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魏光燾

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魏 光燾ぎ こうとうWei Guangtao1837年 - 1915年)、別名は午庄、字は光邴、号は湖山老人末の政治家。

湖南省隆回出身。1856年湘軍に入り、江西省広西省浙江省福建省などで太平天国軍と戦う。1868年左宗棠に従って、陝西省甘粛省回民蜂起軍と戦う。さらに左宗棠がヤクブ・ベクの乱鎮圧に向かうと、これに従い軍事と政治の両面で支えた。ヤクブ・ベクの乱の平定後に新疆省が設置されると初代の新疆布政使に任命された。

その後、陝西巡撫雲貴総督陝甘総督両江総督、南洋大臣、総理各国事物大臣の職を歴任した。両江総督の在任中には劉坤一張之洞の後を継いで三江師範学堂(現在の南京大学)を開校させた。1905年に引退し郷里に帰った。

著書には『勘定新疆記』『湖山老人自述』がある。