタイルになった(札幌ドームのみ)。
2007年からは森本の打席で緑色のマイク型風船を使って応援するようになった。これは森本本人がヒーローインタビューで歌ったりするなどマイクパフォーマンスに長けていることからファンの有志が考案したものが広まったものである。札幌ドームの近所のファンが集まる居酒屋にて5000個作成され販売されたものである。
金子誠の打席では新撰組の「誠」の隊旗や法被が応援に使用されている。
かつて小笠原の打席ではイルカの風船、セギノールの打席ではバナナの風船やぬいぐるみを使って応援していた。
ファイターズガール(公式チアガール)のレプリカユニフォームを球団が販売している。ファイターズガールのユニフォームに似せた服を娘に着せて応援していた、ある家族連れの姿が、グッズとしてのレプリカユニフォームを製作するきっかけになったとされる。
2006年から、7回の表には各球団を揶揄した映像を流している。以下は一例であり、ここに挙げたもの以外の映像が流れたこともある。ただし2008年シーズンは今のところこのような映像は流されていない。
-
- ライオンが猫になる(2006年版)。
- 伊東監督(当時)が百獣の王ライオンになろうとしたら、顔がミスタードーナツのポン・デ・ライオンのような風貌になってしまい、「熊出没注意」ならぬ「獅子出没注意」が画面に出てくる(2007年版)。
- ライオンが北海道の食べものを次々と食べていくが、最後に「ハム食い忘れた!」という。
- 飛んでいる鷹がいつの間にかB.Bが持っている鳥かごに入ってしまう(2006年版)。
- ホークスと同じソフトバンクグループのソフトバンクモバイルのCMのパロディ。松中信彦が架空の選手ホワイトを紹介。何を言っているのかさっぱり分からないホワイトに和田毅が身長を尋ねると、190cmと答え、和田も「セリフ違うぞ!月980円とか言わないと…」と返す。そのホワイトの正体はファイターズのグリンで、最後に王監督が首を引っ込める(2007年版)。
- ハリー・ホーク風のキャラクターが主人公の某アクションゲーム風の画面。パ・リーグ4球団を模した敵キャラや障害を乗り越え、最後に上げたチャンピオンフラッグにはファイターズの旗がついていた(2007年版)。
- 白いカモメを黒く塗ってカラスにしてしまう(2006年版)。
- 白いカモメがみずから北海道へ飛んでいってしまい、「やっぱ、北の大地は最高だわ~」と言う(2006年版)。
- 白いカモメの群れが飛ぶ中でソーラン節の歌詞が出て、「打倒ガム」「日ハム丸」の文字が入った大漁旗が出る(2007年版)。
- マリーンズやロッテの製品に関するカルトクイズ。3問出題され、全問正解者には「あなたは立派なマリーンズファンです」と持ち上げるが、1問でも間違えたら「ファイターズファンになりましょう」と勧誘する(2007年版)。
- 千葉県名物の落花生を引き合いに出し、「落下傘にならないよう注意してください」とのオチ。(2007年版)。
- マリーンズの開幕戦ポスターのハム入り大型ハンバーガーに「でも食べ残してますよ…」とツッコミを入れ、「イチバンデ~ス!って言ったのは、うちの監督がイチバンデ~ス!」に対しては「ヘェ~…」と返して、前年の日本一のペナントに対しては「そのフラッグは貸しているだけ。すぐに返していただきます」と要求すると、「返せそうにないですね!」と返す(2007年版)。
-
- 暴走する猛牛がパ・リーグ4球団のマークを突き飛ばすが、ファイターズのマークだけは突き飛ばせない(2006年版)。
- 牛同士が囲碁で勝負するが、盤面に日本ハム側の白い石でファイターズの「F」という文字が浮かぶ(2007年版)。
- 牛が落語家「猛牛亭牛スジ」としてコリンズ監督に関した小噺(ユウコリンとの関係)を披露するが、ウケずに終わる(2007年版)。
- 野村監督が流鏑馬でファイターズのマークを射るが、外してしまう(2006年版)。
- 野村監督が居眠りをして胴上げされる夢を見るが、実際はヒルマン監督(当時)が胴上げされている(2006年版。この年はファイターズが優勝したため、最終的に正夢になった)。
- 武田勝等のシダックス野球部出身者が野村監督のお礼参りで楽天戦で大活躍、今日も活躍することで野村監督に恩返し(2006年版)。
- 野村監督が嶋基宏に「キャッチャーは、ささやき戦術で相手バッターを惑わすこともせんとな…」と教えたが、打席に立ったのは日本語が通じないセギノール(当時所属)。当然嶋はどう声を掛けたらいいか分からず、投手へのサインを決められない。しまいには12秒ルールで審判からボールが宣告され、首をかしげる野村監督だった(2007年版)。
- 野村監督が運を天に任せるという発言をしてパチンコ「海物語」風のリーチ画面に。天の文字が3つ揃うが、「走った」という表示で再抽選になりファイターズのマークが揃う(2007年版)。
- 名古屋城のしゃちほこの顔がB.Bになっている(2006年版)。
- 「オレは昔プロを目指してたからな」と落合監督がボウリングでストライクを連発、パーフェクトにリーチがかかる。「勝負の方程式でパーフェクトだ!」とボールを投げるが、ピンを1本残してパーフェクトを逃してしまう。その残ったピンにファイターズのマークが描かれている(2007年版)。
- 紙相撲でタイガースとファイターズのマークを付けた力士が戦い、ファイターズが勝利、ファイターズのマークが付いた座布団が舞う(2006年版)。
- B.Bとトラッキーのパペットが札幌ドーム前でタカアンドトシ風の漫才をする(トラッキーがタカ、B.Bがトシ役)。しばらくすると札幌ドーム付近に激しい揺れが起こり、地震かと思ったら「稲葉ジャンプ」をするファンが震源だったので、2人で「稲葉か!」と突っ込む(2007年版)。
