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スクーデリア・フェラーリ

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フェラーリ
エントリー名 Scuderia Ferrari Marlboro
チーム国籍 イタリア
チーム本拠地 イタリアマラネロVia Ascari,55-57 41053
チーム代表者 ステファノ・ドメニカリ
テクニカルディレクター アルド・コスタ
ドライバー {{{2024ドライバー}}}
テストドライバー {{{2024テストドライバー}}}
シャーシ {{{2024シャーシ}}}
エンジン {{{2024エンジン}}}
タイヤ {{{2024タイヤ}}}
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1950 -
出走回数 765
コンストラクターズ
タイトル
15(1961, 1964, 1975,
1976, 1977, 1979, 1982,
1983, 1999, 2000, 2001,
2002, 2003, 2004,2007)
ドライバーズ
タイトル
15(1952, 1953, 1956,
1958, 1961, 1964, 1975,
1977, 1979, 2000, 2001,
2002, 2003, 2004,2007)
優勝回数 205
通算獲得ポイント 3865.5
表彰台(3位以内)回数 611
ポールポジション 200
ファステストラップ 209
F1デビュー戦 1950年モナコGP
初勝利 1951年イギリスGP
{{{前年度}}}年順位 {{{前年度順位}}}
(記録は2008年第7戦終了時)
テンプレートを表示
ファイル:Felipe Massa 2007.jpg
フェラーリ・F2007(2007年)

スクーデリア・フェラーリScuderia Ferrari)は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリモータースポーツ部門である。F1コンストラクターとして、現在はメインスポンサーであるタバコブランド「マールボロ」の名を冠し、「スクーデリア・フェラーリ・マールボロ」(Scuderia Ferrari Marlboro)が正式名称となっている。

なお、イタリア語の「Scuderia」とは厩舎の意味から転じた、英語の「Team」に当たる言葉である。カタカナ表記に当てはめる場合は「スクデリーア」(にアクセントを置く)とした方がより近いが、日本では「スクーデリア」と表記されることが多く、注意が必要である。

概要

60年以上の歴史

スクーデリア・フェラーリは、一貫してシャーシとエンジンを内製してきたフルコンストラクターであり、レーシングチームとして60年以上に渡り活動を続けている(現在の母体企業であるフェラーリ社も、スクーデリア・フェラーリの活動資金を得るために高級スポーツカーを市販したのが始まりである)。同社は自社敷地内にピスタ・ディ・フィオラノFiorano Circuit)と呼ばれるテストコースまで所有しており、F1を始めとして、過去にF2スポーツプロトタイプによる耐久レースなど、様々なカテゴリーで成功を収めている。

「F1の象徴」

F1世界選手権創設時から参戦を続ける唯一のチームで、2007年までに最多の15回のコンストラクターズタイトルを獲得している。アルベルト・アスカーリニキ・ラウダクレイ・レガッツォーニジル・ヴィルヌーヴアラン・プロストイワン・カペリミケーレ・アルボレートジャン・アレジミハエル・シューマッハキミ・ライコネンなどの名ドライバーが幾多の名場面を演じ、9人がワールドチャンピオンに輝いている。通算最多勝・最多出走など、数多くのタイトルと記録を保持するフェラーリはまさにF1の象徴といえる存在であり、世界に名を轟かすものとしてF1界に君臨している。

歴史

創成期

ニュルブルクリンクに並ぶ
FLと歴代F1マシン
(第10回フェラーリ・トラック・デー
2003 / 7 / 23)

1929年アルファ・ロメオのレーシングドライバーエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に創設し、アルファ・ロメオのセミワークスチームとして活躍した。1938年ワークス・チームへ吸収されるが、翌年エンツォが経営陣との対立から会社を去る。第二次世界大戦後の1947年にフェラーリ社を興し、レーシングカーと市販車の製造を始めると、再び「スクーデリア・フェラーリ」の名でレース界に参入。ミッレ・ミリアル・マン24時間耐久レースなどのメジャーイベントに勝利し、強力な新興勢力となった。

