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フアン・ロマン・リケルメ

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フアン・ロマン・リケルメ
名前
愛称 ロマン、ロミー
カタカナ フアン・ロマン・リケルメ
ラテン文字 Juan Román RIQUELME
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1978-06-24) 1978年6月24日(46歳)
出身地 ブエノスアイレス
身長 182cm
体重 75kg
選手情報
在籍チーム ボカ・ジュニアーズ
ポジション MF
背番号 10
利き足 右足
代表歴
1997- アルゼンチンの旗 アルゼンチン 46 (17)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フアン・ロマン・リケルメJuan Román Riquelme1978年6月24日 - )は、アルゼンチン出身、同国代表サッカー選手。ポジションはMFボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)に所属。

卓越したゲームメイクのセンスを持ち、現在のサッカー界では絶滅寸前と言われるクラシックなゲームメーカーである事から恐竜と称されることがある。

略歴

キャリアの始まりとボカ

アルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織でキャリアをスタートさせる。当時のポジションは中盤の底のボランチ。アルヘンティノスの練習場近くに住んでいた元アルゼンチン代表監督のカルロス・ビラルドに見出される。その後ボカ・ジュニアーズがアルヘンティノスの下部組織を吸収したことによってボカに移籍。ポジションを現在のトップ下に替える。デビュー戦は1996年11月10日のウニオン・デ・サンタフェ戦。

1998年、カルロス・ビアンチの監督就任によって、ボカの10番を背負いレギュラーに定着。トヨタカップを頂点に数々のタイトルを獲得し、マラドーナ後の10番としてボカの歴史でも有数の人気を得た。そんな中、弟であるクリスティアンが身代金誘拐されるという事件が起こる。無事に解放されたものの母国への絶望感、数年に渡るマウリシオ・マクリ会長との確執などから欧州への移籍を要求。アルゼンチンリーグでのプレーを拒否するという行動に出た。

FCバルセロナ

その後2002年7月に移籍したFCバルセロナでは不遇の時を過ごすこととなる。移籍初日の記者会見にてルイス・ファン・ハール監督から「君は私の望んだ選手ではない」と前代未聞の宣告をされ、いざシーズンがスタートしても戦術至上主義のファン・ハールのサッカーとはまるで水が合わず、ベンチを暖める日々が続く。ファン・ハール解任後に就任したラドミール・アンティッチ監督からも信頼を勝ち取れず、クラブ低迷打開の救世主として違いを見せることはできないまま欧州初挑戦のシーズンを終える。2003年夏、ロナウジーニョが移籍してくるとクラブは彼の付けていた背番号10を説明も無く取り上げ、EU外枠が埋まったことを理由に1軍練習から締め出すという行動に出る。このような扱いを受けても決して腐らずに黙々と練習し、その姿はシャビパトリック・クライファートから賞賛される。8月に同じスペインビジャレアルCFへのレンタル移籍が決定した。

ビジャレアル

このビジャレアルで復活と躍進を遂げる。2003-2004シーズン途中、監督がベニート・フローロからマヌエル・ペジェグリーニに代わると戦術も彼を最大限に活かすいわゆる「王様サッカー」に移行。チームの中心として輝きを取り戻し始め、クラブ史上初となるUEFAカップのベスト4進出に貢献。

2004-2005シーズンはディエゴ・フォルランとのコンビで旋風を巻き起こし、リーグ戦では2人で40得点を叩き出した。 2年連続出場となったUEFAカップはベスト8、リーグ戦はクラブ最高位の3位で終えてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得するという大躍進のシーズンとなった。

2005-2006シーズンにはビジャレアルへと完全移籍を果たす。チャンピオンズリーグではベスト4進出の原動力となったが、彼自身のPK失敗によってチームの敗退が決定的となるという悲劇も味わう。

2006-2007シーズンは、ペジェグリーニやビジャレアル首脳陣との確執などによってメンバーから外される事が多くなり、2007年2月9日に古巣ボカへの復帰(レンタル移籍)が発表された。

ボカ復帰

レンタル復帰

かつての王様の帰還をボカファンは大歓迎し、彼もそれに結果で応えていく。盟友マルティン・パレルモとのコンビネーションは健在で、パレルモのゴールの大多数をアシスト。コパ・リベルタドーレスでの活躍は圧巻で、グレミオとの決勝戦では5得点全てに絡む活躍を見せチームを4年ぶりの優勝に導いた。

