全久院 (豊橋市)
所在地 | 愛知県豊橋市東郷町117番地 |
---|---|
位置 | 北緯34度46分2.467秒 東経137度24分44.023秒 / 北緯34.76735194度 東経137.41222861度 |
山号 | 仙壽山(仙寿山) |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 永正11年(1514年) |
開基 |
戸田憲光 開山は克補契嶷 |
文化財 |
正法眼蔵(一部分)、宝慶記、 羅漢供養式稿本残巻 |
法人番号 | 2180305002853 |
全久院(ぜんきゅういん)は愛知県豊橋市にある曹洞宗の寺院である。山号は仙壽山(仙寿山)。戸田全久入道(宗光)や戸田(松平)康長の正室松姫(共に信州松本神社の祭神)の菩提寺でもある。本尊は釈迦如来坐像。
歴史
供養されて居る戸田全久(宗光)は戸田氏中興の祖と呼ばれる武将である。戸田氏(二連木系嫡流は戸田松平家)は尾張国海部郡戸田荘を本拠とした清和源氏とされる。ただし、戸田全久の父は伝承によると正親町三条家からの養子と言われる戸田綱光である。寛正6年(1465年)、三河国の守護大名細川成之は額田郡牢人一揆を鎮圧するため京の室町幕府へ頼み、第8代征夷大将軍足利義政の命により政所執事伊勢貞親被官戸田宗光(後の全久入道)や義父松平信光により乱は収まった。この後、戸田全久は西三河から尾張国知多郡にかけて勢力を持ち始める。応仁の乱{応仁元年(1467年)-文明9年(1477年)}の末期、東三河へ進出。文明7年(1475年)、三河国渥美郡大津村(現在の愛知県豊橋市老津町字西高縄)の大津城(高縄城)へ入城。郡代一色政照の養子分と成り、田原城(同県田原市田原町巴江)や二連木城(同県豊橋市仁連木町)を築城し、三河国渥美郡(朝倉川南岸から渥美半島)の統一を果たす。好敵手は今橋城(同県同市今橋町)の牧野古白入道の牧野家であった。永正5年6月19日(1508年7月16日)、戸田全久は鬼籍に入り、永正11年(1514年)に嫡男戸田憲光がかの亡父のための菩提寺として克補契嶷(こくほけいぎ)禅師の開山で二連木城の西に開いたのがこの全久院である。
憲光の孫戸田康光は牛久保城(豊川市牛久保町)へ移り、光国舜玉禅師開基で天文15年(1546年)牛久保に全久院を建立した。そして墳墓地と成った。
また、最後の二連木城主で後に信濃国松本藩(長野県松本市)主となった戸田(松平)康長の正室松姫(徳川家康生母於大の方の再嫁先(久松氏)の娘)もこの全久院で埋葬されたと伝わる。
天正18年(1590年)、神君関八州移封と時に、三河を去る戸田家は荒廃していた牛久保全久院を現在地(豊橋市東郷町)に移転した。
明治4年(1871年)戸田宗家の戸田(松平)光則が神道を重んじて松本城下の全久院を破却したため、什宝や古文書が豊橋の全久院へ引き継がれた。
昭和の太平洋戦争の豊橋空襲で山門など消失。また、昭和時代には双葉保育園(創立時は幼稚園)を有していた。
文化財
- 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)山水経第二十九、十方第四十五 - 宗祖道元筆の「山水経」と二祖懐奘筆の「十方」(共に正法眼蔵の一部)が残る。
- 宝慶記(ほうきょうき) - 曹洞宗第二祖懐奘の真筆本。いわゆる全久院本である。宝慶とは中国南宋の元号である。
- 羅漢供養式稿本残巻(らかんくようしきこうほんざんかん) - 道元筆
アクセス
豊橋鉄道東田本線(市内線)東田駅(安全地帯がないので注意)あるいは東田坂上駅
所在地
愛知県豊橋市東郷町117番地 (東田町字東郷とも)