- 東京音頭に合わせ、たくさんの傘が上下に踊る画像が流れ、それらを上から見た画像がズームアウトすると"FIGHTERS"の文字が見える(2006年版)。
- 北海道の地名の読み方クイズで、LEVEL1「占冠(しむかっぷ)」→LEVEL2「興部(おこっぺ)」→LEVEL3「花畔(ばんなぐろ)」と出題される。そして、「どうでした?」→「ゲーム中の考えすぎには注意してください」→「最後に勝つのはファイターズ」と結ぶ(2007年版)。
- インベーダーゲームに似た映像が流れ、B.BがUFOから発射した弾で自機がやられてゲームオーバーになるが、"GAME OVER"の「G」がジャイアンツのロゴの「G」になっている(2006年版)。
- 都市伝説という名の童話・「ウサギとカメ」のパロディ。巨人のキャラクター・ジャビット(ウサギ役)と亀が競争して、独走だったジャビットは余裕綽々で「紳士の身だしなみ」としてひげを剃る(巨人に移籍してヒゲを剃った小笠原道大を意識している可能性もある)が、その間に亀がジャビットを抜いて勝った。「こつこつ最後まで一生懸命歩いたカメ君が先にゴールしました」→「そして、そのカメは羊ヶ丘で札幌ドームになりました」とナレーションが出て、その亀が札幌ドームに変身する。(2007年版)。
- 1塁ベースを投げるブラウン監督の映像を映し、「ベースの行方にご注意ください」というメッセージを流す(2006年版)。
- 鯉が熊に食べられる(2007年版)。
チーム成績・記録
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b1/Hokkaido_Nippon_Ham_Fighters_Ranking.svg/320px-Hokkaido_Nippon_Ham_Fighters_Ranking.svg.png)
- リーグ優勝 4回 (1962年、1981年、2006年、2007年)※
- 日本一 2回 (1962年、2006年)
- アジアチャンピオン 1回 (2006年)
- セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年)
- Aクラス 29回 (1959年、1961年-1967年、1978年-1983年、1987年、1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年、2007年)
- Bクラス 32回 (1946年-1958年、1960年、1968年-1977年、1984年-1986年、1989年-1992年、1994年、1995年、1997年、1999年、2001年-2003年、2005年)
- 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期)
- レギュラーシーズン1位 2回 (2006年、2007年)
- 最長連勝 14連勝 (2007年)
- 最多勝 83勝 (1961年)
- 最多敗 80敗 (1956年)
- 最多引分 13分 (1984年)
- 最高勝率 .642 (1961年)
- 最低勝率 .364 (1955年)
- 連続Aクラス入り 10年 (1961年-1970年)
- 連続Bクラス入り 13年 (1946年-1958年)
※1981年の優勝はロッテとのプレーオフによる。
その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1962年)
- 最大ゲーム差 48.0ゲーム(1956年)
- 最多本塁打 178本(2004年)
- 最小本塁打 40本(1955年)
- 最高打率 .281(2004年)
- 最低打率 .216(1956年)
- 最高防御率 2.39(1961年)
- 最低防御率 4.98(1984年)
- 5者連続本塁打
- プロ野球記録
歴代本拠地
- 1948年-1953年、1962年-1963年の学生野球などで使用できない場合 後楽園球場(※1)
- 1953年-1961年 駒沢球場(※1)
- 1962年-1963年 明治神宮野球場(※2)
- 1964年-1987年 後楽園球場
- 1988年-2003年 東京ドーム
- 2004年- 札幌ドーム
※1 1953年8月まで後楽園球場を使用、同年9月より駒沢球場へ移転。
※2 学生野球などで使用できない場合は後楽園などを使用した。
歴代監督
- 横沢三郎(1946年)※1
- 苅田久徳(1947年-1948年)※2・3
- 井野川利春(1949年-1950年【第1次】)
- 安藤忍(1951年)
- 井野川利春(1952年-1954年【第2次】)※4
- 保井浩一(1955年)
- 岩本義行(1956年-1960年)※5
- 水原茂(1961年-1967年)
- 大下弘(1968年)※6
- 松木謙治郎(1969年-1970年)
- 田宮謙次郎(1970年-1973年)※7
- 土橋正幸(1973年【第1次】)
- 中西太(1974年-1975年)※8
- 大沢啓二(1976年-1983年【第1次】)
- 植村義信(1984年)※9
- 大沢啓二(1984年【第2次】)
- 高田繁(1985年-1988年)
- 近藤貞雄(1989年-1991年)
- 土橋正幸(1992年【第2次】)
- 大沢啓二(1993年-1994年【第3次】)
- 上田利治(1995年-1999年)※10
- 大島康徳(2000年-2002年)
- トレイ・ヒルマン(2003年-2007年)※11・12
- 梨田昌孝(2008年-)
※1 この年のみセネタース
※2 ここから東急フライヤーズ
※3 1948年のみ急映フライヤーズ
※4 ここから東映フライヤーズ
