ロベルト・アジャラ
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名前 | ||||||
本名 | ロベルト・ファビアン・アジャラ | |||||
愛称 | エル・ラトン(ネズミ) | |||||
ラテン文字 | Roberto AYALA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1973年4月14日(51歳) | |||||
出身地 | パラナ | |||||
身長 | 177cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム |
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ポジション | DF | |||||
背番号 | 6 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
代表歴 | ||||||
1994-2007 |
![]() | 115 (7) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
オリンピック | ||
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男子サッカー | ||
銀 | 1996 | サッカー |
金 | 2004 | サッカー |
ロベルト・ファビアン・アジャラ(Roberto Fabián Ayala、1973年4月14日 - )は、アルゼンチン出身のサッカー選手。ポジションはDF。元同国代表。リーガ・エスパニョーラ・レアル・サラゴサ所属。
経歴
1992年にフェロカリル・オエステでデビュー後、1994年にリーベル・プレートへ移籍。守備の要として次第に頭角を現し始める。その後、セリエA・ナポリへ移籍して活躍し、ACミランに移籍したが、選手層の厚さもあり常時出場することができなかったため、活躍の場を求めて2000年にバレンシアへ移籍。リーグ優勝に貢献するなど中心選手として活躍した。
契約最終年となる2006年夏、クラブ幹部との契約延長に関するトラブルから移籍はほぼ確実視された。しかし、会長の直談判により、残留を決意。2006-2007シーズンを通して契約延長交渉を行うことになったが、2007-2008シーズンよりビジャレアルCFへの移籍が決定。だが、ガブリエル・ミリートをFCバルセロナに放出し、DFの層が薄くなったレアル・サラゴサがビジャレアルに契約解除金600万ユーロを支払ったことにより、一度もビジャレアルの選手としてプレーしないままサラゴサへの移籍が決まった。サラゴサではDF陣の柱として期待されたが、目立った活躍をすることなくシーズンを終えた。クラブの2部降格により、移籍が噂されている。
プレースタイル
小柄ながらジャンプ力を生かしたセットプレーの強さは圧巻で、素晴らしい高さを誇り、まさに鳥人。審判の見ていないところでの汚いプレーや相手を苛立たせるプレーが得意であるが、DFとしての基本能力は世界トップクラスであり、老獪なマーキングやカバーリングにチーム内から絶大な信頼を置かれている。リーダーシップにも定評があり、アルゼンチン代表では数々の大会で主将を務めた。
非常にアルゼンチン人らしい選手であり、ミラン在籍時代、当時インテル在籍のロナウドに対し、「お前の足をへし折ってやる」と試合中脅し続けたことは有名。そのマランダラージゆえに、ミランサポーターからは嫌われた。
代表での実績
1994年11月16日のチリ戦で代表デビュー。ちなみに、この日はアルゼンチンの名選手、サネッティが代表デビューした日でもある。1996年にはアトランタオリンピックに出場。チームの銀メダル獲得に貢献した。1998年には1998年フランスW杯に出場。チームのベスト8進出に貢献する。2002年には2002年日韓W杯にキャプテンとして出場予定だったが、初戦のナイジェリア戦直前に負傷した影響により出場できず、同国はグループリーグで敗退した。
2004年にはアテネオリンピックにオーバーエイジでキャプテンとして出場。強固なディフェンス陣をまとめあげ、無失点優勝の最大の功労者となった。2006年には2006年ドイツW杯のメンバーに選出され、同国のベスト8進出に貢献した。また、準々決勝のドイツ戦では先制点を決めるが、PK戦でPKを失敗し敗退した。
2007年2月7日対フランス戦に出場し、同国歴代1位となる107キャップを記録しディエゴ・シメオネのもつ代表最多出場記録(106試合)を抜きアルゼンチン代表最多出場記録保持者となった。また、同年に行われたコパ・アメリカにも主将として出場。アルゼンチンは決勝まで勝ち進んだが決勝ではブラジルに完敗し、アジャラもその試合で相手にオウンゴールを献上した。そして、2007年7月17日、「代表でのサイクルは終わったと思う。」と述べこの試合を最後に代表から引退することを発表した。