コンテンツにスキップ

F-15 (戦闘機)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Textex (会話 | 投稿記録) による 2008年5月27日 (火) 16:36個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎概要: 会社名の統一)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

F-15 イーグル

ワシントンD.C.上空を飛行するF-15C

ワシントンD.C.上空を飛行するF-15C

着陸するF-15C
主翼と胴体下に610ガロンのタンクを搭載している
ライトパターソン空軍基地の空軍博物館で展示されているF-15A

F-15マクドネル・ダグラス社(現ボーイング社)が開発した大型の制空戦闘機である。イーグルEagle)の愛称で呼ばれる。また、イーグルを操るパイロットは「イーグルドライバー」と呼ばれ、一目置かれる存在となっている。

概要

アフターバーナーを使用して離陸するF-15C

長射程ミサイルの運用能力と高性能なレーダーを有し、第4世代ジェット戦闘機に分類される双発の大型制空戦闘機である。

F-4の後継機とされ、二枚の垂直尾翼を持つとはいえ平凡な平面形の主翼に水平安定版を組み合わせた保守的ともいえる設計で、当時としては画期的な機動性を実現した機体であり、採用国では空戦における被撃墜記録はないとしている。単座型と複座型の2種類があるが、飛行性能・戦闘能力に大きな差はない。 一機当りのコストが約3,000万ドル(アメリカ空軍での単価)と高価な機体となったため、アメリカ空軍はF-16との「Hi-Lo-Mix」運用を甘受し、また購入可能な国は限られた。それに加えて圧倒的な空戦能力から政治的・軍事的に親密な国への売却に限られた結果、新造機からの運用はアメリカの他イスラエル日本サウジアラビアの3ヵ国のみの総計1,223機の製造で生産ラインは閉鎖となった。

F-4と共に、冷戦下のアメリカ空軍とマクドネル・ダグラス社を代表する戦闘機といえる。現在では主力の座を派生型のF-15Eや、後継機であるF-22に譲りつつある。

開発の経緯

ミサイル万能の時代

プロトタイプのF-15A
主翼先端及び水平尾翼の形状が異なるのがわかる

1956年に配備の始まったサイドワインダーを装備したF-86が58年の台湾海峡における大規模な空中戦[1]などで戦果をあげたことを受け、アメリカ空軍では今後の戦闘機同士の戦闘は「遠距離から射程の長いミサイルを発射して相手を撃墜するものになる」という「ミサイル万能主義」が主流となった。また1950年代のソ連によるM-4バイソンTu-95ベアといった新型爆撃機配備により生じた戦力差は西側への甚大な脅威となりえるため、対抗の必要があるという「ボマーギャップ」論を巻き起こした。そのためにアメリカ空軍は要撃機と爆撃機の配備に重点を置くこととなった。

これらの結果、新規開発の比重は対戦闘機戦闘を主目的とした制空戦闘機から対地攻撃力を補充するF-105のような戦闘爆撃機や対爆撃機要撃のためのF-106等の要撃戦闘機等に移っていった。当初F-86の後継とされたF-100も徐々に戦闘爆撃機に転用され、F-101F-104は運動性を軽視した仕様となった。

結局、アメリカ空軍はベトナム戦争開始時期に充分な格闘戦能力を持つ機体を持たず、有視界外戦闘を禁止した交戦規定を文民に強制されて巻き込まれた旧式のMiG-17相手の格闘戦闘で苦戦を強いられた。幸いにも、1961年当時の国防長官であったロバート・マクナマラの推し進めた空海両軍の機種統一により導入したF-4戦闘機が、比較的機動性に優れていたためベトナム戦争を凌ぐことはできた。

さらにマクマナラ国防長官はコスト削減と合理化を目的とし、空軍主体で開発する戦闘爆撃機を海軍向けに艦隊防空用の要撃機に発達させ共通化を図るTFX計画を進めたが、重量増加、エンジン(TF30)のストール、海軍用の新ミサイル(AIM-54)や新火器管制装置(AWG-9)の開発遅延といった問題を山積し、結局、空軍用のF-111Aのみ実用となった。だが、ようやく実用化に漕ぎ着けたF-111は、この時点でコスト高や運動性能等に問題を抱えていた。

次期主力戦闘機の模索

その後、海軍はTFX実用化断念後の1965年に次期戦闘攻撃機VFAX(後に中止)や次期戦闘機VFX(後のF-14)の開発研究を開始し、空軍もF-111どころかF-4さえ重すぎて制空戦闘に不適と考え、同年4月、F-Xの開発研究に着手した。 1966年3月、ノースアメリカン・ロックウェル、ロッキード、ボーイングの3社とTactical Support Aircraft(戦術支援機)に関する4ヶ月間の概念作成研究契約を締結した。同9月3社の研究結果の評価を完了したものの開発方針の決定には至らなかった。

モスクワ航空ショーの衝撃

1967年7月に行われたモスクワ・ドモデドボ空港での航空ショーで、MiG-25が突如出現し上空を高速で通過していった。この航空ショーにおいてソ連は、MiG-23,Mig-25,Su-15を初めとした試作機や実験機を含む多種の機体を第三世代戦闘機として出品した。MiG-25の公開も周到に演出されたものであり、大きな衝撃を受けた西側の航空機専門家はソ連の意図した通りにその実体以上の過大な評価を下した。 アメリカ空軍首脳も公開された機体に対抗し得る機体を自軍に保有していないと考え、ソ連の爆撃機に加え、戦闘機にも危機感を募らせていった。

空軍での制空戦闘機の検討時期に、各方面のキーマンからファイター・マフィアと呼ばれる少人数のグループがアメリカ国防総省に出現した。その中の一人は「Energy-Maneuverity理論」を基にした判断によりF-Xの最初のRFPを却下し最終版に改定した。更にそれでも不十分と考えた彼らはF-XX以降の活動を続け、LWF(Low Weight Fighter:軽量戦闘機)計画としてF-16およびYF-17F-18の原型)を実現した。

鷲の誕生

1967年8月にマクダネル・ダグラス社とジェネラル・ダイナミック社と戦闘機に関する6ヶ月の概念作成契約を締結した。 モスクワ航空ショーの翌年の1968年9月に、アメリカ空軍は国内の航空機メーカー8社と研究契約を結び提案要求(RFP)を出した。RFPの主な内容は以下の通り。

  • マッハ0.9、高度30,000ftにおける高G機動でバフェットを生じない
  • 上記空力特性を持つ翼を使い、広い飛行速度高度粋で充分なEnergy-Maneuverity運動能力を持つ
  • 空中給油、または増槽のみで大陸間のフェリーが可能
  • 搭載兵器システムは全任務に対して一人で操作可能
  • 現実的な空対空戦闘を想定して4,000飛行時間の疲労寿命の安全係数を4として試験で証明する
  • 最新の技術を利用したコックピット艤装を行い、特に近接格闘戦ではヘッドアップディスプレィを利
  • 理論整備工数は1飛行時間あたり11.3人時のレベル
  • 構成機器の平均故障時間は上記整備工数内で対応
  • コックピットは360度の全周視界
  • 機内設備で主エンジンを起動
  • 機体構造、電気、油圧、操縦システムは戦闘状況下で無事に基地に帰投できる高度の生存性を持つ
  • 対戦闘機戦闘装備状態の総重量は40,000lb(約18.1t)級
  • サブシステム、構成部品、装備品は少なくとも試作品による実証済みのものに限る
  • 最大速度は高空においてマッハ2.5
  • ルックダウン能力を持つ長距離パルス・ドップラー・レーダーを備える

1968年12月、提出された各社案を基にマクドネル・ダグラス社フェアチャイルド社ノースアメリカン・ロックウェル社の3社を選出して詳細提案のための6ヶ月の研究契約を結び、各社は期日通り設計案を提出した。

提出されたフェアチャイルド社案は胴体の両側の変形デルタの主翼の半幅にエンジンナセルを置き二次元型エアインテークから排気ノズルを一直線に配置した双発一枚垂直尾翼の機体で、ノースアメリカン・ロックウェル社案はオージー翼を持つブレンデッド・ウイング・ボディ構成の胴体下に二次元型エアインテークを付けた胴体内並列双発一枚垂直尾翼の機体であった。

これに対しマクドネル・ダグラス社案の機体は、前縁45度と後退翼がそれほど大きくなく、面積の広い主翼を有していた。これは当時の超音速戦闘機には、まず採用されることのないものであった[2]

1969年12月にアメリカ空軍はマクドネル・ダグラス社と開発契約を結んだ。開発にあたり当初12機、1972会計年度で8機の前生産型を発注し、それぞれ以下のような作業やテストが割り当てた。