※5 1960年は前半戦まで指揮、残り試合は保井浩一が代行
※6 1968年は8月4日まで指揮、残り試合は飯島滋弥が代行
※7 ここから日拓ホームフライヤーズ
※8 ここから日本ハムファイターズ
※9 1984年は6月26日まで指揮、6月28日までは矢頭高雄が代行
※10 1996年は9月9日まで指揮、残り試合は住友平が代行
※11 ここから北海道日本ハムファイターズ
※12 2005年は7月18日から28日までの6試合を白井一幸が代行
主な出資企業
元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。
ゼネラルパートナー
グランドパートナー
ユニフォームの変遷
ユニフォームの変遷は次の通り。
- 1946年 最初のユニフォームは阪急からのお下がりで、阪急の「H」マークに変わりセネタースの「S」のマークを付けた。
- 1947年 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。現在のビジター用にあたるグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。
- 1948年 - 1949年 大映球団と合併し急映フライヤーズとなる。大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。
- 1949年 球団が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T.K.K」に変更。熊のマスコットが描かれている。
- 1950年 2リーグ分裂を機にロゴを変更。左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。
- 1951年 - 1952年 ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。また、縦縞初が登場。ビジター用は「TOKYO」。1954年に「TOEI」となるがデザインはそのまま。
- 1953年 - 1960年 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。1954年から球団が東映となる。ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。
- 1961年 - 1967年 水原監督就任に伴い、こげ茶とオレンジがチームカラーとなる。ホーム・ビジター両方の左袖には親会社の東映マークに「TOEI」のアルファベット。ビジター用の胸ロゴが「TOKYO」に変更。また、「FLYERS」の字体も一新され、「F」の字には飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという洒落た物であった。
- 1967年 後半戦から、ビジター用ユニフォームが変更。地色が水色で、胸ロゴが「TOEI」となる。
- 1968年 - 1971年 赤とブルーのユニフォームに変更。ロゴが戦後すぐに使われていた筆記体の書体が復活。1969年ロゴの色をマイナーチェンジ。
- 1972年 ニット式ベルトレスユニフォームとなり、前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。帽子はTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく。背番号の書体が英国風丸ゴシックになり、ビジター用のみ選手名がつく。
- 1973年前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来どおりで、帽子のマークがNとFの組み合わせとなり、ビジター用の胸のマークが「NITTAKU HOME」(胸番号が無くなる)と、マイナーチェンジが行われる。
- 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。当時としては画期的であり、太平洋クラブライオンズが同年にビジター用に赤を採用したのと同様に、世間を驚かせた。(後述)
- 1974年前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。帽子のマークとストッキングに丸にnとhを組み合わせたニッポンハムのブランドマークが付く。
- ホーム用はロゴが紺(縁取り:赤)の「Fighters」に変更。背番号、胸番号の書体が丸ゴシック斜体になる。
- ビジター用は鮮やかなスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「Nippon Ham」のナール式(丸)文字を採用、ビジター用には選手名、胸番号は無し。
- 1974年後期 - 1981年 ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用する。基本カラーが青とオレンジに変わり、背番号、胸番号(ホーム用のみ)が角文字になる。途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。
- 1982年 - 1992年 アストロズのレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした派手なデザインに変更。帽子のマークが「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に「TOKYO」の文字の刺繍が入る。
- ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。
- ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。
- 1988年から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなる。
- 1993年 - 2003年 大沢啓二監督復帰により、デザインを一新。12年ぶりにホーム、ビジター用共縦縞が復活し、紺色が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になり、前モデルに比べて随分シックになった。帽子のロゴが「Fs」になる。
- ホーム用は、胸ロゴが左胸に「Fs」、右胸に胸番号がつく。
- ビジター用は上下グレーで、胸ロゴは「NIPPONHAM」で胸番号は左につく。
- 2001年からは親会社の広告が入るようになる。
- 2004年 - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。ユニフォームを一新。帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。また、プロ野球初の左右非対称デザインを採用した。(右肩は地の色と同じだが、左肩が黒)。ホーム、ビジター共に胸番号が消える。帽子のロゴは上から“ボール・七芒星・文字「F」”の順に重なったデザインとなっている。
- 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー)
準永久欠番
- 86 大沢啓二(元監督。球団史上、他者の着用がない)
- ギョロタン
- 球界マスコット第1号。モチーフは太陽。名前の由来は「ギョロ目の舌吉」から。自転車が得意だった。
- ファイトくん
- 翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた姿。動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。
- ファイティー(100):声・椎名へきる(1997年 - 2000年)
- 英語表記は「FIGHTY」。東京ドーム時代の翼竜型のマスコット。初代球団オーナー大社義規がモデルと言われており、背番号も同じ100だった。全球団マスコットの中で唯一ユニフォームの裾を出していた。久保田利伸と日本ハムのウィンナー・シャウエッセンのCMにも出演したことがある。北海道移転後も東京ドームでの主催試合限定で登場していたが、B.Bの普及のため2005年8月17日の東北楽天戦を最後にマスコットとしての役割を卒業。
- ブリスキー・ザ・ベアー (212)
- 英語表記は「BRISKY THE BEAR」。愛称「B.B(ビー・ビー)」。モチーフは熊。背番号212は球団発足当時の北海道の市町村数にちなむ。その後市町村合併により2006年3月31日には180市町村となったが、当面は背番号は現行のまま。但し、「B.B」自体は2004年の北海道移転と同時に誕生の後、2005年、2007年にモデルチェンジを繰り返している。
- カビー・ザ・ベアー
- 英語表記は「CUBBY THE BEAR」。2006年から2軍戦限定で登場。B.Bの弟分。ユニフォームの背中には「C★B」と書かれているが、愛称は「シービー」とは呼ばず「カビー」である。名前の由来は「子供の熊」という意味の英語の「CUB」から。背番号は無いが、B.Bが「一人前になったら(北海道の現市町村数の)180をあげるかもしれない」ことを語っている。3歳のオス熊。最近では東京ドームでの1軍の試合でも登場し、B.Bと共に活躍している。
- ハムリンズ
- 球団マスコットではなく、日本ハム本社のイメージマスコット。会社のキャンペーンで登場することがある。ちなみに登場した際の戦歴は通算8勝1敗と相性がいい。
歴代の球団歌
- 「それゆけ ぼくらのファイターズ」(作詞・作曲:石原美代子、補作詞・補作曲:中村泰士、編曲:高田 弘、歌:ささきいさお)
- 「ファイターズ讃歌」(作詞:石原信一、作曲:中村泰士、編曲:高田 弘、歌:ささきいさお、速水けんたろう)
- 「熱血ファイターズの歌」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- 「熱血ファイターズの歌2002」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- 「輝け未来へ~Hit & Run~」(作詞:門屋陽平・速水けんたろう、作曲:石川寛門・速水けんたろう、編曲:石川寛門、歌:速水けんたろう)
- 「Go! Go! ファイターズ」(作詞・作曲・編曲:大島隆二、歌:宮本毅)
主なキャンプ地
主な出来事
深夜のダブルヘッダー
東急時代の1953年8月9日、後楽園球場での対近鉄・ダブルヘッダーでのこと、17時から開始された第1試合は、延長20回、試合時間は4時間46分におよんだが、結果は4-5で敗戦。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合についてはイニング制限なし、変則ダブルの場合は12回までとなっていた。続く第2試合は22:11に開始されたが、7回の攻撃が終了した時点で当時のナイターの時限であった23:45が過ぎ、コールドゲームで4-4の引き分けとなった。これも深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくても、そのイニングの攻撃完了でコールドとなる当時のルールによるものである。