1950年代

1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファ・ロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切られた。1951年イギリスグランプリで、フロイラン・ゴンザレスが、それまで出走した全てのGPで勝利を獲得してきたアルファ・ロメオを初めて破り、初勝利を獲得した。この際、エンツォは歓喜とともに「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らした。

アルファ・ロメオが撤退し、F2規定下で行われた1952年1953年は独壇場となり、アルベルト・アスカーリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌年も連覇を達成した。アスカーリの個人9連勝、チームの14連勝は最多連勝記録として今なお破られていない(当時選手権対象だったインディ500に不参加のため、出走レースという条件付きの記録)。

メルセデス・ベンツの後塵を拝した後、1956年にはファン・マヌエル・ファンジオが加わり、ランチアから譲り受けたマシン(フェラーリ・ランチア)で自身4度目の王座を得た。ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場となる。1958年はエンツォの遺児の名を冠した「ディーノ」V6エンジン搭載車でマイク・ホーソンがチャンピオンを獲得したものの、初代コンストラクターズタイトルをヴァンウォールに奪われた。さらに旧態な設計思想が災いし、クーパーの軽量ミッドシップマシンの台頭を許した。

シーズン マシン エンジン タイヤ ドライバー 勝利数 PP ポイント WCC
1950年 125F1
375F1
1.5LSC V12
4.5L V12
P アルベルト・アスカリ 0 0 - -
ルイジ・ヴィッロレージ
1951年 375F1 4.5L V12 P アルベルト・アスカリ 3 3 - -
フロイラン・ゴンザレス
ペーター・ホワイトヘッド
ルイジ・ヴィッロレージ
1952年 500F2 2.0L 直4 P アルベルト・アスカリ 7 7 - -
ピエロ・タルッフィ
ジュゼッペ・ファリーナ
1953年 500F2 Tipo106
2.0L 直4
P アルベルト・アスカリ 8 6 - -
マイク・ホーソーン
ジュゼッペ・ファリーナ
ピエロ・タルッフィ
1954年 553F1 Tipo107
2.5L 直4
P アルベルト・アスカリ 2 2 - -
フロイラン・ゴンザレス
マイク・ホーソーン
ジュゼッペ・ファリーナ
ピエロ・タルッフィ
1955年 555F1 Tipo106
2.5L 直4
EN フロイラン・ゴンザレス 1 2 - -
ジュゼッペ・ファリーナ
ピエロ・タルッフィ
エウジェニオ・カステロッティ
1956年 D50 2.5L V8 EN ファン・マヌエル・ファンジオ 5 6 - -
ピーター・コリンズ
ウォルフガング・フォン・トリップス
ルイジ・ムッソ
エウジェニオ・カステロッティ
1957年 801F1 2.5L V8 EN マイク・ホーソーン 0 0 - -
フロイラン・ゴンザレス
ピーター・コリンズ
ウォルフガング・フォン・トリップス
ルイジ・ムッソ
1958年 246F1 Tipo143
2.4L V6
EN マイク・ホーソーン 2 4 40 2
ピーター・コリンズ
フィル・ヒル
ウォルフガング・フォン・トリップス
ルイジ・ムッソ
1959年 246F1
256F1
Tipo155/19
2.4L V6
2.5L V6
D フィル・ヒル 2 2 32 2
ウォルフガング・フォン・トリップス
トニー・ブルックス
ジャン・ベーラ

1960年代

フィル・ヒルと"シャークノーズ"
156 F1(1962年 ニュルブルクリンク

1961年、再び規定変更が幸いして、初のコンストラクターズとドライバーズ(フィル・ヒル)の2冠を制したが、地元イタリアGPウォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み死亡、14名の犠牲者を出す悲劇に見舞われた。1964年は、しぶとく戦ったジョン・サーティースが、最終戦の最終周回での逆転劇で2冠をもたらした。