  • F1 (1号機):性能領域の探求、運用特性、外部搭載物テスト
  • F2 (2号機):エンジンテスト
  • F3 (3号機):アビオニクス開発、気流速度計測(これ以降の機体はAPG-63火器管制装置を搭載)
  • F4 (4号機):構造テスト
  • F5 (5号機):機関砲・兵装・兵装架射出テスト(これ以降の機体はM61A1 ガトリング砲を搭載)
  • F6 (6号機):アビオニクスのテスト、及び飛行制御・ミサイル発射評価
  • F7 (7号機):兵装、燃料、兵装架
  • F8 (8号機):スピンテスト、高迎角評価
  • F9 (9号機):機体、エンジン適合評価
  • F10(10号機):レーダー、アビオニクステスト
  • T1 (11号機):複座型評価。後にF-15S/MTDとなる
  • T2 (12号機):複座型。マクドネル・ダグラス社のデモンストレーター。後にF-15Eプロトタイプとなる。
  • F11(13号機):実用テスト
  • F12(14号機):コンフォーマル燃料タンク装備機:実用テスト
  • F13(15号機):実用テスト
  • F14(16号機):気象環境テスト。テスト終了後にイスラエルに売却
  • F15(17号機):使用されず、イスラエルに売却
  • F16(18号機):実用テスト、及びデモンストレーター後にイスラエルに売却
  • F17(19号機):「ストリークイーグル計画」に使用
  • F18(20号機):使用されず、イスラエルに売却

初飛行

1972年6月26日に1号機であるYF-15A(71-0280)がマクドネル・ダグラス社セントルイス工場で完成。同日、ロールアウトを記念した式典が行われた。

後日一旦分解されC-5輸送機によりカルフォルニア州エドワーズ空軍基地への搬入・再組み立てを受け7月27日モハーヴェ砂漠上空でマクドネル・ダグラス社チーフテストパイロットのアービン・L・バローズにより約50分間の初飛行を実施した。1973年7月には飛行回数1,000回を超え、最大速度マッハ2.5、最大到達高度18,290mを記録する。

原型機による試験・評価作業は2年余りで終了する。この試験結果を受けた細部の変更はあったが設計の根本的変更に至ることはなかった。

量産機への設計の変更点は以下の通りである。

  • 主翼端後部の切り落とし
  • 水平安定板へのドッグ・トゥースの追加
  • エア・ブレーキの大型化とそれに伴う開度制限

特徴

機体構造

F-15C

外形はF-111F-14の可変後退翼、F-16のブレンデッドウイングボディといった新機軸を採用することなく、MiG-25A-5といった前例のある肩翼配置クリップトデルタ翼に双垂直尾翼と全浮動の水平尾翼を配置した堅実な構成で、主翼はコニカルキャンバーを与えることで前縁フラップを省略して単純フラップと補助翼のみを動翼とした簡素なものである。

胴体上面キャノピー後方に大型のエアブレーキを装備してドラグシュートを廃止している。このエアブレーキは、アルミ・ハニカムと炭素繊維複合材を組み合わせた軽量構造になっている。水平尾翼と垂直尾翼はチタン、間にアルミ・ハニカム、表面をボロン繊維複合材を使用し、軽量かつ強固な構造となった。他にも軽量化と耐熱性強化のためにエンジン周りや主翼取り付け部の円矩などの各所に構造重量の25%以上に及ぶチタン合金を使用しているのが外形からは窺えないF-15の特徴となっている。

機体最上面に張り出す大型の涙滴型キャノピーは360度の視界を与える。A/C型のキャノピー後方の大きな空間は抵抗を増やさず視界を確保するためにある。この結果、単座型と複座型のキャノピーの大きさは大して変わらず識別が困難なほどである。初期の機体では高温強度の高いポリカーボネートにアクリルを拡散蒸着した材質であったが紫外線による劣化で曇りが出たため強化アクリルガラスに変更された。

操縦系統は操縦桿・ペダルと舵面の油圧サーボ・シリンダーの接続はメカニカル・リンクで構成し、方向舵と水平尾翼のリンクに並行してCAS(Computer Augumentation System)を接続して安定増強や操舵補正を行うことに留め、F-16のようなフライ・バイ・ワイヤとはしていない。ただしメカニカルリンクが破損してもCASにより飛行を継続できるため、機械系と電気系のハイブリッド構成と看做せる。

アビオニクス

火器管制システムは高性能のレーダー(APG-63/70シリーズ)を中心とした、高度の自動化設計により単座運用を実現している。APG-63レーダーの最大探知距離は、目標の投影面積(レーダー・クロス・セクション)にもよるが、小型戦闘機程度なら約185kmとなっている。また、E-3E-767といった早期警戒管制機(AWACS)とのデータリンクと併用した場合、その迎撃能力は更に高められる。

エンジン

エンジンはプラット・アンド・ホイットニー社の「F100」というターボファンエンジンを2基装備する。初期型の「F100-PW-100」は、1基当たり10,810kgの推力を生み出す。このため、何も装備しない("クリーンな")状態であれば推力重量比は1を超え、主翼揚力を利用せずにエンジン推力だけで垂直に上昇できることになる。

胴体の左右にある二次元型インテークは、上方4度下方11度で可動し内部の可動式斜板やバイパス口と協調動作して様々な姿勢及び速度において、適切にエンジンに外気を誘導する。

飛行速度

持続時間制限を受けない最高速度はマッハ2.3であり、エンジン吸入空気温度その他の制限からマッハ2.3を超え公称最高速度の2.5までは1分間以内の過渡使用に制限されている。なおF-15Aでも高度10,000ft~45,000ft格闘戦闘時基準重量33,000lb前後ならばミリタリー推力により僅かながらマッハ1.0を超える速度での飛行が可能である。

武装

F-15の下面

F-15の武装はベトナム戦争の戦訓より固定装備とした右翼の付根前縁のM61A1バルカン砲(装弾数940発)[3]を始め、主翼下の2か所のパイロンの両側のサイドレールに計4発のAIM-9 サイドワインダー、胴体下面の4か所のランチャーに計4発のAIM-7 スパローとなっている。

正式採用以降、各国向けの仕様の変更や使用武装の追加、新型ミサイルの採用などの更新を受けている。特にスパローについては、使用している電波誘導セミアクティブホーミング方式はミサイル自体からの電波照射を行う電波誘導アクティブホーミング方式と比べると誘導部が簡単で小型軽量になる反面、目標に電波を照射し続けるために母機の運動を制約するという難点を持つため、半導体技術の進歩により電波誘導アクティブホーミング方式の誘導部の小型化を果たした現在、米軍のAIM-120や航空自衛隊の99式空対空誘導弾といった電波式アクティブホーミングミサイルの運用能力を追加されている。

また、F-15はこれらの装備とは別に対地攻撃用の精密誘導爆弾クラスター爆弾LANTIRNなどの支援装備を搭載可能ではあるが、運用例は少ない。

ストリーク・イーグル

計画に使用されたF-15
機首部分に「STREAK EAGLE」の文字が読める
(画像は腐食防止のために再塗装されたもの)

F-15の性能を示す一例として「ストリーク・イーグル」[4]がある。これは1975年当時、MiG-25の特殊改造機(E266というナンバーが付けられた)の持つ上昇時間記録を更新するためにアメリカ空軍のおこなったプロジェクト名で記録更新機自体の名称にもなった。

元々は1962年に行われた「プロジェクト・ハイジャンプ」にて、F-4が上昇記録更新に挑戦したことに端を発する。この時は3,000、6,000、9,000、12,000、15,000、20,000、25,000、30,000mの8高度までの到達記録をF-4が次々と塗り替えたが、1973年にE266が20,000から30,000mまでの3つの記録を更新していた。これに対して、F-15原型機の内の1機を投入して記録更新を狙った計画である 。 空軍のロジャー・スミス少佐、W・R・マクファーレン少佐、デイブ・ピーターソン少佐がこの計画でパイロットを務めた。5号機と19号機から約360kg軽い19号機を選び、レーダー・緊急用フック・機銃など不要な装備品を取り外し、塗装すら剥がしたものの、特別な推力装置の追加といった改修・改造を施してはいない。

1975年の1月16日から2月1日にかけて行われた挑戦の結果、19号機はF-4とMiG-25の有していた8つの上昇記録をすべて更新した。

到達高度 従来記録[秒] プロジェクト記録[秒]
3,000m 34.52 25.57
6,000m 48.787 39.33
9,000m 61.629 48.86
12,000m 77.156 59.38
15,000m 114.50 77.02
20,000m 169.80 122.94
25,000m 192.60 161.02
30,000m 243.86 207.80

