コンテンツにスキップ

バリ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。SieBot (会話 | 投稿記録) による 2008年8月7日 (木) 02:45個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ロボットによる 追加: mr:बाली)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

バリ島の位置
バリ島の位置

バリ島 (Bali) は、東南アジアインドネシアに属する。首都ジャカルタのあるジャワ島のすぐ東側に位置する。 人口は約320万人である。

言語はバリ語であるが、放送などは公用語のインドネシア語であり、子どもたちは小学校入学前からこれを学ぶため、老人などを除き、インドネシア語会話に不自由がない。それどころか、バリ語は敬語表現が複雑かつ厳密なため、使い慣れないランクの敬語を使わなければならない相手とは、あえてバリ語を避けてインドネシア語を使うこともあるという。

宗教はバリ・ヒンドゥーが有名だが、イスラム教(回教)信者の増加が著しい。キリスト教徒もいる。

バリ島の ランドサット衛星写真

歴史

ジャワ原人の故地であるジャワ島に隣接し、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心に文明が開けていたと推定されるが、4世紀に移動して来たヒンドゥー教に属する人々が来てから大きく発展した。

9世紀頃から独自の王朝を築いていたことが資料から窺えるが、常にジャワ島の政権の影響下にあり、1342年マジャパヒト王国に侵攻された後はその支配下にあった。16世紀にマジャパヒト王国が、イスラム勢力により衰亡すると、ジャワ島から独立し、ゲルゲル王国が成立し、東進するイスラム勢力に対抗した。17世紀になると、オランダ東インド会社を始めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これと言った特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配下で、バリ人による自治を保った。

19世紀帝国主義的風潮の下、オランダはバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下におき、最後まで残った1908年バリ島の名目的支配者であったクルンクン朝ププタンにより滅ぶ)を滅ぼし、全土を植民地とした。オランダは、各地の王族を通した間接支配を行い、灌漑・道路等農業設備を整理しアヘンやコーヒーと言った商品作物の栽培を奨励する一方で、奴隷制の廃止、学校の設営、風俗改革(裸身の禁止)等ヨーロッパ的近代化政策も実施した。また、この当時、バリ島の風俗がヨーロッパに紹介され、それに魅せられたヨーロッパの芸術家が来島、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴンケチャ等)、絵画の様式が確立する。

クルンクン県西部バンジャランカン郡に残る旧日本軍の防空壕

太平洋戦争時、バリ島は日本の占領下にあったが、戦傷者のための戦時病院を開設したくらいで、住民への弾圧などはなかったため、対日感情は現在に至るまで良い。終戦後、オランダの再支配に対して抵抗した。殊にゲリラ部隊を率いて壮烈な戦死を遂げたグスティ・ングラ・ライ(Gusti Ngurah Rai)中佐は、英雄としてその名を国際的な玄関口であるングラ・ライ空港デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめている。スカルノらの活躍により、蘭領インドネシアは1949年オランダから独立し、1950年バリ島はインドネシア共和国に参加する。参加当初から、宗教問題が最大の問題であったが、インドネシア政府の繊細な配慮の下(観光による外貨獲得が最大の目的であった可能性は大であるが)、独自の文化を維持しつつ世界的観光地へと成長した。

テロリズム

欧米人、日本人と言った先進国の裕福な観光客が集まり、かつ、異教徒であるヒンドゥー教圏であることからイスラム過激派による国際テロリズムの格好の標的とされている。特に2001年アメリカ同時多発テロ事件以降、以下の大きな無差別テロ事件が発生しており、観光業に深刻な影響を与えるなど、政府は対応に苦慮している。

地理

面積は5,633k㎡。アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する小スンダ列島の西端にあり、大スンダ列島に属するジャワ島に接している。西にバリ海峡を挟んでジャワ島、東にロンボク海峡を挟んでロンボク島と一列に島が並んでいる一部。バリの海岸からジャワ島が見える程(バリ海峡の最も狭いところは3kmほどである)近い。

バリ・ヒンドゥーにおいて信仰の山とされるアグン山(3,142m)やキンタマーニ高原で知られるバトゥール山など多くの火山を有し、バトゥール山近辺には温泉も湧出している。