しかし1960年代は押し並べてロータスなどの英国勢に先行され、チーム運営も内紛や経営不安などで混乱した。1962年には主要幹部が脱退し、翌年新チームATSを結成(フィル・ヒルも移籍する)。さらに買収交渉の決裂に端を発し、フォードがF1界へフォード・コスワース・DFVエンジンを送りこみ、フェラーリ包囲網が敷かれることになる。1969年、フェラーリ社は経営安定のためフィアット傘下に入り、市販車部門の管理を委ねたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォが手綱を離さず、建て直しを図った。

シーズン マシン エンジン タイヤ ドライバー 勝利数 PP ポイント WCC
1960年 256F1 Tipo171
2.5L V6
D フィル・ヒル 1 1 24 3
リッチー・ギンサー
ウォルフガング・フォン・トリップス
ホセ・フロイラン・ゴンザレス
クリフ・アリソン
ウィリー・メレス
1961年 156F1 Tipo178
1.5L V6
D フィル・ヒル 5 6 40 1
リッチー・ギンサー
ウォルフガング・フォン・トリップス
リビエ・ジャンドビアン
ジャンカルロ・バゲッティ
1962年 156F1 Tipo178
1.5L V6
D フィル・ヒル 0 0 18 5
ジャンカルロ・バゲッティ
リカルド・ロドリゲス
ロレンツォ・バンディーニ
ウィリー・メレス
1963年 156F1 Tipo178
1.5L V6
D ジョン・サーティース 1 1 26 4
ウィリー・メレス
ロレンツォ・バンディーニ
ルドヴィコ・スカルフィオッティ
1964年 158F1
1512F1
Tipo205B
1.5L V8
Tipo207
1.5L F12
D ジョン・サーティース 3 1 45 1
ロレンツォ・バンディーニ
ルドヴィコ・スカルフィオッティ
ペドロ・ロドリゲス
1965年 158F1
1512F1
1.5L V8
1.5L F12
D ジョン・サーティース 0 0 26 4
ロレンツォ・バンディーニ
ニーノ・バッカレラ
ペドロ・ロドリゲス
1966年 312F1 Tipo218
3.0L V12
D ジョン・サーティース 2 3 31 2
ロレンツォ・バンディーニ
ルドヴィコ・スカルフィオッティ
マイケル・パークス
1967年 312F1 Tipo242
3.0L V12
F クリス・エイモン 0 0 20 4
ロレンツォ・バンディーニ
ジョナサン・ウィリアムス
1968年 312F1 Tipo242C
3.0L V12
F ジャッキー・イクス 1 4 32 4
クリス・エイモン
アンドレア・デ・アダミッチ
デレック・ベル
1969年 312F1 Tipo255C
3.0L V12
F ペドロ・ロドリゲス 0 0 7 5
クリス・エイモン

1970年代

1976年ドイツグランプリ予選中のニキ・ラウダ312 T2
明くる決勝日、クラッシュによる猛火に包まれ、重い火傷を負うことになる。

新たに開発された「ボクサー」と呼ばれる水平対向12気筒エンジンが、名門復活の鍵となった。1973年に弱冠25歳のルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年から加入したニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1970年代後半にチームは黄金期を迎える。横置きトランスミッションを採用したマシン、312Tシリーズで1975年からコンストラクターズ・タイトルを3連覇。ラウダも瀕死の大事故に遭いながら、1975年と1977年のチャンピオンに輝いた。

1979年ジョディー・シェクタージル・ヴィルヌーヴのコンビが活躍し、ダブルタイトルでボクサー黄金期を締め括った。ヴィルヌーブは往年の名手タツィオ・ヌヴォラーリの再来と呼ばれ、ティフォシのアイドルとなった。