ソビエトも、同年5月にE266Mを使用し25,000mと30,000mの記録を更新している。

拡張性

約30年も前に設計された機体であるが、将来の発展のための余裕を持った設計とされたため、各種の近代化改修(新型ミサイル対応、アビオニクス、エンジンの換装)によって、より以後に運用を開始したロシアのSu-27、国際共同開発のユーロファイター タイフーン、フランスのラファール等の新鋭機の登場した今なお第一線での任務をこなす能力を維持している。

実戦成績

2005年現在、米・イスラエルは実戦における空中戦での被撃墜はゼロとしているが、複数の交戦相手国がF-15撃墜を主張し、ソ連も交戦当事者ではないものの、戦地に派遣したオブザーバーによりMiG-23など自国製の戦闘機が数機のF-15を撃墜したと記録しており、現代でもロシアなどではこれが「事実」として扱われている。なお、イスラエル軍のF-15がミサイルが被弾した後に基地へ帰還した例がある。

アメリカ空軍での運用

当初はF-15が制空戦闘機要撃機の役割を担う予定であったが、その価格ゆえにアメリカ軍でも十分な数の配備が難しくなってしまった。それに伴い、F-15に比べ安価であるF-16が新たに採用され大量に配備する「Hi Lo Mix(ハイローミックス)」運用となっている。 この体制は、後継機種であるF-22F-35にも引き継がれる。

配備開始

フレアを放つアメリカ空軍第325戦術訓練航空団所属のF-15D
KC-135から空中給油を受けるF-15とF-16

アメリカ空軍はまず、1974年11月14日にアリゾナ州にあるルーク空軍基地の第58戦術戦闘訓練航空団に複座型の量産一号機を配備し、以降も優先的にこの部隊へ配備を進めた。この部隊では後に編成される部隊の中核要員をして、ベトナム戦争の従軍経験のあるF-4やF-104のベテランパイロットを主体に機種転換訓練を実施した。

1976年1月9日にバージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団へのF-15Aの配備と機種転換訓練を終えたパイロットの編入により、初のF-15による実戦部隊が誕生した。以降はアメリカ国内のF-4部隊の更新が続き、1979年までにニューメキシコ州ホロマン空軍基地の第49戦術戦闘航空団、フロリダ州エグリン基地の第33戦術戦闘航空団がF-15A/Bの受領を開始した。

また、1980年からは生産がF-15C/Dに切り替わり、F-4およびA/B型を並行して更新することとなった。F-15C/Dの配備は迅速に行われ、同年8月には海外の部隊も含め(下記)すべての実戦部隊がC/D型の受領を完了した。余剰となったF-15A/Bは第58戦術戦闘訓練航空団の後身である第405戦術訓練航空団や、新たに編成されたフロリダ州ティンダ空軍基地の第325戦術訓練航空団へ配備された。

1970年代において、老朽化したF-106に代わる要撃機としてF-14と採用を争っているが、結局どちらにも決まらなかった。その後徐々にF-106が退役するに伴い、なし崩し的にF-15およびF-16が要撃任務を引き継ぐ恰好になっている。F-16の場合は要撃機として使用するにあたってスパローの運用能力を追加する改造が行われているが、F-15の場合は特に要撃機としての派生型は存在しない。

なお、アメリカ空軍のF-15の購入数は911機で2007年11月現在でも442機を保有している。

海外の部隊への配備

アメリカ本土以外での最初の配備は1977年1月5日から西ドイツ西部のビットブルク空軍基地駐留の第36戦術戦闘航空団へ行われ、F-15A/Bの約80機、3個飛行隊が編成されワルシャワ条約機構軍攻撃機の迎撃の任務に就いた。1980年からは順次F-15C/Dへと改編されている。ワルシャワ条約機構軍の侵攻の際に出来るだけ打撃を受けないようにという配慮から国境からできるだけ遠いこの基地が選ばれた。

次は1978年9月にオランダのソエステルベル基地第32戦術戦闘飛行隊に配備された。アムステルダムに近いこの基地が選ばれたのは、ワルシャワ機構軍が西ドイツに侵攻する場合、ソビエト軍の長距離爆撃機が北海バルト海から侵入すると予想されていたためであった。

1985年にはアイスランドの第57戦闘迎撃飛行隊に配備されたF-4と入れ替えが行われた。この部隊もソビエト軍長距離爆撃機の迎撃任務を主としていた。

極東では1979年日本嘉手納空軍基地に所属する第18戦術戦闘航空団の老朽化したF-4の交替機としてF-15C/Dを順次配備し、1980年8月に3個飛行隊すべての更新を完了した。

配備基地

エルメンドルフ空軍基地に配備されているF-15C
Tu-95を追跡するF-15とアメリカ海軍F-14
アメリカ国内
在日アメリカ空軍
在欧アメリカ空軍
  • ケフラビック基地(アイスランド):第57戦闘迎撃飛行隊
  • ソエステルベルグ基地(オランダ):第32戦術戦闘飛行隊
  • ビットブルグ基地(西ドイツ):第36戦術戦闘航空団

※基地・部隊名は1990年当時のもの

冷戦の終結以降は旧東側、現在ではNATOの一員となっているルーマニアのコスタンツァ基地など、多くのNATO軍基地にF-15が展開している。一方で、後継機のF-22などの配備に伴い更新が進められている。 まず、2005年にラングレー空軍基地の第1戦闘航空団に編成されている3個飛行隊のうち、2個飛行隊がF-22に更新された。2006年にはアラスカ州エルメンドルフ空軍基地とニューメキシコ州ホロマン空軍基地、ハワイ州ヒッカム空軍基地への更新・配備が行われた。フロリダ州ティンダル空軍基地の転換訓練飛行隊への配備も行われる予定である。

F-15 ASAT

ASAT発射実験

1983年、当時のロナルド・レーガン大統領の推し進めた一連の「SDI計画」(スター・ウォーズ計画)の中に、F-15を衛星攻撃ミサイルの発射母機とする計画が存在した。

古くは1962年F-4を発射母機とする「カレブ」という四段式固体燃料ロケットの開発、及び二段式ロケットの発射実験を行ったのが始まりである。

この実験ではSDI計画の発表以前の1979年からボート社に発注されていた二段式の試作型攻撃破壊ミサイル「ASAT」を使用した。弾頭部はその形状から「フライング・トマト・キャン」と呼ばれた。空中発射実験は1984年1月12日に、実際に軌道上の目標に対する発射実験は1985年9月13日に行われた。

これらは計画の大幅な見直しで実験が中断され、「ASAT」とパッケージ化されアメリカ西部海岸防空の為に編成された第318迎撃戦闘飛行隊も解散した。また、計画の一部はMD計画に引き継がれている。(衛星攻撃兵器ミサイル防衛も参照のこと)

実戦投入

アメリカ軍所属のF-15の初の実戦は1990年に発生した湾岸戦争であり、初飛行から18年後となる。

湾岸戦争

1990年8月2日イラク軍は隣国クウェートに侵攻し約4時間でクウェート市を占領、8月6日にはサウジアラビア国境付近まで展開した。これを受けてサウジアラビアは、アメリカ合衆国を含む友好国に派兵を要求、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時)は即座に派遣を決定した。要請の翌日である8月7日から、バージニア州ラングレー基地の第1戦術戦闘航空団第71戦術戦闘飛行隊の24機のF-15Cは10回以上の空中給油を繰り返し大西洋から地中海まで13,000kmを15時間無着陸で横断し、アメリカ軍で最初に派遣された部隊ともなった。

この派遣を皮切りに、当時最新鋭だったF-15Eを含むアメリカ空・海軍の飛行隊が、順次サウジアラビア入りした。11月29日国際連合にて「安保理決議678」が採択され、イラク軍のクウェートからの撤退期限を1991年1月15日としたが、それまでの間のサウジアラビアへの部隊配備や物資輸送作戦を「砂漠の盾」作戦と呼称し、F-15は24時間のフル稼働で戦闘空中哨戒を行った。

F-15とF-15E、F-16による編隊

イラクは1月15日の撤退期限を無視。これを受けた多国籍軍は、1月17日「砂漠の嵐」作戦(Operation Desert Storm)を発動させる。同日の早朝、イラク領内の爆撃のためにF-15EF-111などの護衛として4機のF-15Cが出撃した。イラク上空を警戒中の早期警戒管制機E-3が所属不明機の機影を捉えて連絡、F-15はIFF味方識別コード)での識別後、AIM-7Fを発射。パイロットのテイト大尉はアメリカ空軍のF-15による最初の撃墜を記録することとなった。この撃墜は湾岸戦争での最初の撃墜記録ともなっている。同日、この撃墜を含め3機のMiG-29と3機のミラージュF1の撃墜が確認されている。