チーム名が東映に変わった翌1954年10月10日、大阪球場で行われた近鉄戦で、今度は延長23回のパ・リーグ延長イニングス記録を作った。この時は近鉄に0-1のサヨナラ負けを喫している。
また1981年10月10日のプレーオフ・ロッテ戦の第1試合(川崎球場でのビジター、9回5-5の引き分け)では、参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。
現在ではルールが改定されており、ダブルヘッダーの場合、第1試合の終了が20:40を過ぎたら第2試合は行わない取り決めとなっているため、まずこういった記録の更新は難しいと思われる。
日本シリーズ2人のMVP
1962年の日本シリーズで阪神を4勝2敗1分けで下して優勝したが、MVPは異例の2名選出(土橋正幸投手と種茂雅之捕手)となった。この時はMVPの賞品が協賛スポンサーの関係から多くなったことや、両選手のバッテリーの活躍が優勝に大きく影響したのではないかともいわれている。土橋には自動車、種茂には家電製品が分け合えられたという。この「MVP2名選出」はこの年だけだった。
7色のユニフォーム
1973年2月に東映フライヤーズを買収した日拓ホーム。西村昭孝オーナーは、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期リーグで7種類のユニフォームを製作、日替わりで着用するという画期的な試みを行った(ちなみに前期に使用したユニフォームは基本的に東映時代のデザインを踏襲したものだが、袖や襟のラインに使われた赤と青が入れ替わるなど、若干のマイナーチェンジが施されていた)。その7種類とは
- 全身がオレンジで、袖にラインが入る
- 肩から袖の下、パンツに至るオレンジの太いラインが入る
- 上着がセパレートタイプで、上が紫、下が白
- 袖がブルーでロゴが赤く、背番号の後ろに太いラインが入る
- 全身が黄色で、肩・パンツに黒いライン
- 全身が黒で、袖の下からパンツに至る太い黄色のライン
- 全身が青で、肩に太いラインが入り、パンツのラインが白
というものだった。だがシーズン終了後、日本ハムに再身売りしたためこの7色のユニフォームはわずか3ヶ月強でお蔵入りとなってしまった。ちなみに前半4種類がホーム用、後半3種類がビジター用である。
また、このユニフォームはセ・リーグの巨人、阪神、中日を意識しており、それぞれのファンからは「パクリ」と言われたというエピソードもあった。
当時のチーム在籍者からはこんな証言も得られている。
- 土橋正幸監督「ダブルヘッダーの第1試合で勝ったユニフォームをゲン担ぎのため第2試合でも着ようと思っていたら、球団から『せっかく7種類も作ったんだから別のユニフォームで戦ってほしい』と言われた」
- 新美敏投手「先発ローテーションに入っていたので、どれか忘れたが1種類だけ着ていないユニフォームがある」
- 千藤三樹男外野手「球団で予備のユニフォームを用意していたため番号違いで試合に出た選手はいたかもしれないが、どのユニフォームを着るか選手の間で混乱したという覚えはない。それよりも当時は阪急が優勝争いに加わっていたので、西宮球場での阪急戦では、悪役に徹するために黒いユニフォームで試合をしたことが印象に残っている」
ちなみにえのきどいちろうは当時福岡県久留米市在住の中学生で、夏休みに友人とともに平和台球場に太平洋クラブライオンズ戦を見に行った際、黄色いユニフォームを着た張本勲の強烈な存在感がきっかけでフライヤーズファンになったという。
全ポジションを守った選手
1974年9月29日の南海戦(後楽園)で、高橋博士捕手が「1試合で全ポジションを守る」という日本球界初の珍記録を作った。
当時、後期リーグはロッテが優勝を決めた後なので、いわば消化試合。そこで折角応援してくれているファンのためのサービスの一環として中西太監督は、内野手の経験も持つ高橋に全ポジション挑戦をするように企画した。
1回から一塁手→捕手→三塁手→遊撃手→二塁手→左翼手→中堅手→右翼手→投手の順番でポジショニング。特に投手は初経験だったので不安もあったが、対戦相手が投手の野崎恒男だった。カウント1ストライク2ボールからセンターフライに仕留めたところで「投手は1人だけで充分」と降板した。
選手生活を通して全ポジションを守った選手としては2000年には五十嵐章人(当時オリックス)が達成している。また1991年から1994年まで日本ハムに在籍していた木村拓也(広島→巨人)が、投手を経験すれば3人目の記録達成者となる。
オールスター組織票問題
1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢で占めた(投手:高橋直樹、捕手:加藤俊夫、一塁手:柏原純一、二塁手:富田勝、三塁手:古屋英夫、遊撃手:菅野光夫、外野手:ボビー・ミッチェル、千藤三樹男。外野手の残り1枠は阪急・福本豊)。原因はファンクラブ「少年ファイターズの会」による呼びかけであることが発覚したが、この年の前期の日本ハムは3位ながら29勝31敗5分けと負け越したことからファンからの批判が続出。このため事態を重く見た球団側は古屋と菅野の出場辞退を発表した。ちなみに古屋は翌1979年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は結局オールスターに出場することはできなかった。
野球用具未着事件
1979年7月13日、この日の日本ハムの対戦相手・南海は、前日近鉄と日生球場でナイターを行い、当日移動で後楽園球場で試合に臨む予定になっていた。
ところが、選手の野球用具が東名高速道路日本坂トンネル(静岡県)で発生した火災事故による大渋滞に巻き込まれなかなか到着せず、代わりの野球用具を調達することも出来ないのでやむなく試合を中止した。