シーズン マシン エンジン タイヤ ドライバー 勝利数 PP ポイント WCC
1970年 312B Tipo001
3.0L F12
F ジャッキー・イクス 4 5 55 2
イニャツィオ・ジュンティ
クレイ・レガツォーニ
1971年 312B2 Tipo001-1
3.0L F12
F ジャッキー・イクス 2 3 33 4
クレイ・レガツォーニ
マリオ・アンドレッティ
1972年 312B2 Tipo001-1
3.0L F12
F ジャッキー・イクス 1 3 33 4
クレイ・レガツォーニ
マリオ・アンドレッティ
アルトゥーロ・メルザリオ
1973年 312B3 Tipo001-11
3.0L F12
G ジャッキー・イクス 0 0 12 6
アルトゥーロ・メルザリオ
1974年 312B3 Tipo001-12
3.0L F12
G クレイ・レガツォーニ 3 10 65 2
ニキ・ラウダ
1975年 312T Tipo015
3.0L F12
G クレイ・レガツォーニ 6 9 72.5 1
ニキ・ラウダ
1976年 312T
312T2
Tipo015
3.0L F12
G ニキ・ラウダ 6 5 83 1
クレイ・レガツォーニ
カルロス・ロイテマン
1977年 312T2 Tipo015
3.0L F12
G ニキ・ラウダ 4 2 95 1
カルロス・ロイテマン
ジル・ヴィルヌーヴ
1978年 312T2
312T3
Tipo015
3.0L F12
M カルロス・ロイテマン 5 2 58 2
ジル・ヴィルヌーヴ
1979年 312T3
312T4
312T4B
Tipo015
3.0L F12
M ジョディー・シェクター 6 2 113 1
ジル・ヴィルヌーヴ

1980年代

ドイツグランプリで優勝を飾った
ミケーレ・アルボレートと156/85
1985年8月2日)

ルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを採用し、弱点のシャーシ設計でも、英国系技術の導入を進めた。1982年1983年のコンストラクターズを連覇したが、ドライバー間の対立が暗い影を落とした。1982年のサンマリノGPディディエ・ピローニの背信行為に怒ったヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中、冷静さを欠いた走りが事故を招いてしまい死亡。その後ピローニもドイツGPのフリー走行中に両足を粉砕骨折する重傷を負い、F1キャリアを断たれた。

それ以降は久々のイタリア人エース、ミケーレ・アルボレートが奮闘したが、ターボ開発競争でポルシェホンダのエンジンに苦杯を舐めさせられた。1988年8月には創始者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。1ヵ月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーマクラーレン・ホンダの連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げた。この後、エンツォの死によりスクーデリア・フェラーリの運営権もフィアットが握ることになる。

1989年ナイジェル・マンセルが加入し、V12自然吸気エンジンと斬新なセミオートマチックトランスミッションを採用したマシンで上昇気流に乗る。1990年にはアラン・プロストアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げた。惜しくもタイトルを逃したが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成した。


シーズン マシン エンジン タイヤ ドライバー 勝利数 PP ポイント WCC
1980年 312T5 Tipo015
3.0L F12
M ジョディー・シェクター 0 0 8 10
ジル・ヴィルヌーヴ
1981年 126CK Tipo021
1.5L V6 ターボ
M ジル・ヴィルヌーヴ 2 1 34 5
ディディエ・ピローニ
1982年 126C2 Tipo021
1.5L V6 ターボ
G ジル・ヴィルヌーヴ 3 3 74 1
ディディエ・ピローニ
パトリック・タンベイ
|アメリカマリオ・アンドレッティ
1983年 126C2B
126C3
Tipo021
1.5L V6 ターボ
G パトリック・タンベイ 4 8 89 1
ルネ・アルヌー
1984年 126C4 Tipo031
1.5L V6 ターボ
G ミケーレ・アルボレート 1 1 57.5 2
ルネ・アルヌー
1985年 156/85 Tipo031
1.5L V6 ターボ
G ミケーレ・アルボレート 2 1 82 2
ルネ・アルヌー
1986年 F186 Tipo032
1.5L V6 ターボ
G ミケーレ・アルボレート 0 0 37 4
ステファン・ヨハンソン
1987年 F187 Tipo033D
1.5L V6 ターボ
G ミケーレ・アルボレート 2 3 53 4
ゲルハルト・ベルガー
1988年 F187/88C Tipo033E
1.5L V6 ターボ
G ミケーレ・アルボレート 1 1 65 2
ゲルハルト・ベルガー
1989年 640 Tipo035
3.5L V12
G ナイジェル・マンセル 3 0 59 3
ゲルハルト・ベルガー