以降の作戦期間中、アメリカ空軍所属のF-15(E型を除く)は38機のイラク軍機を撃墜し被害はゼロであった。撃墜した38機のうちの約六割がAIM-7による撃墜である。

この一方的な戦果には湾岸戦争の交戦規定ではベトナム戦争では禁じられていた目視外距離戦闘の許可による影響が大きい。IFFの照合のみで敵味方を判断してAIM-7を使用することで一方的に撃墜でき、さらにE-3などの早期警戒管制機とのデータリンクによって成果を上げている。ベトナム戦争で果たされなかったミサイルキャリアーの概念をベトナム戦争の戦訓から生まれた格闘戦闘機F-15が皮肉にも実現したといえる。

コソボ紛争

コソボ紛争にもF-15は投入された。しかし、空中戦がほとんど発生しなかったため、AIM-120によってMiG-29を4機撃墜したに留まっている。

イラク戦争

第1戦闘航空団第71飛行隊所属のF-15が、2003年イラク戦争でイラク軍のミラージュF1を撃墜している。

近代化改修

現在、アメリカ空軍のF-15はMSIP-1及びMSIP-2と呼ばれる近代化改修を行っている。

MSIP-1
F-15A/Bに対して段階的に行われた近代化改修、レーダーをAPG-63 (V) 1へ、エンジンをF100-PW-220へ交換、電子戦機器の近代化を行った。改修対象外となった多くの機体はモスボールされているが、ボーイング社が一時期東欧諸国へC/D相当に改修した上での売却を計画していた。
MSIP-2
F-15C/Dに対して1989年から行われた近代化改修、レーダーをAPG-70、更にAPG-63 (V) 1(一部の部隊では、アクティブ・フェイズドアレーレーダである APG-63 (V) 2 AESAやAPG-63 (V) 3)へ、計器のデジタル化、AIM-9Xに対応した機器の追加、リンク16への対応等を段階的に行う。

21世紀を迎えて

冷戦構造下の1980年代において、F-15の後継機の開発のためのATF計画「先進戦術戦闘機計画」により、ステルス戦闘機F-22が開発された。だが、ソビエト連邦崩壊による冷戦の終結で、1996年末より運用を開始するはずだったF-22の開発・配備計画が先送りとされ、アメリカ空軍に配備されていたF-15に前述の近代化・延命改修が施され、AIM-120などの新型ミサイルの運用が追加された。こうして、第4世代戦闘機の中でも初期に出現した機体ながら諸外国の戦闘機と十分渡り合える性能を維持し続け、2025年を目処に現用の442機のF-15C/Dを全機退役させる予定であった。ところが、2007年10月2日に発生したF-15Cの空中崩壊事故を受けて全機を検査した結果、うち180機で金属疲労による老朽化が判明し、当該機を即退役とするために当初の機材繰り予定の大幅な変更を余儀なくされる公算が高まりつつある。

世界のF-15

当初はF-16とのHi-Lo-Mixを余儀なくされた高価な戦闘機であったため、アメリカ政府はF-15を輸出して一機あたりの単価を引き下げ、また外貨を獲得するという思惑から海外への積極的なセールスを実施した。

初めてF-15の売り込みが行なわれたのは、王政時代のイランに対してであった。アメリカと比較的良好な関係であった当時のイランでは(イランの歴史も参照)、ソ連軍の偵察機による度々の領空侵犯への対処のために新型戦闘機の導入を計画した。マクドネル・ダグラス社は過去にイランに対してF-4の輸出実績があったため、同じく候補に挙げられていたF-14と並んで共に売り込みを行った。しかし、AIM-54フェニックスミサイルの運用が可能で、F-15が運用するAIM-7Fをも装備可能だったF-14が選定された。ただし、同時期に提案していたイスラエルサウジアラビアでは、双方から正式導入を勝ち取っている。

1970年代末には先進国に対する売り込みを図ったが、比較検討を実施したオーストラリアカナダでは価格を理由にF/A-18を採用した。だが、1976年12月には日本航空自衛隊次期主力戦闘機として採用した。

結局、F-15を導入した国はアメリカの他、外交的にアメリカと親密で且つ富裕な国に限られてしまい、イスラエル日本サウジアラビアの3か国のみとなった。結果として基本型は米軍向けや日本でのライセンス生産を含めても1972年以来2007年時点で1,223機で生産を完了した。 これら採用各国空軍においては、現在でも第一線に配備されており、今後も長く運用される見通しである。また、各国において近代化改修の計画・実施が行われている。 ただし、後継機のF-22の登場(2006年現在納入先はアメリカのみ)により価格やアメリカの国防上のリスクも低いものと看做されるようになった派生型のE型については、各国に盛んに売り込まれ、採用例も多くなった。


イスラエル

概要

空中給油後に離脱するF-15I
イスラエル空軍のF-15A/B及びC/Dは、当初これと同様のデザート迷彩が施されていた
パイトン3を装備したイスラエルのF-15A
第四次中東戦争におけるF-4Eの多大な消耗を受けて、早急な戦力回復を図りF-15を導入した。1975年に最初の導入計画を立案し、原型機を含むF-15A/Bを25機発注する。以降段階的に発注を行い、総計でA/B型を44機とC/D型27機の71機を保有する。輸入に際して電子機器類の輸出が許可されなかったため、一部装備が国産化されている。
イスラエル空軍は長らく使用していた独自のデザート迷彩をF-15に施したが、近年ではアメリカ空軍航空自衛隊のような制空迷彩へと変更している。

ピースフォックス

古くはフランスから軍用機を調達していたイスラエルであったが、第三次中東戦争後のフランスによるイスラエルに対する武器輸出の禁止を受け、アメリカから軍用機の供給を図ることとなった。その結果1969年よりF-4EA-4を調達している。しかし、ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)における当時の主力戦闘機F-4Eの多大な損耗(27機を喪失)により、早急に戦力の回復が必要となったため、1974年から次期主力戦闘機の選定を開始。翌年に、ほぼ無競争でF-15の導入を決定した。イスラエル空軍は1975年5月に25機の「F-15A/B」を発注する。アメリカ側ではこの計画を「ピースフォックスI」と呼んだ。
国情からイスラエルは配備を急いだため、アメリカ空軍は保有の原型機16、17、18、20号機を量産型に改修して1976年5月に引き渡している。以後、残りの21機を1976年末に引き渡され(ピースフォックスII)、イスラエルは初のF-15A/Bによる部隊「第133飛行隊」を編成した。その後もF-15C/Dタイプを1978年(ピースフォックスIII)と1989年(ピースフォックスIV)までに導入し、合計でF-15A/Bバズ(38機/6機)、F-15C/Dアケフ(16機/11機)の71機を導入した。なお、1994年からF-15Eのイスラエル仕様である「F-15I」の導入を開始している(ピースフォックスV、詳細はF-15E (航空機)を参照)。

機体

運用に際して国産の対空ミサイルパイトン3の運用能力が付属された。また、アメリカからの輸出に際して核兵器搭載能力の削除が行われ、戦術電子戦システムの輸出が認められなかったために、「AN/ALQ-119 (V) ジャミングポッド」「エルタAL/L-8202ジャミングポッド」「AN/ALQ-132フレアポッド」を装備している。前述の通り独自のデザート迷彩が施されていたが、現在はグレーによる制空迷彩が施されている。
近代化改修 パス2000 (バズメショパー)
1995年にF-15近代化改修プログラムBaz-2000が開始され、INS/GPS航法装置、機内ジャミング発生装置の装備、AIM-120対応及びイスラエル国産ミサイル ダービー、パイソン4、5への対応、DASHヘルメットキューイングシステムの装備、セントラルコンピュータの換装及びF-15E相当のグラスコクピット化が施されている。