ビジャレアル残留

ボカとのレンタル期間が終了し、所属はビジャレアルへ。
ボカはリケルメの完全復帰を目指しビジャレアルにオファーしたが、受け入れられなかった。他にもアトレティコ・マドリードからオファーがあり、リケルメ本人もマドリードまで出向き移籍交渉をしたが実現はしなかった。ビジャレアル側の「リケルメ構想外」の姿勢は変わらず、練習だけに参加する3ヶ月を送る。

完全移籍

2007年11月30日、正式にボカに3年契約で完全移籍した。クラブワールドカップ出場を望みながらも、出場選手登録の期限が11月23日であったため、大会への出場はかなわなかった。それでも日本への遠征には帯同し、“裏方”としてチームを支える役回りを果たした。

アルゼンチン代表

ユース代表での活躍は目覚しいものがあったが、A代表では1997年にデビューするものの、なかなかレギュラーに定着できずにいた。しかし2004年に就任したユース時代からの恩師ホセ・ペケルマン監督から絶大な信頼を受け、チームの主柱として活躍。2006年ドイツW杯では敬愛するディエゴ・マラドーナのナンバーである10番を背負った。チームはベスト8で敗退したが、自身は5アシストを記録しW杯アシスト王に輝いた。W杯後に新監督として就任したアルフィオ・バシーレ監督にはキャプテンを任され、代表での存在感は更に高まった。しかし2006年9月12日、彼への過剰なバッシングに耐えられなくなった母親がW杯以降2度も病院に運ばれ、病状が悪化したことを理由に同国代表からの引退を表明。「何よりも大事なのは家族」と彼らしい決断であった。2007年に入ると、母親の病状が安定したとの情報もあり代表復帰が噂されるようになる。2007年6月21日、コパ・アメリカのメンバーに選出され正式に代表復帰した。

プレースタイル

足裏でボールを操る技術(ピサーダ)は世界でも指折り。 絶対的なキープ力とボディバランスをほこり、足元にボールが入った場合はファウル以外ではほぼ奪取できず、そこから相手を引き付けて繰り出される長短含めたパスは世界屈指。 得点力もかなりのもので、リーガ・エスパニョーラに於いて毎シーズン10ゴール以上は決めている。ドライブのかかった強烈なミドルシュートが武器。プレースキックの精度も大変高く、彼を擁するチームのセットプレーは相手チームの大きな脅威となる。フリーキックに加えてオリンピックゴール(コーナーキックを直接ゴールに決めること)も得意としている。チャンピオンズリーグ・アーセナル戦での失敗のイメージが強いが、実際はPKの名手である。
融通が利かないプレースタイルは弱点でもある。現代サッカーは選手を「11人の中の1人」として扱うことが基本だが、リケルメの場合彼を中心としたチーム作りでなければ本領を発揮できない上、チームの好不調が彼の出来に反映されがちなので自己犠牲や戦術を重視するマルセロ・ビエルサやファン・ハールといった監督の下では起用される機会が少なかった。
基本的に守備には参加せず全力で走る事も無い。仲間がボールを奪ってくれるのを待つのみである。

彼の伝説のプレーとしては、ボカ時代に見せたルーレットに股抜きを混ぜたようなものがある。

嘗てボカ・ジュニアースで同僚であった高原直泰は、これまでに出会ったパサーの中でパスの精度が最も高いと感じた選手にリケルメを挙げている。高原曰く、「走り出すと数センチ単位で欲しい所にボールが来る。見事と言う他ない」。

人物

  インタビューで「好きな選手は?」との問いには必ず「アイマール」と答える。そのアイマールも「好きな選手は?」との問いには必ず「リケルメ」と答える。

  • 引退後はアイマールの地元のクラブで一緒にプレーするという計画があるらしい(アイマール発案)。
  • カルロス・テベスは弟のような存在。
  • ゴール後にするトッポ・ジージョポーズが有名だが、これの起源として「娘が好きだから説」と「(ボカ在籍時に揉めていたマウリシオ・マクリ会長に対して)ファンの声が聞こえるかという挑発説」がある。後者の説は親しい友人たちによって暴露されてしまったものである。
  • ラテン音楽であるクンビアを愛聴している。
  • インタビューなどは苦手だが、メディアへの対応をこなすうちにかなり改善された模様。

評価

所属クラブ

タイトル

オリンピック
男子 サッカー
2008 サッカー

ボカ

前期リーグ - 優勝(1998年、2000年)
後期リーグ - 優勝(1999年)

ビジャレアル

アルゼンチンU-20代表

個人タイトル

関連項目

先代
ロマーリオ
南米年間最優秀選手
2001
次代
ホセ・カルドーソ