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始皇帝

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始皇帝(しこうてい、紀元前259年1月 - 紀元前210年7月)は、中国の王ないし皇帝(えい)、(ちょう)、(せい)[1]。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Shǐ Huángdì)または秦始皇(チンシーホワン、Qín Shǐ Huáng)という。

もともとの王であり、紀元前246年 - 紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から中国史上はじめて皇帝と称した。

略歴

出生

政の父、子楚(後の荘襄王)はの人質となっていたが、大商人呂不韋の力を借りて帰国し、秦の王になることができた。このときに子楚が呂不韋の愛人をもらい受け、この愛人が政の生母となる。

しかしその愛人は、子楚に渡されたときにはすでに身ごもっていたと言われる。つまり始皇帝の父親は子楚ではなく、呂不韋であるということになる。この話は当時かなり広く流布していた話らしく、『史記』では呂不韋列伝に事実として書かれているが、秦始皇本紀には書かれていない。司馬遷は両論併記の形をとったのであろう。『史記』秦始皇本紀所収の班固の上書とされる部分では「呂政」と書いて、はっきり始皇帝は秦の王室の血ではないと言い切っているが、これは秦王朝の正統性を否定するためという意味合いが強い。

しかし、同時代の春申君に同様の話があることなどから、事実ではないとする歴史家もある。また、子楚が後見人である呂不韋の愛人に手を出して懐妊させてしまったために、呂不韋がやむを得ず愛人を子楚に差し出したのではと見る歴史家もある。

この話が広く流布した背景には、始皇帝によって滅ぼされた六国の遺民たちの恨みがあり、始皇帝に不利な話が広まる要因になった可能性がある。

政について史記には、鼻が高く、目が長く、声はヤマイヌの如くで、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主と記載されている。

即位

帰国した後は荘襄王を擁立した功績で、呂不韋が丞相として権力を握った。紀元前246年、父荘襄王が死に、13歳にして政が秦王となる。即位後すぐは呂不韋が実権を握り、年若い政はまだ政治は執れなかったが、弟の成キョウの謀反と実母の愛人であるロウアイ(嫪毐)が起こした反乱を鎮圧し、紀元前238年には呂不韋を中央から遠ざけ、親政を始めた。

呂不韋を殺す前に呂不韋の元から李斯を得て、李斯の主導の下に法家の思想から君主独裁、郡県制、厳罰主義をいっそう推し進め、強力な独裁権を手に入れた。また、有能な精鋭だけの軍隊こそ秦にふさわしいとして秦の軍隊の少数精鋭化も断行した。外征面では王翦王賁親子や李信などを起用し、次々と他国を滅ぼした。

紀元前227年太子丹は隣国の趙が秦に滅ぼされ危機感を抱き、起死回生を図って政に対して刺客の荊軻を送りこんだ(巻物の中に剣を隠して政に近づいたとされる。殿中においては剣を抜くことは法令により禁止されていたので家臣は剣を抜けなかった)。政はあわやというところに追い詰められたが、侍医の機転により命拾いをし、荊軻を切り殺した。暗殺されかけたことに怒った政は王賁に命じ、燕を攻めて翌年に滅ぼした。

紀元前221年、六国の中で最後に残ったを滅ぼし、中国を統一した。

統一

戦国時代には、七国の君主すべてがを名乗っていた(ただし一時期、秦王が西帝、斉王が東帝と称したことはあった)。統一という大事業を成し遂げた後の新時代には、そのような旧来の称号はふさわしくないと考えた政は、家臣たちに新しい称号を考えるように命令した。

家臣たちは、「むかし天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の三皇がおり、その中で泰皇が最も尊かったといいます。陛下はこの泰皇の名を取り、新しい称号にすればよいと存じます。」と言った。しかし、政は以前にあった名前を使うことが気に入らず、「泰皇の泰を取り、太古の帝号を付け皇帝と号することにする。」と宣言した。

このときに併せて王命を、王令を、天子の自称を(後に真人に改めた。ただし、使用は始皇帝のみで、彼の死後、再び朕に戻される)と呼ぶことに決めた。更に、諡号の制度は子や臣下が先君を批判することになるので不敬だからと廃止することに決め、以後は自分を始皇帝とし、二世皇帝、三世皇帝...万世皇帝と永遠に続けていくとした。

臣下たちは広大な領土を治めるのには各地に始皇帝の子らを封建して治めさせることを始皇帝に進言したが、李斯はが封建した諸侯に逆に滅ぼされたことを例に挙げて反対し、全国的に郡県制を布くべきだと進言した。始皇帝はこれを容れ、全国を36郡(後に48郡)に分割し、それぞれに守(行政担当)・尉(軍事担当)・監(監察担当)といった官吏を置き、郡の下には県を設置し治めさせることを決めた。そのうえでと呼ばれる交番を制度化して10里ごとに置き、人夫徴発や治安維持、官吏用宿泊施設として役立てた。首都・咸陽には全国の富豪12万戸を強制移住させた。さらに滅ぼした六国の王宮に模した建物を咸陽に建てた。