後楽園シリーズ
1981年の日本シリーズでは、藤田元司監督率いる巨人と対戦。同じ後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦となり、史上初めて全試合同一球場で行われたシリーズとなった(ちなみにこのシリーズの第1戦の始球式は当時の東京都知事・鈴木俊一)。東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、2004年に本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。当時の日本ハムの監督だった大沢啓二は後楽園の社長から「大沢がもう少しやれば、7戦できた」と愚痴を聞かされた。
雨中のベースランニング
ファイターズの助っ人外国人として活躍したマット・ウインタース(現・ファイターズ駐米スカウト)が魅せたパフォーマンス。根っからのエンターテイナーであり、試合前にマジックを披露したりユニフォームを上下逆に着て逆立ちのフリをしたり、カツラを被ってチアガールに扮したりしていたが、西武球場の対西武戦が雨でノーゲームになった時のこと。ノーゲーム決定の数分後、ウインタースが突如球場内に登場。雨が降りしきる中、パントマイムでホームラン。ガッツポーズをし、ダイヤモンドを一周。マットの敷かれているホームへ水しぶきをあげてヘッドスライディング。帰ろうとする観客からヤンヤの歓声を浴びた。この模様が珍プレー好プレーを通じて全球団に知れ渡り、誰でも簡単にやれる事から雨天中止・ノーゲーム時の恒例パフォーマンスとなっている。(注:それ以前にも広島に在籍したマイク・デュプリー(1980年)などが同様のパフォーマンスをしたことがある。しかし、その少し後に当時巨人の監督だった王貞治が、中畑清もやりたがっているという話を聞かされて「やってもいいがケガをしたら罰金を取りますよ」と話したりしたように、当時はこうしたパフォーマンスをおおっぴらに認める空気ではなかった)
北海道移転後の東京ドームの公式戦
北海道に移転した後も、年間で概ね3カード10試合前後の主催ゲームを引き続き東京ドームで開催している。これは東京にも球団事務所があること、および旧来の在京ファンの存在を考慮したもの。しかし日本ハムの本拠地ではなくなったことで、パの他球団も東京ドームに進出。移転初年度の2004年シーズンはダイエーが1試合、オリックスが2試合の主催ゲームを開催した。このうちオリックス主催分は対戦相手が日本ハムだったため、東京ドームの公式戦で初めて三塁側のダッグアウトを使用した。ただし前身の後楽園球場を含めオープン戦、及び1981年の日本シリーズなどでは巨人-日本ハム戦で使用した例が多数ある。また2005年は日本ハムが10試合、オリックスが2試合開催した。2006年は日本ハムの主催ゲームが9試合、2007年は8試合開催されたが、東京ドームでの公式戦は年々減少傾向にある。そのため、在京ファンへの配慮として2006年の東京ドームでのオープン戦を従来はデーゲームで開催されていたものを全てナイター開催とした(札幌ドームでも平日の球団主催オープン戦を3月21日以外すべてナイター開催)。なお札幌移転後も東京の応援団は存続している。これは東京ドームだけではなく、西武ドーム、千葉マリンスタジアム、神宮球場、横浜スタジアムでも応援するためである。このため在京ファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われた。そして、2007年から東京ドームでのゲームはホームビジターを問わずすべての試合で、移転前の応援スタイルで行われている(ただし、移転後に出来た「北の国から」は使用している)。他にも、2005年には日本ハムが東京ドーム、その裏で巨人が札幌シリーズを開催し、事実上、本拠地を交換したようなこともあった。なお、東京ドームでの西武戦は西武が東京ドームでの日本ハム主催試合を拒否しているため行われていない。
敬遠球をホームラン
1981年の西武戦(平和台球場)で、主砲の柏原純一は永射保から敬遠の球を打ちホームランにした。後に彼が阪神の打撃コーチを務めていた時、新庄剛志(当時阪神)が同様に槙原寛己(巨人)の敬遠球をサヨナラヒットにしている。ヒーローインタビューで新庄は「柏原コーチとずっと練習していました」と語っていた。
延長継投ノーヒットノーラン
2006年4月15日の福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフードーム)で、先発の左腕・八木智哉はソフトバンク打線を9回まで無安打無得点に抑えたが味方打線の援護がなく、試合は延長戦に突入した。八木は10回裏も無安打無得点で切り抜けるとそのまま降板したが、11回裏は武田久が、12回裏はMICHEALが安打と得点を許さず、試合は12回表に取った1点を守りきって、日本ハムが勝利した。
八木自身にはノーヒットノーランどころか白星すら付かなかったが、武田・MICHEALとともに日本プロ野球では1941年以来65年振りの「継投によるノーヒットノーラン」を達成した。過去の「継投によるノーヒットノーラン」はいずれも9回までに2人の投手によって成し遂げられており、延長戦かつ3投手の継投で達成したのは史上初の快挙である。
HAMの方程式
