城石憲之
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東京ヤクルトスワローズ #10 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 埼玉県さいたま市大宮区 |
生年月日 | 1973年4月17日(51歳) |
身長 体重 |
183 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、三塁手、遊撃手、一塁手 |
プロ入り | 1994年 5位 |
初出場 | 1995年10月3日 |
年俸 | 3,600万円(推定) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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城石 憲之(しろいし のりゆき、1973年4月17日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属する埼玉県さいたま市大宮区(旧大宮市)出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。右投げ右打ち。身長183cm、体重73kg。血液型B型。夫人はテレビ東京アナウンサーの大橋未歩。元フリーターという異色の経歴を持つ。
来歴・人物
アマチュア時代
- 最初はサッカーを始めたが、リフティングがうまく出来ないと言う理由からソフトボールに転向する。
- 中学時代は軟式野球部に所属。
- 春日部共栄高校野球部時代に主将。6番または3番遊撃手のポジションで春の甲子園及び夏の甲子園に出場。春1勝。高校通算7本塁打。高校3年の夏の埼玉決勝で対戦した聖望学園高等学校のエースは門倉健
- その後青山学院大学に進学するが1年次で中途退学(同級生に坪井智哉)。中退理由については諸説あるが、出身地である埼玉では「甲子園へ主将として出場した経歴が仇となり、上級生からのいわゆる「つぶし」を食い、それを嫌って退学した」との説が通っている。
プロ入り後
- 大学中退後、ガソリンスタンド従業員などのフリーター生活を送っていたが、1994年ドラフト5位で日本ハムファイターズに入団。背番号は54番。
- 当初ヤクルトスワローズの入団試験を受けているが、不合格となった末に日本ハムの試験に合格していた。
- プロ3年目、日本ハムでは最後のシーズンとなった1997年ジュニアオールスターゲームとファーム日本選手権の両方に「9番遊撃手」でフルイニング出場し球団史上唯一のファーム日本一に貢献
- 1998年パシフィック・リーグ開幕の前日に、脱税事件で出場停止処分を受けた宮本慎也に代わる遊撃手を捜していたヤクルトに、野口寿浩との交換トレードで移籍。背番号は28。宮本復帰後は主に二塁手として活躍。
- 1999年4月2日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)、土橋勝征の故障により8番二塁手で初の開幕スタメンを果たす。
- 2001年背番号を00番に変更。内野手の控えとしてヤクルトの優勝に貢献。
- 2002年背番号を10番に変更。2度目の開幕スタメン(セカンド)をつかむも4月末に左肘を脱臼、長期離脱を余儀なくされる。この時の脱臼の後遺症で、左肘は今でもまっすぐに伸ばせない。しかし、自己最高の8本塁打を記録。
- 2003年6月1日、千葉マリンスタジアムでの中日ドラゴンズ戦(ヤクルト主催)で、2-3の1点ビハインドの9回裏2死満塁から自身の途中で止めたバットがなんと逆転サヨナラタイムリーとなり4X-3で逆転サヨナラ勝ちを収め、ヒーローに。
- 2005年は土橋から二塁手のレギュラーを奪って自己最多の130試合に出場し、92安打2本塁打、打率.256とまずまずの成績を残した。シーズン終了後、選手会長に就任。
- 2006年は出遅れたが、宮本が抜けた8月から遊撃手として堅実な守備を見せた。
- 2007年は腰痛により開幕2軍スタート。漸く4月末に昇格し、本塁打を放つなど打撃好調だったが、直後に帯状疱疹により絶対安静となってリタイアするなど不運が続いた。
エピソード
- 父親はかつて北関東でも有数の事務用品卸の会社を経営していた。この父親が野球好きであった事から、城石の野球人生は始まったと言われている。
- かつての監督でありチームメイトでもあった古田敦也とは血縁ではないが遠縁の親戚にあたる(古田の母方のいとこと、城石の父方のいとこが夫婦)なお大木凡人も親戚にあたる。
- 2006年12月16日、自身の公式ブログで、テレビ東京アナウンサー大橋未歩との結婚を発表。2007年1月1日、婚姻届を提出した。
- 高校時の主将や、生え抜きではないにも関わらず選手会長を任されるなど、真面目さを買われてまとめ役を任される事が多い。
プレイスタイル
- 三振が多く確実性で劣るが、毎年本塁打を放つなど意外性のある打撃を見せる。
- 打力で勝る宮本慎也や土橋勝征、土橋引退後は田中浩康とポジションを争う事になりレギュラーの座は掴めていない。しかし二塁手・三塁手・遊撃手をこなせるユーティリティで堅実な守備力は一定の評価を得ており、2005年から3年連続でこの3ポジション全てで起用されている。2008年3月29日の読売ジャイアンツ戦ではプロ入り後初めて(球団公式ホームページ・フォトギャラリーより)という一塁手の守備にも就いた。守備固め・緊急時の代役としては存在感を示している。
年度別打撃成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1995年 | 日本ハム | 54 | 2 | 3 | 3 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .667 | .667 | .667 | 1.333 |
1996年 | 3 | 5 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | .200 | .200 | .200 | .400 | ||
1997年 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | ||
1998年 | ヤクルト | 28 | 44 | 50 | 45 | 3 | 13 | 1 | 0 | 2 | 20 | 4 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 11 | .289 | .333 | .444 | .778 |
1999年 | 86 | 103 | 93 | 7 | 13 | 4 | 0 | 0 | 17 | 5 | 2 | 3 | 0 | 5 | 2 | 29 | .140 | .200 | .183 | .383 | ||
2000年 | 8 | 16 | 14 | 3 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 6 | .214 | .267 | .286 | .552 | ||
2001年 | 00 | 31 | 38 | 36 | 4 | 9 | 3 | 0 | 0 | 12 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 10 | .250 | .270 | .333 | .604 | |
2002年 | 10 | 80 | 253 | 230 | 26 | 57 | 11 | 0 | 8 | 92 | 28 | 1 | 7 | 2 | 14 | 0 | 53 | .248 | .289 | .400 | .689 | |
2003年 | 117 | 280 | 245 | 33 | 64 | 14 | 0 | 5 | 93 | 28 | 1 | 7 | 2 | 23 | 3 | 41 | .261 | .330 | .380 | .709 | ||
2004年 | 119 | 341 | 315 | 29 | 67 | 7 | 0 | 4 | 86 | 22 | 2 | 7 | 1 | 15 | 3 | 58 | .213 | .254 | .273 | .528 | ||
2005年 | 130 | 389 | 359 | 25 | 92 | 18 | 1 | 2 | 118 | 30 | 2 | 10 | 0 | 19 | 1 | 66 | .256 | .296 | .329 | .624 | ||
2006年 | 70 | 153 | 130 | 12 | 30 | 2 | 0 | 2 | 38 | 5 | 1 | 6 | 0 | 17 | 0 | 31 | .231 | .320 | .292 | .612 | ||
2007年 | 81 | 116 | 109 | 9 | 23 | 4 | 0 | 2 | 33 | 9 | 0 | 3 | 0 | 3 | 1 | 22 | .211 | .239 | .303 | .542 | ||
通算成績 | 775 | 1748 | 1585 | 153 | 374 | 65 | 1 | 25 | 516 | 133 | 10 | 47 | 5 | 101 | 10 | 330 | .236 | .285 | .326 | .611 |
- 2007年シーズン終了時