1990年代

カナダグランプリで、自身のF1キャリアで唯一となる優勝を手にした、ジャン・アレジと412T2
1995年6月

1991年も引き続きプロストが残留し、新たにジャン・アレジを起用し、タイトル奪還を目論んだ。しかしエンジンパワー不足やエアロダイナミクスの失敗、さらにはチーム内が混乱したこともあって好調は維持できなかった。(1990年スペイングランプリのプロストの勝利から1994年ドイツグランプリのベルガーの勝利までの3シーズン半、1勝もできないフェラーリ史上最長の低迷期に陥った。)1992年の「F92A」は勝利どころか完走すらままならず、ここ最近では最悪な年になってしまう。1993年はマクラーレンから移籍したベルガーを据えるが、ベルガーやアレジの力走も結果に結びつかない日々が続いた。この危機にルカ·モンテゼーモロがフェラーリ社社長として再登場し、1993年フランスグランプリからチームマネージャーにジャン・トッドを据え、体制の抜本的改革を進めた。1996年には切り札として、若くして2年連続チャンピオンに輝いていたミハエル・シューマッハを招聘した。

この抜本的改革は見事に当たり、フェラーリチームの復活の第一歩を踏み出し、徐々に成果が出始めた。まず、シューマッハが1996年スペイングランプリでのフェラーリ移籍後初勝利を筆頭に初年度に3勝し、信頼を得ると、1997年からは自身の腕前と得意のピット戦略でウィリアムズ・ルノーやマクラーレン・メルセデスに対抗し、僅差のタイトル争いを繰り広げた。また、1997年からは、ベネトン時代のロス・ブラウンロリー・バーンらスタッフを招き、自らを中心とする一枚岩の体制(チーム・シューマッハ)を構築した。が、1997年・1998年はともに最終戦でタイトルを逃していた。1999年には16年ぶりにコンストラクターズ·タイトルを獲得した。その一方で、1999年のシーズン途中でF399の風洞開発を止め、マシンの熟成をそれ以上行なわないで、代わりにF1-2000の開発を進めていったこと[1]が功を奏し、2000年にはコンストラクターズと合わせて、21年ぶりのドライバーズタイトルをミハエル・シューマッハによって獲得した。(ミハエル・シューマッハとフェラーリのコンビで、この後、5年連続でダブルタイトルを取り続けることになり、黄金期を確立する。)


シーズン マシン エンジン タイヤ ドライバー 勝利数 PP ポイント WCC
1990年 641
641/2
Tipo036
Tipo037
3.5L V12
G アラン・プロスト 6 3 110 2
ナイジェル・マンセル
1991年 642
643
Tipo037
3.5L V12
G アラン・プロスト 0 0 55.5 3
ジャンニ・モルビデッリ
ジャン・アレジ
1992年 F92A
F92AT
Tipo040
3.5L V12
G ジャン・アレジ 0 0 21 4
イヴァン・カペリ
ニコラ・ラリーニ
1993年 F93A Tipo041
3.5L V12
G ジャン・アレジ 0 0 28 4
ゲルハルト・ベルガー
1994年 412T1
412T1B
TipoE4A-94
Tipo043
3.5L V12
G ジャン・アレジ 1 3 71 3
ニコラ・ラリーニ
ゲルハルト・ベルガー
1995年 412T2 Tipo044/1
3.0L V12
G ジャン・アレジ 1 1 73 3
ゲルハルト・ベルガー
1996年 F310 Tipo046
3.0L V10
G ミハエル・シューマッハ 3 3 70 2
エディ・アーバイン
1997年 F310B Tipo046/1B
Tipo046/2
3.0L V10
G ミハエル・シューマッハ 5 3 102 2
エディ・アーバイン
1998年 F300 Tipo047
3.0L V10
G ミハエル・シューマッハ 6 3 133 2
エディ・アーバイン
1999年 F399 Tipo048
3.0L V10
B ミハエル・シューマッハ 6 3 128 1
ミカ・サロ
エディ・アーバイン