実戦投入

初の実戦参加と戦果
1977年6月27日レバノン南部のPLOキャンプ攻撃の任を帯びたF-4とA-4をクフィルと共に護衛中、8機のシリア空軍所属MiG-21機と交戦し、ほぼ一方的にサイドワインダーにて4機を撃墜した(イスラエル側の主張。クフィルの撃墜分を合わせて計5機を撃墜し、2機に損傷を与える)。
この戦闘で最初にミグを撃墜したパイロットはマグダネル・ダグラスのF-15開発チームに対して世界で最初に戦果を挙げると約束し、それを成し遂げた。
ガリラヤの平和作戦
1982年レバノン侵攻作戦で計40機のシリア空軍機を撃墜した(イスラエル側の主張)。また地対空ミサイル陣地への対地攻撃も実施した。オブザーバーを送っていたソ連は、この戦闘の間にシリアMiG-23MLが3機のF-15を撃墜しているとしたが、西側は認めていない。また、シリア側ではこの他にMiG-21もF-15の撃墜を記録しているが、これはMiG-21の放ったR-3ミサイルがF-15に突き刺さって大破した状態で帰還したという例に相当するようである。このようにF-15の生存性の高さは特筆に価するものがあり、シリア側が「撃墜」と記録した例も実際はミサイルや弾丸の命中というだけで撃墜には到っていなかったものが多いと推測されている。
片翼着陸
1983年に防衛任務の演習中にA-4とF-15Bが空中接触し、ほぼ片翼を失ったF-15が15キロメートル離れた基地への着陸に成功した。その時のパイロット、ズィヴィ・ネヴィーディ大尉は着陸後に自分の機体を見るまで片翼で飛行していた事実を知らなかった。樫村機など、片翼を失った機体が生還した例は特に珍しいものではないが、過去のそうした例は操縦士の技量によるものであり、操縦士が片翼を失ったことを知らずに継続飛行していたというのは、本機の高い生存性を示すものといえる。
事故
1988年8月15日、訓練飛行中に2機のF-15が失われた。この事故で2名のパイロット(中佐少佐の2名。共にベテランパイロットであった)が死亡した。

日本

概要

F-15J(2003年)
日本航空自衛隊第3次F-Xにより主力戦闘機として、単座 F-15C の日本型 F-15J165機と複座 F-15D の日本型F-15DJ48機の合計213機を調達[5]した。一機当たりの調達価格は約120億円といわれている。導入後、10機(J型:7機 DJ型:3機)を事故で失ったが、2007年現在でも203機を運用しており、アメリカに次ぐ大量保有国となっている。
航空自衛隊とアメリカ空軍のF-15に細かな装備を除いて外見的な違いはないが、迷彩塗装の色調はアメリカ空軍のものに比べて明るい。また、2005年のアメリカ空軍での再編成までアグレッサー部隊でF-15を使用していたのは航空自衛隊の飛行教導隊のみであった。
調達はマクドネル・ダグラス社からの輸入で始まったが、以降は三菱重工からのノックダウン生産ライセンス生産[6]により、日本はF-15採用国中唯一の自主生産国となっている。また、F-15保有国では日本のみがF-15Eを採用しておらず、対地及び対艦攻撃任務はF-1支援戦闘機(退役済み)とその後継のF-2支援戦闘機が担っている[7]
F-15の空戦能力と高い稼働率、さらにパイロットの技量により、諸外国からも航空自衛隊の空戦能力はF-15の導入によって一気に高まったと判断されている。
導入経緯
1974年に提出された来年度予算案にて、初めて主力のF-104J/DJF-4EJの後継機、第三次F-X調査費が盛り込まれた。
翌年の調査では13種挙げていた候補から
の七機種に絞った。1976年の選定でF-14、F-15、F-16の三機種を候補として選出した。
その最中、1976年10月入間基地で行われた「第5回国際航空ショー」では、F-14とF-15のし烈な売り込み合戦が行われた。この時点でF-15の導入がほぼ確実とされていたが、グラマン社は起死回生を狙い、西太平洋を航行していた原子力空母エンタープライズのアメリカ海軍第二戦闘飛行隊の艦載機F-14を呼び寄せ、対するマクドネル・ダグラス社もアメリカ建国200年記念塗装を施したF-15B(コンフォーマルタンク装備)をアメリカ本土より飛来させた。F-14とF-15の二機はその飛行性能を最大限にアピールするべくデモンストレーション飛行を行った。無論、他のF-X参加企業も自社ブースにてアピールを行うも、前者の二社には及ばないものであった。
正式採用
1976年2月、航空自衛隊は次期主力戦闘機としてF-15J/DJを正式採用し、アメリカ側はこのF-15導入計画を「ピースイーグル計画」と呼称した。1978年昭和53年)度予算で初めて調達され、1980年昭和55年)7月にマクドネル・ダグラス社のセントルイス工場で最初の機体が引き渡された。10月にエドワーズ空軍基地での29回の飛行検査後、一旦アメリカ空軍に返され、3月1日にアメリカ軍パイロットにより嘉手納基地に空輸された。航空自衛隊パイロットの適合訓練の終了を待った約1か月後の3月27日に岐阜基地へ空輸され、そこでアメリカ軍マークを日の丸に描き直した。そこで到着したばかりの2機のF-15Jをバックに、防衛庁関係者や企業関係者による記念撮影が行われている。なお、この最初の2機(02-8801/802)は三菱重工で再組み立てを受けている。続く8機(12-8803 - 22-8810)はノックダウン生産、残りは部品を国産化したライセンス生産で155機(22-8811 - 82-8965)を調達した。
F-15DJはJ型と同時に、最初の12機(F-15C/Dのblock 26相当、12-8051 - 52-8062)を完成品輸入、8機(82-8063 - 92-8070)をノックダウン生産、28機(02-8071 - 92-8098)をライセンス生産で調達した。製造に関わった国内企業は、以下の通りである。
J型の生産は1998年11月4日の165号機、DJ型は1999年10月25日の48号機で終了し、12月10日までに合計213機を航空自衛隊は配備することとなった。
部隊配備
今は無き第202飛行隊所属のF-15J
航空自衛隊では2機で1チームの編成でスクランブルが行われている
F-15J/DJは、F-104飛行隊である200番台の飛行隊、及びF-4飛行隊である300番台の飛行隊に配備された。1981年(昭和56年)12月7日に臨時F-15飛行隊を編成後、1982年(昭和57年)12月21日に第202飛行隊(元F-104J配備)に改編した。以後1993年(平成5年)までに203、204、201、303、304、305の各飛行隊をF-104J/DJ、F-4EJからF-15J/DJ飛行隊に改編し、飛行教導隊1990年(平成2年)に使用機をT-2からF-15DJに更新した。1997年(平成9年)3月には第306飛行隊が第8飛行隊(支援戦闘機部隊)にF-4EJ改を譲ってF-15J/DJ飛行隊へと改編し、8個飛行隊編成となった。その後、T-2での教育を終えたパイロットの機種転換訓練を行ってきた第202飛行隊は、教育飛行隊の新設にともない解隊され、1999年(平成11年)8月3日にF-15臨時飛行教育航空隊が発足し、2000年(平成12年)には正式に第23飛行隊となり、現在は7個飛行隊となっている。
F-104Jが実戦部隊から退いた1986年(昭和61年)からは主力戦闘機として使用している。なお、事故で10機が失われ、平成16年度末(航空自衛隊ホームページ記載)時点で保有数は203機である。
航空自衛隊機はシリアルナンバーがアメリカ空軍と同じ7桁表記(xx-xxxxと表記は同じだが、番号の持つ意味が異なる)になっているが、下3桁が機体記号であり、この3桁は各機体の種類別に割り当てられた番号で、F-15Jは801から965、F-15DJは051から098である。