2006年のシーズン、ファイターズは12球団トップのチーム防御率3点台前半を記録する。この年はチームの若きエース・ダルビッシュ有や、新人王・八木智哉などの先発陣の活躍も光ったが、ここまでチーム防御率が良くなったのはリリーフ陣にある。特にリリーフ陣の中核を担った武田久とマイケル中村の2人の名前を取って(久のHとマイケルのM、そして&のA)HAMと言う。武田久は球団新記録である75試合登板(両リーグ歴代5位)を記録し、更にリーグダントツのHP数で最優秀中継ぎ投手に、マイケルはリーグ新の39セーブ(パリーグ史上最高記録)を記録し、最多セーブ投手に輝く。2006年に優勝したのは大技・小技を絡めた新しいビッグバン打線の活躍、そしてそれ以外の投手陣の力と言われているが、この2人の優勝への貢献度は大きい。また、岡島が登板した日は(武田のT、岡島のO、マイケルのM)TOM(トム)とも呼ばれていた。
変則2連戦
2006年7月29日と翌30日に行われた福岡ソフトバンクホークスとの対戦は、札幌ドームがSMAPのコンサートで使用できなかったこともあり、29日は函館オーシャンスタジアム、30日は東京ドームに移動して2連戦をこなした。
このように、距離の離れた2都市で同じ対戦カードの連戦が行われる事例は、シーズン終盤の予備日でホームとビジターが入れ替わる場合を除けば、2004年6月15日・翌16日の福岡ダイエーホークス対大阪近鉄バファローズの2連戦(15日が東京ドーム、16日が福岡ドーム)以来のケースである(福岡ソフトバンクの当該項参照)。
イルカとバナナによるレフトスタンド席取り問題
前述のように2006年から小笠原の応援でイルカ、セギノールの応援でバナナの風船を膨らませて応援している。この応援方式に対して他の観客から「風船を上に掲げた際に試合が見えない」という苦情が出た。また、「フィールドに近い前の方の外野席へイルカとバナナを座席確保の目的で試合前に置いている一部の観客がいる為、いつも前の方で試合が見られない」という苦情もあり、こちらはニュース等でも取り上げられ、球団側も何らかの対策を取る必要を認識した。球団側としても、アナウンス、マスコミを通じて風船を使用する際には節度をもつよう注意している。2006年シーズン終了後、翌2007年シーズンから外野席の前からレフト側5列、ライト側3列を自由席から指定席に変更して、外野席の前方での席取りを抑制しようという対策を講じた。 しかし、今度は自由席最前列であるレフト側6列がすぐに確保されてしまっている、外野指定席が席数が少ないためすぐに完売してしまうなどの問題が発生し、翌2008年シーズンからはホーム側であるレフト側・3塁側の席全席を指定席に変換し、自由席はライト側・1塁側のみとなった(ライト側・1塁側の指定席は廃止)。
9人のヒーローインタビュー
2008年4月8日に札幌ドームで行われた東北楽天ゴールデンイーグルス戦で、打線の奮起で7点差をひっくり返して逆転勝ちし、球団史上最多の野手9人(森本稀哲、田中賢介、稲葉篤紀、高橋信二、ターメル・スレッジ、小谷野栄一、工藤隆人、鶴岡慎也、高口隆行)が試合後のお立ち台に上がった。
3回裏に突如乱れた楽天の先発・一場靖弘と中継ぎ投手陣を攻め、稲葉、高橋、小谷野のタイムリーなどで5点を取り、4回裏に田中の2ランホームランで追いついた。そして6回裏に無死二塁の場面で高口がバントを空振りし、ランナーの鶴岡が飛び出してアウトかと思われたが、楽天の遊撃手が三塁へ送球したボールが鶴岡の背中に当たってしまい、ボールがそれる間に鶴岡がそのまま逆転のホームを踏んだ。
先発の武田勝は打線の援護で勝利投手になったものの、2回表に一挙7点を奪われるなど、6回7失点と不安定な投球内容だった。
ファイターズ応援番組
テレビ
北海道内
- 『ニュースまるごと北海道』内スポーツコーナー
- 終了
- 『ほくほくテレビ』内ほくほくスポーツ
- 終了
- すぽーつドーム
- アンカー!
- ぞっこん!スポーツ
- ファイトF(ファイターズ)
- 朝6生ワイド
- どさんこワイド180
- おばんでスタ!内おばんでスタ!GOGOファイターズ(終了)
- 現在はTVhファイターズ戦の中継のみ
※道内の地上波局が全てファイターズ主催試合の放映権を持っているのも特筆すべき点である。中でもTVhが一番力を入れている(これは、TXN系列自体のゴールデンタイムにおける全国ネット番組の縛りが緩く、まとまったローカル差し替えが容易であるためといえる。同じ系列のTVQ九州放送も同様の傾向で福岡ソフトバンクホークスの中継に積極的である)。但し、TVhは札幌・旭川・函館・室蘭を中心にした北海道中央部の大部分と南部全域、北部の一部でしか見られず、帯広・北見・釧路・稚内を中心にした東部全域、北部の一部では見られないことから、これらの地域の視聴者からの苦情が少なくない。特に2006年のプレーオフ第2ステージ第2戦で優勝を決めた時はTVhが中継していたため、大量の苦情が殺到している。
その他
- 東京12チャンネル時代に『戦国ナイター』で一部試合を放送していた。その後しばらく主催ゲームの中継が途絶えた。
- 1990年代後半から、日本ハム提供により再びテレビ中継を行う様になった。また、1996年度から2003年度の8年間に渡って、「超野球ファイターズ」と題した日本ハム提供の球団情報番組を、毎週日曜日に放映していた。
- 札幌移転後の2004年4月からは内容を全面的に一新し、球団監修のミニアニメーション番組「超ぽじてぃぶ! ファイターズ」をテレビ東京とテレビ北海道で放送した。開始当初の半年は日本ハムの選手(実名で登場する)をデフォルメしたギャグアニメーション形式だったが、同年10月の放送からストーリー性を重視して「闘魂野球伝」シリーズ、更に監督が岸誠二に代わり2005年度上半期は北海道の野球少年やファンとの友情を描いた「燃えるぜ!焼けるぜ!」シリーズ、下半期は「燃えるぜ!焼けるぜ!」のメインキャラが野球勝負で魔人にさらわれたファイターズ選手達を救出する「11魔人」シリーズを放送し、2006年3月に終了した。
ラジオ
北海道内
- HBCファイターズナイター
- ファイターズDEナイト!