2000年代

F2004(2004年)

タイヤ開発が鍵を握る時代に、フェラーリはブリヂストンタイヤと密接な関係を築き、他チームを圧倒する空前の黄金期を迎えた。コンストラクターズ・チャンピオンシップを1999年から2004年まで6連覇、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズ・チャンピオンシップ5連覇(2000年から2004年にかけて5年連続ダブルタイトル)の偉業を成し遂げた。2002年カナダGPでF1通算150勝に到達し、そのシーズンは17戦中15勝、2004年も18戦中15勝と、「最強チーム」の名をほしいままにした。

しかし、2005年は、新型マシンである「F2005」がレギュレーションへの対応に失敗、21世紀になって初めてタイトルをルノーフェルナンド・アロンソにあけ渡してしまう。翌2006年フェリペ・マッサが加入するが、新車の信頼性不足などのために序盤で落としたレースが多く、シーズン全体的に安定感を見せていたルノー+アロンソに再び敗れた。2006年末には11年間在籍したシューマッハが現役を引退。他のロス・ブラウンなどの主要メンバーの人事異動を含め、ひとつの節目を迎えた。

2007年はシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入し、マッサとコンビを組んだ。シューマッハもスーパーアドバイザーとしてチームと新たな関係を結び、ヨーロッパラウンドの数戦はレースに帯同した。シーズン序盤は信頼性に苦んでライバルのマクラーレンに後れを取ったが、一連のスパイ疑惑事件でマクラーレンがコンストラクターズ部門から除外されたために同チャンピオンを早々と確定させる。中国GPでF1通算200勝を達成、そして最終戦ブラジルGPにおいてライコネンが逆転でワールド・チャンピオンに輝き、コンストラクター&ドライバーの二つの栄冠を奪還することに成功した。なおブラジルGPではマッサも2位にはいって1-2フィニッシュを遂げ、最終的なシーズンポイントを204としてマクラーレンが除外されなかった場合の203ポイントを1ポイント上回り(但し、ハンガリーGP分の剥奪ポイントも含めた両ドライバーの単純合計では、マクラーレンは218ポイントとなる)、トラック上の争いでもコンストラクターズチャンピオンにふさわしいチームであったことを証明して見せた。また、この年の年末にはチーム代表がジャン・トッドからステファノ・ドメニカリに交代した。