機体

飛行開発実験団のF-15J
F-15J/DJはF-15C/D型を原型とするが、レーダー警報装置と機内搭載電子妨害装置「ALQ-135」についてはアメリカからの技術移転を拒否され、ブラックボックスとなる輸入ではなく国内技術向上を目指して国産品で代替している。このためアメリカ空軍向けF-15では一方の垂直尾翼先端に装備され非対称をなしているECMポッドが取り外され左右対称となっている。
なお独自装備の一つとしてBADGEシステムに連接して時分割データを受信する日立製作所製「J/ASW-10」と呼ばれる専用通信システムを持つ。
電子機器類の技術移転が少なかったこともあり、国内メーカーからは割に合わないとの不満もあった。だが、F-15とパッケージで国産化されたAIM-9Lは、F-4EJ及びF-4EJ改にも装備させることができたため、ライセンス生産で得たものは大きかったとも言える。
1992年(平成4年)10月17日に発生した第305飛行隊(正確には第204飛行隊からの貸し出し)所属の72-8884号機が訓練中に操縦不能となり、パイロットは脱出したものの、殉職した事故を教訓として、キャノピーブレーカーが追加装備されている。
三菱による生産中に何度か機体仕様が変更されており、大まかに分類すると2種類のタイプに分かれる。一般に導入初期の機体をPre-MSIP機、導入中期から機体をMSIP機と呼称している。
Pre-MSIP
1981年(昭和56年)から1984年(昭和59年)までに調達した機体。MSIP機との違いは以下の通り。
  1. チャフ/フレアディスペンサーは1983年(昭和58年)に調達された機体から装備
  • 該当機体は、F-15J 97機(s/n 02-8801からs/n 82-8898)とF-15DJ(s/n 12-8051からs/n 52-8062)
  • F-15Jのs/n 42-8832は1991年(平成3年)に地上滑走中の事故(暴走事故)による機首部の損傷[8]の際に三菱重工に陸送され修理された。その際にはMSIPとして再生され306飛行隊所属となった。
J-MSIP (Japan-Multi-Stage Improvement Program)
日本多段階能力向上計画。米国のMSIPと同様、日本でも調達中に独自の能力向上を実施した。1985年(昭和60年)以降に調達された機体(F-15Jの#899号機およびF-15DJの#063号機以降)に適用。Pre-MSIPとの違いは以下の通り。
  1. セントラルコンピューターの処理能力向上と新型空対空ミサイル(AAM-4)搭載のための火器管制装置のアップグレードに向けた電気配線の追加。
  2. 兵装コントロールパネルをアナログ式からディスプレイ式に変更。
  • F-15J 42-8944及びF-15DJ 52-8088以降の機体に、エンジンをデジタル制御化して耐久性が向上したF100-IHI-220Eへ変更。
  • F-15J 62-8958以降の機体にはJ/APQ-1後方警戒レーダーを追加装備。
この2つの改修は過去に生産された機体にも順次適用され、トラブルなどで緊急に定期修理(IRAN)入りしたPre-MSIP機にも施されている(正確な数は不明)。
MSIP機の最低保有数は95機。
F-15J/DJ新型空対空ミサイル対応改修
当初はF-15J/DJのMSIP機の定期修理(IRAN)時に行われる改修であったが、最近ではMSIP機を対象とした近代化改修計画に組み込まれている。改修内容は、AIM-120Bの試験運用時に製作されたプログラムのインストールと搭載インターフェイスの変更により、AAM-4とAIM-120双方の運用能力を追加するもので、具体的な改修機の数は公表されていない。改修機の外見での識別点は以下の二点だが、機体の近くに寄ってU-106/Aを確認する以外の有効な確認方法がないため、識別は困難である。
  1. St.3及びSt.4、St.6及びSt.7のAU-106/Aミサイルランチャー中央部に存在する製造メーカーの名が書かれているプレートの位置が前方に移動し、プレートのあった位置のやや後方にコネクターを追加。
  2. ミサイル取り付けリング中央部のワイヤーの除去。
対地攻撃能力について
防衛庁(当時)による昭和53年3月4日付け「F-15の対地攻撃機能と空中給油装置について」では、『ある程度の対地攻撃機能を付随的に併有しているが、空対地誘導弾や核爆撃のための装置あるいは地形の変化に対応しつつ低空から目標地点に侵入するための装置を搭載しておらず、この機能は、主として目視による目標識別及び照準をおこなうことができる状況下において、通常爆弾による支援戦闘を行うための限定されたものである。なお、F-15は、対地攻撃専用の計算装置などを有しておらず、対地攻撃の機能に必要な情報処理などは、要撃戦闘に用いられる計算装置を使用してなされるものである。』としている。

近代化改修

F-15J/DJのJ-MSIP機(J×53機:899 - 965、DJ×36機:063 - 098)を対象とした近代化計画で、形態一型と形態二型からなる。平成17~21年度対象の中期防衛力整備計画は、期間内までに26機(形態二型を含む)を量産改修することを含んでいる。計画では改修したF-15約90機により4個飛行隊を整備することとなっており、目標では平成21年(2009年)度に改修F-15(形態一型)による最初の飛行隊を結成する予定である。航空雑誌ではしばしば「F-15J改」等と呼ばれる。
2004年(平成16年)に量産2機の予算を初めて取得し、2005年(平成17年)に4機、2006年(平成18年)に2機の予算取得を行ったが、2007年(平成19年)はF-2の一括取得のために見送られた。2007年現在の量産予算化は8機であり、同年9月12日に量産改修初号機(#948)を納入し、年度内に計6機納入の予定である。2008年度(平成20年)予算では、F-X選定の1年先送りによる防衛力空白を埋めるため、次期輸送機の獲得を先送りして改修予算を捻出し、32機2個飛行隊分(3ヵ年分)を一括要求した。量産改修予算は1機あたり約50億円とされているが、20年度は大量発注により35億円/機という低コストでの案となったが、20機の獲得にとどまった。
形態一型
近代化改修計画(形態一型)は三菱重工業を主契約として1997年(平成9年)に開始し、システム設計に着手、1998年(平成10)に細部設計、1999年(平成11年)に一部機材の購入を開始、2000年(平成12年)にレーダー・セントラルコンピュータ等の主要機材を購入、2002年(平成14)に試改修作業を開始され、三菱へF-15J改修初号機(12-8928)を引き渡した。2003年(平成15年)7月24日に初飛行、10月21日に再納入され、飛行開発実験団で技術的追認を行った。2008年(平成20年)度予算で認められた20機は形態一型への量産改修であり、当初予定の18~20機程度の改修は完了する見込みである。
  • 形態一型の改修内容は以下の通り(注: AAM-5の運用能力獲得及びFDL(戦闘機デーダリンク)の搭載は試改修機には実施されていないが、量産機には追加されている)
  1. セントラルコンピューターの再換装
  2. レーダーを従来のAPG-63からAPG-63 (V) 1へ換装

( (v) 1はF15Kでも採用された新型。フロント部は改良型機械式アンテナアレイを使用。F15SGはアクティブアレイとした (v) 3を使用するが同様の再改修は容易。)

  1. AAM-4/4改の運用能力獲得
  2. AAM-5の運用能力獲得(量産機より追加)
  3. 通信装置への電波妨害対処機能付加
  4. 射出座席の改良
  5. 空調設備と発電装置の改良
  6. 戦闘機データリンク(FDL・戦術データリンクJTIDS)の搭載 (量産機より追加)
  • 平成20年度概算要求の概要5ページ目に

http://www.mod.go.jp/j/library/archives/yosan/2008/yosan.pdf#search='F-15%20近代化改修'

形態二型
近代化改修形態二型の作業は2002年(平成14年)開始。試改修機は32-8942号機で2007年(平成19年)3月8日に再納入、飛行開発実験団での実用試験を経て、一連の試改修事業を平成19年度に終了する。現中期防の2008年度(平成20年)改修分から形態二型へ切り替える予定で、約70機の量産改修後、形態一型の機体も二型に再改修される。
  • 形態二型は一型に加えて以下の能力を付与する。
  1. 開発中のIRST(赤外線捜索・追跡装置)の搭載
  2. 統合電子戦システムの搭載
  3. チャフフレアディスペンサをAN/ALE-45JからAN/ALE-47へ換装

計画

F-15J偵察機転用
防衛庁(現防衛省)は2004年(平成16年)12月RF-4E/EJ偵察機の後継機として、Pre-MSIP機のF-15Jを使用した試作改修作業を2005年(平成17年)度からの中期防衛計画で行う予定であると公表した。これはRF-4EJと同様、外装式偵察ポッドの運用能力を追加する改修となる。10~12機程度を改造配備する予定であるが、防衛大綱による作戦機体数の削減(作戦機の30機程度の定数減)のため、現有RF-4E/EJをすべて置き換えるわけではない。RF-4EJの寿命が先に尽きるがこの代替ではなく、続いて老朽廃止となるRF-4Eの代替としての配備となる見通しである。
F-15電子戦機転用
航空幕僚監部では、近年の作戦実行の上で不可欠な電子戦機として、F-15のpre-MSIP機を転用する案を検討している。航空自衛隊ではEC-1YS-11EAを電子戦機として保有しているが、いずれも老朽化している上に、数が少なく速度も遅い為、戦闘機と組み合わせた作戦化に困難がある。これに対して、F-15のうち近代化改修を行わないpre-MSIP機に電子戦機器を取り付ける案が出た。
防衛省技術研究本部2008年(平成20)より「戦闘機搭載型電子防御装置」の開発を始めるとした。計画では、平成20年度から平成24年(2012年)度末にかけてシステム設計と母機改修設計を実施し装置一式と試験装置一式を試作する。また平成22年(2010年)度から平成25年(2013年)度にかけて技術・実用試験を実施、運用環境下での試験を行って性能を確認する。「戦闘機搭載型電子防御装置」は、600ガロン増槽と同じ大きさと形状を持つポッドに収めることが可能であり、母機の飛行性能に何ら影響を与えないとしている。
しかし、課題として、電子戦要員が別に搭乗することが望ましいが複座のDJは訓練用の所定数しか保有しておらず適用可能か、防衛予算削減の中で改修費用を確保できるか、といった点が指摘されている。