- 朝刊さくらい
- 大泉洋のサンサンサンデー
- ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組
- プロ野球三都物語(開幕前に放送する特別番組。東北放送・RKB毎日放送と毎年持ち回りで制作)
- DONと赤城のおぢさんツインカム!
- にちようサウンドボックス
- 携帯サイト『HBC熱闘!ファイターズ』も運営している。
- 『ファイターズ中継ナンバーワン』「120%応援実況」をスローガンに年々中継試合数を増やし、2007年からは公式戦はほぼ全試合を中継、時には敵地にも自社アナウンサーを派遣する熱の入れようである。さらに試合後やオフシーズンにも応援番組も充実させている。
- ファイターズ戦中継を増やし、STVラジオとの差別化を図ったことが聴取者から支持され、聴取率でSTVラジオを破った。
- スポーツラッキーセブン、凄いぞファイターズ-『[千ちゃんの幸せラジオドーム]]』内
- STVアタックナイター ファイターズスタジアム
- スーパーラジオファイターズ
- 『オハヨー!土曜日』内「スポーツトレイン」
- 『オハヨー!ほっかいどう』内「オハヨー!チェック・ザ・チェック」「オハヨー!朝からファイターズ」「オハヨー!スポーツ情報」
- 『サンデーミュージックファイター』内ズームアップ北海道
※2006年度までは札幌ドームのナイターを中心に放送していたが、2007年度からはホーム・ビジターのナイター全試合と日曜日のデーゲームを中継、その他は巨人戦を放送。
- Weekly Fighters Press(終了)
- 『G1-MOTION』内G1sports
- 『AIR-G' Morning Pax』内広瀬哲朗のファイターズ情報
- 『GOTCHA! ~Fun's Radio~』内坪井智哉のツボチカ7(セブン)
その他
- 岩本勉のまいどスポーツ
- えのきどいちろう意気揚々→フォークトレイン内日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク→ミュージックトレイン内北海道日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク(終了)
補足
- 東映時代、同一資本系統の日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)がテレビ中継の優先権を確保していた。球団が日本ハムとなった後、関係は緩やかに解消され、1990年代以降は上述の通りテレビ東京等との結びつきが強くなっていった。
- 東京ドーム関連のCATV(東京ケーブル)製作ナイター番組をテレビ埼玉(過去には試合により千葉テレビ放送にも)とGAORA(毎日放送系列のCS)が購入して放送。北海道移転後もGAORAで引き続きナイター中継が放送されている。ちなみに日本ハム本社は、GAORAに開局当初から出資している主要株主である。
- 1990年代前期、FM富士(当時JFN加盟)が不定期で放送していたラジオ番組『FIGHTERS ROCKS&BASEBALL』があり、日本ハム情報とロック音楽を放送していた。それを同タイトルでテレビ化した番組が1992年秋ごろから1994年ごろまで、テレビ埼玉制作で同局とテレビ神奈川・千葉テレビ放送・びわ湖放送の4局でネットしていた。
- 蛇足だが、テレビ東京並びに全国中継がある試合の戦績はそれほど良くない。
- この他、北海道内のコミュニティFM放送局でも以下の番組が放送されている。
インターネット中継
2006年6月16日に「Yahoo!動画」上でインターネット配信を開始し、シーズン後半の1位通過争いやプレーオフの時は回線がパンク状態になった。SHINJOの引退セレモニーも中継したが、GOGOファイターズがずっと流れていた(著作権の関係と思われる)2007年はオープン戦から配信している。CS放送のGAORA映像を使っている。
関連項目
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- ビッグバン打線
- 1962年の日本シリーズ
- 1981年の日本シリーズ
- 2004年のパシフィック・リーグプレーオフ
- 2006年のパシフィック・リーグプレーオフ
- 2006年の日本シリーズ
- 2006年のアジアシリーズ
- 北海道スポーツネットワーク会議