始皇帝は、民間人の武器所持を禁じ没収し、中国が一つになったことを宣言するために、それを溶かして巨大な像を作った。さらに度量衡(度(長さ)量(体積)衡(重さ)の単位)、貨幣、車の幅を統一(『軌を一にする』の故事)した。また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定めた。そして行幸を重ね、全国の交通の整備を進めた。

ここに、後世の統一王朝の範となる、精密で合理的な支配体制を持つ国家が誕生した。

皇帝として

万里の長城

紀元前214年、北の匈奴に備えるために万里の長城を修復し、将軍蒙恬に30万の兵を与えて北方へ派遣して匈奴を討たせ、オルドス地方に版図を広げた。また罪人を兵として使い、南の嶺南(ベトナム北部)を征服し、ここにも郡を置いた。その際に揚子江の支流・湘江と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河霊渠を築いた。

紀元前213年に李斯の進言により、周王朝の再興を願い秦王朝を批判する儒者達の書物を焼き払わせた。ただし医療や農業などの実用書は許した(焚書)。翌年に不老不死の仙薬作りを命じていた侯生盧生が、仙薬ができないことで恐れて逃亡した。怒った始皇帝は咸陽の学者たちを取り調べて、460人を穴埋めにした(坑儒)。このとき、恐れた学者たちは互いに罪をなすりつけ合った。後に、長子の扶蘇が始皇帝のやり方に対して諫めたが、始皇帝はこれに怒って扶蘇を北方の蒙恬の元へと送り、防衛に当たらせることにした。

始皇帝は自らの領土を大行列を引き連れて巡遊することを好んだ。この巡遊は全部で5回に及び、全国の交通網整備を進めた。この巡遊には、後の天下の覇権争いを行う項羽劉邦が見学しており、項羽は「いずれは天下を奪い取る」と述べ、一方の劉邦は「男はああなりたいものだ」と述べたと伝えられている。

紀元前219年の2度目の巡遊の途中、始皇帝は泰山封禅の儀式を行った。この儀式の方式を古例に詳しい儒家に問うたが、封禅の儀式などは最早太古の昔の話であって儒家の言うこともまちまちになっており、怒った始皇帝は儒家の言うことを無視して、儀式を執り行った。記念として泰山刻石を置いた。

紀元前218年の3度目の巡遊の途中、博浪沙(はくろうさ)に通りかかったときに、突然空から大きな鉄鎚が始皇帝の車めがけて降って来た。張良による始皇帝への暗殺の試みである。鉄鎚は副車に当たり、始皇帝は命拾いをした。怒った始皇帝は犯人の捜索を命じたが、見つからなかった。

晩年

始皇帝は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、統一したころから不老不死を求めて、方士を傍に近づけるようになった。前出の侯生と盧生もそうだが、特に有名なのは徐福である。2度目の巡遊の途中、斉に立ち寄り、徐福に東にあるという蓬莱の国へ行き、仙人を連れてくるようにと命じた。この蓬莱は日本の事を指していると言われ、日本各地に徐福の最期の地といわれる場所がいくつもある(徐福伝説)。

徐福にせよ他の方士にせよ、最初から不老不死などできるとは思っていなかったと思われ、かつて人材を見極めることに驚異的な鋭さを見せた始皇帝も晩年にはこのような人物によいように騙されていた。方士以外でも、始皇帝は悪名高い趙高なども身辺に近づけるようになった。始皇帝は咸陽周辺の数百の宮殿を復道・甬道でつなぎ、あまり表に出ず、趙高などを通して命じることが増えた。

ある時に方士が持ってきた預言書に『秦を滅ぼすものは胡なり』と書かれているのを真に受けて、蒙恬に30万の兵を与えて胡(異民族)を討たせて安心している(この胡は異民族の事ではなく、二世皇帝の胡亥の事だと後に言われた)。

元より体が強くなかった始皇帝は、方士が飲ませた薬(水銀という説がある)でさらに体を悪くしたと思われる。紀元前210年に5度目の巡遊を行い、みずから海へ出て大魚を射殺したが、その直後に発病。咸陽へ帰れないまま、巡遊の途中で死去した。死去したことは趙高によって巡遊の旅が終わるまで隠され、始皇帝の遺体を乗せた車が死臭で臭うことになると、趙高が始皇帝の車の後ろに魚の干物を乗せた車を走らせ、必死に始皇帝の死を隠した。