気候

サバナ気候であり、雨季(10月~3月)と乾季(4月~9月)の区別が明瞭である。

農業

バリの市場(パサール)
ブサキ寺院の風景
道を行く人
影絵芝居に使う操り人形、ワヤン・クリ
水利、灌漑
島は、以前は砂漠の島だったと言われ、島の中央の山に湖があるものの、水は全て北側に流れて行き、南側は乾燥していた。この湖の水をトンネルを掘って南側に導き、この水の流れを計画の元に分岐しながら水量を計算通りに振り分けて行き、島の南側全体を緑にあふれる土地に改造した。
この水を管理する技術は今も使われており、島は食糧が豊富に育つ。例えばは二期作から三期作が可能で、そのため人々は余裕を持った生活をすることができて、農民は朝夕それぞれ2、3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなどの芸術的な創作活動に当てられ、バリは芸術の島として世界的に知られている。バリ舞踊、その伴奏にも使われるバリガムラン、舞踊芸術のケチャが有名である。

地方自治体

バリ島と付属の島で、第一級地方自治体(Daerah Tingkat I)であるバリ州を構成する。

民俗、宗教

祭事、儀礼

また、宗教的な活動にも多く時間を使われ、毎日小さな島のどこかで祭が行われていることでも知られる。現在、観光的に知られたため観光の事業を目的とした人々がジャワ島から移って来ておりイスラム教徒が増えているが、伝統的なバリ人はヒンドゥー教に属しバリ・ヒンドゥーと呼ばれる独特な伝統を伝えている。

人の頭をさわったり、頭の上に手をかざすのはマナー違反である。

生活

バリ人は非常に精神的に満足した人々が多いといわれる。ヒンドゥー教の教えや風習はかなり色濃く残されており、店や家の前には毎朝チャナンと呼ばれるお供え物をする。また村のお祭りなどは頻繁に目にすることができる.バリ人はお祭りが大好きだと言う話はよく耳にする話であるが、バリ人にとってのお祭り(ウパチャラ)とは宗教的な儀式であり、現在の日本人がもつお祭りのイメージとは異なる。 現在のバリでは西洋文化は巧みに取り込まれており、街では携帯電話を手にメールを打つ姿なども多く見られる。また、島民の移動手段は主に原動機付き自転車である。西洋の文化と独自のヒンドゥー教文化が混在する島、それがバリである。

また、近年は物質文明・近代文明のしがらみに疲れた西洋人や日本人がバリに長期滞在しバリの文化を学んで行くケースも多い。数ヵ月から数年バリに滞在する西洋人や日本人には、絵画音楽彫刻ダンスなどを学んでいたり、自分達独自の芸術的な活動をしている人々が目に付く。 また、最近ではサーフィンで生計を立てている者も多く、サーフショップやサーフガイド、またはサーフィン関連のスポンサーから収入を得ているプロサーファーも多い。

伝承

踊りで有名なウブドの隣の村であるプリアタンの王族に伝わる話によると、バリ人はそもそも、モンゴルの付近に住んでいた民族から始まる。高貴な白い肌をした女性と、低い身分の黒い肌をした男性が恋に落ちることから話が始まる。

それは、恥ずべきであったので二人は駆け落ちすることになり、チベットの付近に暮らすことになる。そこでしばらく民族として定着した後に、インド側へ山を降りて北インドに暮らす。北インドでもまた民族として定着して暮らしていたが、やがて東南アジアに移動して、バリに来る直前はジャワ島に暮らしていたと言う。

しかし、ジャワ島にイスラム教が入って来て攻撃をするので、バリ島へ移動したと言う。伝説では、当時はジャワ島とバリ島は陸続きだったのを陸橋を切ってバリを独立した島にしたと言う。