2008年フランスGPではライコネンが通算200回目のポールポジションを獲得した。

シーズン マシン エンジン タイヤ ドライバー 勝利数 PP ポイント WCC
2000年 F1-2000 Tipo049
3.0L V10
B ミハエル・シューマッハ 10 10 170 1
ルーベンス・バリチェロ
2001年 F2001 Tipo050
3.0L V10
B ミハエル・シューマッハ 9 11 179 1
ルーベンス・バリチェロ
2002年 F2001B
F2002
Tipo050D
Tipo051
3.0L V10
B ミハエル・シューマッハ 15 10 221 1
ルーベンス・バリチェロ
2003年 F2002B
F2003-GA
Tipo052
3.0L V10
B ミハエル・シューマッハ 8 8 158 1
ルーベンス・バリチェロ
2004年 F2004 Tipo053
3.0L V10
B ミハエル・シューマッハ 15 12 262 1
ルーベンス・バリチェロ
2005年 F2004M
F2005
Tipo053
Tipo055
3.0L V10
B ミハエル・シューマッハ 1 1 100 3
ルーベンス・バリチェロ
2006年 248F1 Tipo056
2.4L V8
B ミハエル・シューマッハ 9 8 201 2
フェリペ・マッサ
2007年 F2007 Tipo056
2.4L V8
B フェリペ・マッサ 9 9 204 1
キミ・ライコネン
2008年 F2008 Tipo056
2.4L V8
B キミ・ライコネン 5 6 111 1
フェリペ・マッサ

ドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー

エンジン供給

レッドブル・RB2(2006年)

かつては門外不出であったフェラーリエンジンであったが、近年は下記のチームにカスタマー仕様で供給されている。

イベント・CM

1981年には、その年のレースカー126CKとジェット戦闘機F-104スターファイターで競走するというイベントを開催している。ともに静止状態から並んで同時にスタートし1,000m走るというこのレースは、ジル・ヴィルヌーヴが運転する126CKが勝利している。

1998年、走行中のF1マシンが空中給油機から給油を受ける、という実写CM(スポンサーであるロイヤル・ダッチ・シェルグループのCM)を放送し話題になる。

2003年12月11日にも、その年のレースカーであるF2003-GAにて、ジェット戦闘機ユーロファイタータイフーンとの競走というイベントを再度開催。F2003-GAの運転はミハエル・シューマッハが行った。イタリアのバッカリーニ空港で行われたこのレースは、600mではF2003-GAが勝利したが、900mと1,200mではユーロファイターが勝利。雨天もありユーロファイターの2勝1敗という結果になった。

2006年トリノオリンピック開会式では、リアウィングに五輪マークが描かれた2005年度のマシン・F2005をリザーブ兼テストドライバーのルカ・バドエルがステージ上でドライブ、ドーナツターンを披露して観客を沸かせた。

また毎年10月の末から11月の初めにはムジェロ・サーキットにおいて「ファン感謝デー」ともいうべき「ファイナリ・モンディアリ」というイベントが行われる。

ティフォシ

熱狂的なフェラーリファンのことをティフォシ(tifosi)と呼ぶ。これはイタリア語で「熱狂的スポーツファン」「チフス患者」の意味を持つ「ティフォーゾ(tifoso)」の複数形であり、元々はフェラーリファンを特定するものではなく、更にその熱狂振りに対する侮蔑表現を含んでいるため、彼らは自らのことを通常フェラリスタと呼ぶ。地元開催に当たるイタリアGPにおいては、来場したティフォシによってサーキットのあるモンツァが赤く染まるほどである。しかも彼らはフェラーリがリタイアするとレース途中でもさっさと帰ってしまう(テレビ視聴者はテレビを消してしまう)。フェラーリが走っているのがF1であり、フェラーリのいないレースなどレースではない、とする彼らの意思表示であろう。

F1以外のレース活動

1950年代よりル・マン24時間レースミッレミリアカレラ・パナメリカーナ・メヒコなどの公道レースや耐久レースを中心に活躍し、1960年代にかけて数々の勝利を飾ってきたが、1970年代以降はワークスとしての活動を事実上停止している。

関連項目

人物

現在のドライバー
主要な関係者

スポンサー/技術協力

過去の主要スポンサー
  • ボーダフォン - 2002年から2006年の5年間スポンサーを務めた。2007年からライバルチームであるマクラーレンのスポンサー。
  • Agip - 1974年から1995年までガソリンおよび各種オイルを供給
  • パイオニア - 1991年から1997年まで無線機器を供給。

外部リンク

  1. ^ Sports Graphic Number』(文藝春秋)「688号」 p.45