配備基地

ソビエト連邦のために日本海側の防衛を重点に置いてきたが、21世紀に入ってからの中国の軍事的台頭への懸念に加え、F-4EJ改の退役が迫っていることから2008年度(平成20)に百里基地の第204飛行隊を那覇基地の第302飛行隊と入れ替えることとなった。百里基地に転属するF-4EJ改は遅からずF-Xへ更新される為、中長期的には首都圏の防空力も向上する。

その他

F-15J被撃墜
1995年(平成7年)に第303飛行隊(小松基地)所属のF-15Jが、ACM(空中格闘戦技)訓練中に僚機のAIM-9の誤射(発射したのは62-8870、なお、撃墜したパイロットがマスターアームを解除し忘れていたことが原因)で、日本海に墜落した。墜落したF-15J(52-8846)のパイロットは被弾直前に脱出して漁船に救助された。この事故機は2007年現在、世界中で唯一航空機によって撃墜されたF-15となっている。
事故
撃墜事故を含めて空自はF-15を合計10機喪失している。特に最初の10年で5機を失っている。最大の事故は1988年(昭和63年)の訓練中に発生した衝突で2機のF-15J(22-8804と22-8808)と当時一尉であったパイロット2名の命が失われた。運用の性質上、空中格闘の訓練中に起こす事故が多い。
2007年(平成19)11月6日に米本土のミズーリ州同州空軍に所属する機体が空中分解事故を起こした。これに対して構造上の問題の可能性が浮上し、防衛省も11月5日に配備しているF-15J及びDJ全機を飛行停止とした。空自は同年10月31日に発生したF-2の離陸直後での墜落・炎上事故により同型機を飛行停止(後に、原因が配線ミスと判明し、各機体の点検作業を行い11月16日以降に順次飛行を再開)としており、この間、航空自衛隊の戦闘機で防空任務に当たれる機体は旧式のF-4EJ改のみとなっていた。
F-4EJ改の後継機関連
旧防衛庁・現 防衛省2005年(平成17)8月より、航空自衛隊F-4EJ改の後継機としてロッキード・マーティンF-22 ラプター、ボーイングF/A-18E/F スーパーホーネットフランスダッソーラファール、国際(西)共同開発のタイフーンと共に、F-15FXF-15E ストライクイーグルの日本仕様)を更新機種候補として挙げている。タイフーン三菱重工でのライセンス生産や国産機器(アビオニクス誘導弾等)の搭載を許容する動きもあるため、F-15FX選択の可能性はまずないと見られていたが、防衛省筋は第4次F-X計画の選定を延期して再度アメリカ合衆国政府にF-22の情報を求めたり、ボーイング社はF-15FXについて既に日本仕様に合わせる用意をしているとコメントしたりと、今の所の情勢は未だ不明である。

サウジアラビア

概要

空中給油中のサウジアラビア空軍所属のF-15
サウジアラビア空軍は長くイギリス製戦闘機、及びイギリス型の部隊編成を行っていた。当時は35機のBAC 167 ストライクマスターや42機のBACライトニングを保有していたが、1977年にライトニングの後継機選定を発表し、最終的にはF-14とF-15の一騎討ちとなり、ライトニングという迎撃戦闘機の後継機に艦載機であるF-14よりは、制空戦闘機であるF-15が適切であるとしてF-15の導入を決定した。導入はアメリカ側で「ピースサンI(Peace Sun I)」と呼ぶ有償軍事援助計画で行われた、
発注した機体はF-15Cが47機にD型が15機の計62機であったが「エジプト・イスラエル平和条約」の合意(キャンプ・デービッド合意)を背景としたイスラエル周辺諸国の軍事的圧力の低下を目指し、サウジアラビアも保有する戦闘機の総数60機との制限を受け、C型46機、D型16機に変更された。発注分から余った2機はマクドネル・ダグラス社が保管し、事故等での消耗分の補充にあてることとなった。引き渡しは1981年から行われ、アラビア半島の西岸に展開する第6飛行隊や東岸に展開する第13飛行隊、ペルシャ湾に面するダーランのキング・アダブル・アジズ基地の飛行隊の、計3個の飛行隊に配備され、同年9月より運用を開始している。1989年にはF-15の生産ラインの閉鎖を目前に、定数を維持するためC/D型12機の追加発注を行った。これらもマクドネル・ダグラス社が保管を行う。
1995年からは、湾岸戦争中に自国内の空軍基地をアメリカ軍に提供する見返りとしてF-15Eの購入を要請し、サウジアラビア向けのF-15Sを調達している。

機体

輸出に際してイスラエル同様にある程度の能力の縮小が行われた。また、サウジアラビア側が希望したコンフォーマルタンクの調達数には制限が設けられ、保有数も上記の様に60機との制約を受けた。

配備基地

  • キング・アダブル・アジス空軍基地
  • プリンス・ファハド空軍基地
  • カミス・ムシャイト空軍基地
実戦参加
  • イラン・イラク戦争中の1984年6月5日に、サウジアラビア領空に接近したイラン空軍のF-4をアメリカ空軍のAWACSがレーダーに捉えた。ペルシャ湾を航行するイラク行きタンカーに攻撃を図っていると判断したサウジアラビア空軍は、2機のF-15を差し向ける。2機のF-15はF-4が進路変更の意思がないとしてスパローを発射し2機を撃墜し、サウジアラビア所属F-15の初戦果となった。その1時間後には、10を超すイラク軍機の接近をレーダーが捉え、サウジアラビア空軍はそれに匹敵する数のF-15のスクランブルを行った。最終的には30以上の目標をレーダーが捉えたがイラク軍機が突如反転したため戦闘は回避された。結果的にアメリカにおける主力戦闘機F-15がその前の主力戦闘機であったF-4を葬り去るという興味深い戦闘であったといえる。
  • 湾岸戦争中の「砂漠の嵐作戦」に参加したF-15がイラク領内でイラク空軍のミラージュF1を2機撃墜した。湾岸戦争において、アメリカ空軍以外で唯一の空対空撃墜であった。なお、湾岸戦争中の1991年の2月にサウジアラビア空軍のパイロットがイラク国内に在住する親類と戦闘したくないという理由で、スーダン亡命した事件が発生している。

各型および派生型

基本型

F-15Cとコンフォーマルタンク
アメリカ空軍のF-15D
F-15A
初期量産型。アメリカ国内外の旧式化したF-104・F-106・F-4等を有する飛行隊に配備された。C/D型の導入後は、戦術訓練航空団等の教育・訓練を行う部隊に配備された。
F-15B(旧称TF-15A)
F-15Aの複座量産型。機種転換訓練などに使用されるが、実戦にも対応している。複座用APG-64を搭載し、内蔵電子妨害装置の省略と内部燃料タンクの小型化により、後部座席のスペースを確保している。
F-15C
生産第4040号機以降となるPEP2000適用機。外見上、F-15Aとの相違は見られないが、内部燃料タンクの増設等が行われている。また、下記の様にFAST PACK搭載能力を有している。
アメリカ空軍は、F-15A/Bの実用テスト期間中に燃料と兵装のバランスを最適化するという評価法を適用した結果より燃料搭載量の増強を要求した。特に機内燃料については、2,000lb(約1,100リットル)の増加により撃墜可能性も戦闘行動半径も約二倍となるしている。その対策案がPEP2000(Production Eagle Package 2000)で、機内燃料の増加とコンフォーマル・パレット搭載のための内部配管の追加、重量増対策としてのタイヤとブレーキの強化を行うものである。
PEP2000自体での採用は見送られたが、マクドネル・ダグラス社が自主開発したFAST(Fuel And Sensor Tactical)PACKと呼ばれるコンフォーマル・パレットは6.43平方メートルの使用可能容積を持ち、増槽とした場合は両側でドロップタンク2.5本となる約5,680リットルの燃料を収納する。着脱は約15分の地上作業で済むが、空中投棄はできない。クリーン状態の抵抗を1とするドラッグ係数はM0.9以下ではフィレット類似の整流効果により1を下回りそこからM1.1前後での1.15まで漸増した後に横ばいとなる。ドロップタンクのM0.8からM1.0直前まで急増した後M1.2までは減少し横ばいとなる特性と比べると巡航性能への寄与は大きいといえる。しかし、F-15Cでは機内燃料量がドロップタンク3本分を超え、進出にドロップタンク、対戦闘機戦闘と帰還に機内燃料を使用できることとなった。このため十分な燃料の確保ができるとし、空中投棄できないコンフォーマル・タンクの実戦での運用回数は少ないという。[9]
もっとも多く生産されたタイプであり、アメリカ国内及び在日米軍・在欧米軍と多くの部隊で配備・運用された。
F-15D
F-15Cの複座量産型。B型と同様に教育・訓練に用いられるが、実戦にも対応。FAST PACK搭載能力を有する。
F-15J
日本向けのF-15C。165機が生産された。C型をベースとしているが、航空自衛隊はFAST PACKを保有していない。前述した通り、垂直尾翼の形状が外見上の違いとして挙げられる。
F-15DJ
F-15Jの複座型。48機が生産された。
RF-15
F-15の偵察機型。偵察用のFAST PACKを装備。1機だけ製造。