始皇帝は長子の扶蘇を跡継ぎとする遺言を趙高に渡していたが、扶蘇が二世皇帝になることで自らの身が危うくなることを恐れた趙高と李斯が結託して、胡亥が跡継ぎとなる遺言を捏造した。始皇帝が死んだ翌年には陳勝・呉広の乱が起き、秦は滅亡へと転がり落ちていく。

始皇帝の子孫は、二世皇帝の胡亥の権力を脅かすとして趙高らによりあらぬ罪を着せられて胡亥以外の子孫のほとんどが処刑され、また、胡亥死後に秦王となった子嬰も秦を下した項羽によって処刑されて、根絶やしにされた。

始皇帝の大土木事業

始皇帝は大土木事業を好み、これが外征への負担と並んで民衆を圧迫したため、暴君とされる理由の一つとなっている。ただし、万里の長城建設は必要性の高い事業だった。匈奴は始皇帝の少し後の時代に冒頓単于が立って強大になり、秦を倒した前漢に大勝している。その前から匈奴が強勢になりつつあったからこそ、長城を築き、蒙恬に討たせたと言える。

しかし、首都咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという阿房宮(「阿呆」の語源と言われる)、1974年に一部分である兵馬俑が発見されて、あまりの巨大さに研究者を驚倒させた始皇帝陵の造営などは、必要性に欠けた。財政に負担をかけ、その人夫徴用から陳勝・呉広の乱が生まれたことからして、秦の崩壊の直接的な原因であるといえる。

兵馬俑

歴史的評価

始皇帝に先見性があり有能であったことは、始皇帝を嫌う人でも認めている。始皇帝が非常に人材を好んだエピソードは韓非尉繚子などに対しての話がいくつも残っている。秦が崩壊した原因の一端は間違いなく始皇帝にあるが、その一方でもし始皇帝がこの時代にいなければ、中国の統一は実現されず、分裂したまま歴史が進んだのではないかとも推測できる[2]

儒教を元にした伝統的な立場からは、焚書坑儒を行った始皇帝は悪逆非道であり、暴君の中の暴君と位置づけられていた。しかし最近では、始皇帝はそれまでの封建的な世界を法の下に近代的な国家へと生まれ変わらせたとして、肯定する意見も出てきている。それまでとはまるで違った社会を誕生させたのは、始皇帝の才能による部分も大きいのは事実であるとの評価もある。前漢後漢を合わせて約400年続いたのは、秦からの成果を(秦とは異なって)民衆の恨みを受けることなく受け継いだことによる部分が大きい。

とはいえ六つの文化背景の異なる国を統一した後の急激な中央集権化、当時の官吏たちの資料から伺える厳格な法治主義、統一まもない内からの大掛かりな造作などが、被征服民のみならず自国の民衆の反感をかったことは事実であり、始皇帝が伝統的イメージ程ではないにせよかなりの独裁者であったことは事実である。また、さまざまな厳しい法律の強化によって多くの民衆を虐待したのみならず、自分のやり方に反対する者を誰として許さず、自分を諌めた者たちに対して容赦ない仕打ちを加えたり、焚書に関しても、秦を除く国々の識字層(=政治に預かる立場の人々)からの憎悪を招くこととなり、彼らが秦を見限る要因ともなった。

中華人民共和国建国後の中国では、文化大革命発動後の林彪失脚を受けての批林批孔運動の高まりの中、始皇帝、焚書坑儒を階級闘争であると規定し、讃美する論文が続出した。魯迅も、始皇帝の焚書坑儒を、ナチス焚書とは明白に区別しており、肯定的に評価している。

そもそも、史記は秦王朝を倒した勢力のひとつである漢王朝の立場から書かれており、多くの歴史書は前王朝の支配者を悪く書くことは常套手段であることも考慮すべきである。始皇帝が完全な暴君であれば、統一を完成した際に秦に多くの有能な人材が存在してという事実は説明にくいのである。また、自分に反対しない人材は活かそうとしたことは、殉死を行わず兵馬俑を作らせたことでも簡単に推察できる。

始皇帝に関する書籍、作品

演じた俳優

(日本)

(中国・香港)

  • チアン・ウェン(統一から死まで):「異聞・始皇帝謀殺」(1996年)
  • 李雪健(ただし、統一前):『始皇帝暗殺』(1998年、陳凱歌監督)
  • 陳道明(ただし、統一前):『HERO-英雄』(2003年、張芸謀監督)

脚注

  1. ^ 『史記』秦始皇本紀には、名は「政」、姓は「趙」氏であった、と記されている。これについて『史記』の注釈である史記集解、史記索隠は、月にの邯鄲で生まれたことに由来するという解釈を紹介している。
  2. ^ 作家陳舜臣は、「始皇帝がいなければ、中国はヨーロッパの様な分裂した国家群になっていただろう」と述べている。

関連項目

外部リンク

先代
荘襄王
前246年 - 前221年
次代
先代
皇帝
前221年 - 前210年
次代
二世皇帝