教育

大学

  • 国立ウダヤナ大学
  • 国立インドネシア芸術大学デンパサール校

文化

  • バリ博物館

観光

リゾートホテルのヴィラ

芸能・芸術の島として世界的に有名で、かつ、早くからビーチリゾートが開発されてきたため、世界的な観光地となっており、島の貨幣経済は観光収入で成立していると言っても過言ではない。先進国の経済的価値を基準として比較すると物価水準がかなり低廉であるため、日本の比較的若年層でも十分楽しめることも人気の一要素で、東南アジア各地のビーチリゾートのモデルとなっている。また、この島はサーフィンのメッカのひとつで、乾季・雨季を問わず良質な波を求めて世界各国からサーファーが訪れる。サーフポイントも多くあり波質もさまざまである。また、スキューバダイビングのスポットとして有名な海辺がある。トランベンという、日本軍が沈めたアメリカの輸送船リバティ号が沈んでいるスポットもダイバーの中では大変有名である。また、海辺のリゾートの印象だけでなく、山側のリゾートとして、ウブドという村があり、ここでは、質の高いバリ舞踊やバリアート、バティック等の染色技術、竹製の製品等、伝統的な文化や民芸品を見ることができる。

訪れる観光客で一番多いのが日本人であり、二番目は豪州人である。

バリ島では、バリヒンドゥーの人々が住む村々でバンジャールと呼ばれる、いわゆる相互扶助組織が発達し、この組織に属することで小さい頃から隣人との助け合いの心を身につけている。そして喧嘩を好まない。このような背景に起因することも相まって、住民の性格は大変温厚である。また、インドネシア政府も観光収入を確保するため治安の維持に力を入れており、衛生面も観光客には問題のないレベルを保っている。

観光地

ウルワツ寺院

リゾート、ビーチ

遺跡

島には、仏教系の遺跡も多く、一時はヒンドゥー教徒と仏教徒が住んでいたと思われる。

治安

日本人女性が滞在することに気軽さがある印象から、主にクタ等の海辺のバーなどでの詐欺、一般観光客のお金を狙った盗みや騙しがあとを立たない。また、ジゴロと呼ばれる日本人女性を狙ったナンパ行動もあるため、日本人女性の観光客は注意するべきである。これらの犯罪は、バリ人の仕業であると解釈されがちであるが、バリ人自身は被害者意識を持っていることも多く、実はバリ島の観光客目当てで周辺の島から移民してくる出稼ぎの若者であることも多いとされるが、実態は不明である。金銭面での価値観が異なる観光客の金回りの良さがこれらの発生をさらに助長している可能性もある。先進国と発展途上国のつきあい方の価値観や理解、行動感覚のバランスやモラルも必要とされる。このような背景から、犯罪や出会いを求めた観光地としての日本でのネガティブな報道も多いことも否めない。このような問題に対するインドネシア政府の努力が求められている。

交通

島外との交通

島内交通

  • 鉄道 - なし
  • 道路 - 主要都市を結びながらほぼ海岸に沿って一周する道路がある。内陸部は、特に島の大部を占める南斜面の河川が南北に深く谷を刻んでいるため、道路が南北に発達しており、東西の道路はあまりない。村と村を結ぶ道路や、村内の各地域を結ぶ道路はほぼ舗装されており、自動車の通行に問題はない。住民の主たる交通手段は、オートバイである。
  • バス - 冷房付きのバスが、毎日数本観光客向けに運転されており、島内の観光地を結ぶ。
  • ベモ - 住民の主たる公共交通機関。
  • タクシー - デンパサール周辺にはメーター付きタクシーがある。
  • チャーター車 - メーター付きでない「タクシー」である。料金は乗車時に交渉する。
  • オジェック - バイクタクシー。

バリ島の周辺

西に隣接するジャワ島はイスラム教徒が多い。東に隣接するヌサ・トゥンガラ州もイスラム教徒が多い。ただし、ロンボク島のササック族などにはキリスト教徒も多い。

関連用語

関連書籍

鬱とアル中に悩む主人公(中島らも本人をモデルとしていると思われる)が、バリ島を訪ね神秘的体験を通じこころの安定を得る。
解離性同一性障害(多重人格)の病気を持った少女マリカとジュンコ先生との物語。バリ島旅行が舞台。また、吉本ばなな自身がこの作品を執筆するにあたって、バリ島で取材時の記録が「バリ夢日記」として書かれている。

関連人物

  • 熊田曜子(テレビ番組の企画で2005年度バリ島親善大使に選ばれた)

外部リンク

Template:Wikitravel