派生型

F-15E

F-15E試作機
F-15の制空迷彩から一転、グリーン濃淡のカラーリングに包み直している
F-15及びF-16の出現時期にアメリカ空軍はF-111の後継機として強化型戦術戦闘機(ETF)、後に複合任務戦闘機(DRF)を計画した。これに対してF-15Aの開発段階から制空任務に加えて対地攻撃能力を付加した戦闘攻撃機型の研究を続けていたマクドネル・ダグラス社は、デモンストレーターであったF-15Bの試作二号機にコンフォーマルタンクと爆装を施し、F-15E ストライクイーグルの原型(プロトタイプ)とした[10]
外見的にはF-15B、F-15Dとの違いは見受けられないが、制式採用にあたり機体の約60%を再設計してチタニウムを多用した軽量化と構造強化を行った結果、F-15Cでは30845kgだった最大離陸重量は36,742kgまで引き上げられた。最大搭載重量は11tを越え、通常爆弾や誘導爆弾、空対地ミサイルに加え、核爆弾までも搭載可能となっている。また、F-15B/Dと異なり、後席には操縦装置はなく、航法・対地センサーを操作する武器システム士官が搭乗する。
プロトタイプでのグリーンを基調とした暗い迷彩塗装は制式化に際して夜間・悪天候飛行中に効果的な暗灰色へと変更している。

F-15 S/MTD ~ ACTIVE ~ IFCS

ファイル:F15smtd02.jpg
F-15S/MTD
整備中の「F-15ACTIVE」。原型機を使用しているため、エアブレーキの形状が異なる
1984年よりマクドネル・ダグラス社は「アジャイル・イーグル・プロジェクト」という短距離離着陸機の開発実験計画のために試作11号機(複座型1号機)をアメリカ空軍より借用し「F-15S/MTD[11]に改装した。高迎え角度時の円滑な飛行制御のためにエア・インテイク部分にF/A-18の水平尾翼を流用したカナード翼を取り付け、また、二次元排気ノズルを採用している。二次元排気ノズルは大きなノズル板と小さなノズル板で構成され、噴射方向を上下に自在に変え、さらに小さなノズル板を前方方向へ傾けることで飛行中の急減速を可能とした。この二次元ノズルの技術はF-22にも使用されるなどの成功を収めた。
1993年に空軍からNASAに移管して実験を継続している。ここではF-15S/MTDはF-15ACTIVE[12]と名を改め、航空機自体の操縦性・制御性向上を目指した実験機でとして、エンジンをF100-PW-229に換装しSu-37のような三次元ノズルを取り付け、制御ソフトウェア等も一新の上、1996年4月24日から試験飛行を開始している。
1999年からは実験を「知的飛行制御システム」の開発「ニューラルネットワークプロジェクト」に計画を移行し、それに伴い名を「F-15 IFCS」に改名した。このシステムは搭載する機体に被弾や故障など何らかの異常が発生しても、システムがその異常によって生じた機体への影響をリアルタイムで学習し、生じた変化を自動で処理することで操縦者への負担を0にしようという試みであり、次世代の機体制御システムと期待されている。このシステムはNASAエームズリサーチセンターボーイング 統合防衛システム部門ファントムワークス、ウエストバージニア大学のScientific Research研究所、ジョージア工科大学などが共同で開発を行い、2003年よりシステムの実験を、2005年より改修したF-15にシステムを搭載して実験を行っている。

F-15 MANX

F-15 ACTIVEの尾翼を取り外したタイプ。ただし、実際に製作されることはなかった。

F-15N

F-15の開発段階において1971年7月アメリカ海軍が提出を求めた海軍向け(艦上戦闘機)F-15。AIM-54の運用能力を持ち、主翼の折り畳み機構を持つとした。しかしグラマン社のF-14 トムキャットが飛行試験段階に達していたため、構想のみで終わった。海(海軍)のイーグル「シーグル:Sea Eagle」の愛称で呼ばれた。

スペック

F-15C

F-15三面図
  • 乗員: 1名(B/D/DJ型は2名)
  • 全長: 19.43 m
  • 全幅: 13.05 m
  • 全高: 5.63 m
  • 翼面積: 56.5 (C)
  • 空虚重量: 12,973 kg
  • 最大離陸重量: 30,845 kg
  • 動力: プラット・アンド・ホイットニーF100-PW-220 ターボファンエンジン × 2
  • 推力: 10,640 kgf × 2
  • 最大速度: M2.3 / M2.5 (M2.3以上は1分以内の制約)
  • 巡航速度: M0.9
  • 航続距離: 3,450 km(フェリー)、 4,630 km(増槽)以上、5,750km(CFT装着)以上
  • 実用上昇限度: 19,800m (65,000ft)
  • 固定武装: M61A1 × 1 (6砲身 口径20mm 装弾数 940発)
  • 製造単価、約3,000万ドル

F-15S/MTD

F-15ACTIVE三面図
  • 乗員:2名
  • 全長:19.7m (64.63ft)
  • 全幅:13m (42.83ft)
  • 全高:5.64m (18.67ft)
  • 翼面積:58.2 m2 (C)
  • 空虚重量:12,232kg
  • 最大離陸重量:31,930kg
  • 動力:プラット・アンド・ホイットニー製F100-PW-200ターボファンエンジン×2
  • 推力:63.88kgf×2(アフターバーナー使用時は105.78kgf×2)
  • 最大速度:マッハ2.1
  • 航続距離:4,405km
  • 実用上昇限度:17,750m

F-15ACTIVE

フィクションの小道具としてのF-15

脚注

  1. ^ この際、台湾のF-86が中国のエース王自重操縦のMiG-17をサイドワインダーで撃墜したことは有名
  2. ^ 当時の完成予想図では尾部下面にF-16Su-27の様なフィンを備え、キャノピーの形状も現状のものと異なっていた。
  3. ^ 940発という装弾数はF-4に比べて約50%増しであり、14バースト(1バーストとは約1秒の射撃のこと)の射撃を行える。機関砲の射線は空中戦用途を主として機体の基準線から2度上に向けている。
  4. ^ 名称中のstreakには本来の「電光石火の」という意味に、塗装を剥がす改装からの当時流行した裸で人前を走り回る「ストリーキング」をかけている。
  5. ^ 計画当初はDJ型を含めて100機程度だった
  6. ^ J/DJともに国産化を承認されなかった部品については米国の有償援助で輸入するか同等の国産機器で代替した。また、フィート・インチ法による図面とメートル法による工作機械では細かなずれを生じるために、図面をすべてメートル法で書き直した話もある。現在でも故障した際の修理のために胴体部以外の治具保管をしている。
  7. ^ F-1の後継機候補にF-15も挙がったが、当時米軍未配備のE型ではなくC型ベースであった。
  8. ^ 事故当時は全損同然に見えたためスクラップになると思われていた
  9. ^ 派生型のF-15Eでは戦闘爆撃機として長距離任務が主となるのでより多くの燃料搭載と巡行域での抵抗軽減の利点を認めてコンフォーマルタンクを標準で装備する。
  10. ^ ジェネラル・ダイナミクス社はF-16の胴体にプラグを追加して延長し、クランクト・アロー翼に変更したX-16XLを提案している。
  11. ^ Short take-off and landing/Maneuvering Technology Demonstrator:短距離離着陸/機動技術デモンストレーター
  12. ^ Advanced Control Technology for Integrated Vehicles:先進制御技術統合航空機

関連項目

参考文献

  • ミリタリー・イラストレイテッド25「F-15イーグル」ワールドフォトプレス編:ISBN 4334711987

外部リンク

Template:Link FA