コンテンツにスキップ

フェルナンド・トーレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Jidane (会話 | 投稿記録) による 2008年9月28日 (日) 12:27個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (出場回数)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

フェルナンド・トーレス
名前
本名 フェルナンド・ホセ・トーレス・サンス
愛称 エル・ニーニョ
ラテン文字 Fernando TORRES
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1984-03-20) 1984年3月20日(40歳)
出身地 マドリード
身長 186cm
体重 78kg
選手情報
在籍チーム イングランドの旗 リヴァプール
ポジション FW
背番号 9
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2001-2007
2007-
アトレティコ・マドリード
リヴァプールFC
214 (82)
37 (27)
代表歴2

2003-
スペイン U21
スペインの旗 スペイン
10 (3)
57 (17)
1. 国内リーグ戦に限る。2008年9月28日現在。
2. 2008年6月30日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フェルナンド・ホセ・トーレス・サンスFernando José Torres Sanz, 1984年3月20日 - )は、スペインマドリード出身のサッカー選手。プレミアリーグリヴァプール所属。ポジションはFW

人物

1998年のヨーロッパの最優秀U-15プレイヤーに選出されるなど、若くして才能を開花させ、「El Niño (エル・ニーニョ)」の愛称を持つ。スペイン語で「Niño」は少年を指し、本来「ひとりの少年」は「Un niño (=A kid)」であるが、限られた才能を持つ者は、「唯一の者」という意を込めて「El Niño (=The Kid)」と呼ばれ(通常「El Niño」はイエス・キリストを指すことから、日本ではトーレスの愛称を「神の子」と訳すこともある)、国民やメディアの期待の程が窺える。

ブロンドの髪の毛に端整な顔立ちのため、女性からの人気がある。

略歴

アトレティコ時代
リヴァプール時代

マドリードの郊外で生まれ、家族ら周囲の影響から幼い頃からアトレティコ・マドリードのファンとして育ち、自身も室内サッカーでのプレイを経て1998年、11歳の時に入団する。1998年に行われたクラブのユースチームが対戦するナイキカップでは、チームのU-15代表としてレアル・マドリードFCバルセロナACミランマンチェスター・ユナイテッドユベントスらのユースチームと対戦し優勝に貢献し、早くからその才能の片鱗を見せつけ、翌1999年には15歳で幼い頃からのアトレティコ・マドリーとの契約という夢を実現させた。

2001年にはU-16欧州選手権にスペイン代表として出場し、得点王と最優秀選手を獲得し同国の優勝に大きく貢献した。その年の5月27日には早くもアトレティコのトップチームでのデビューを果たし、1週間後には初めて得点を記録した。

2001-2002年シーズンは36試合に出場し6得点。チームはトップリーグへの復帰を果たす。また各年代のスペイン代表に選出され、2001年のU-17世界選手権では3試合で1ゴールでグループステージでの敗退を喫するものの、2002年に行われたU-19欧州選手権ではU-16欧州選手権に続いて得点王と最優秀選手を獲得する活躍で優勝に導いた。

2002-2003年シーズンには、トップリーグでのデビューを果たし29試合に出場、13得点を記録し、翌2003-2004年シーズンには若干19歳にしてキャプテンに任命され35試合に出場、自身最多となる19得点を記録し飛躍のシーズンとなった。またクラブの順位も7位まで上昇した。EURO2004代表にも選出され、初のA代表で臨む国際大会であったが2試合に途中出場、1試合に先発出場するも得点を上げることは出来ずグループステージ敗退に終わった。

2004-05シーズン、2005-06シーズンも引き続きキャプテン、エースストライカーとしてプレイし、それぞれ38試合出場16得点、36試合出場13得点を記録し、2006年にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップ代表に選出され参加。グループステージでは3得点を記録しベスト16進出に貢献した。

2006-2007シーズンは36試合出場14得点を記録。5シーズン連続で10得点以上を記録しキャプテンとして牽引したものの、念願のUEFAチャンピオンズリーグ参戦は果たせず、シーズンオフに同胞のラファエル・ベニテスが監督を務め、チャンピオンズ・リーグの常連であるイングランド、プレミアリーグリヴァプールへの移籍を決断した。

2007-2008シーズン、リーガ・エスパニョーラとよりフィジカルなサッカーが展開されるプレミアリーグのスタイルの違いから活躍を疑問視する声が上がったものの、アンフィールドで行われたチェルシーFC戦で先制弾を放つなど順調なスタートを切りゴールを量産。一躍コップ[1]のアイドルとなり、リーグ戦24ゴール、シーズン33ゴールの成績でシーズンを終えた。

EURO2008では、レギュラーとしてビジャと2トップを組み、2得点を挙げた。パートナーのビジャの故障により決勝のドイツ戦はトーレスの1トップとなったが、前半33分にシャビのスルーパスから、先にコースに入ったラームを外側から持ち前のスピードで強引に追い抜き、飛び出してきたレーマンの鼻先で体勢を崩しながらも、ループシュートを決めた。結局このゴールが決勝点となり、大会優秀選手にも選ばれた。

逸話

  • アトレティコ時代には、「バルサキラー」の異名を持っていた。バルセロナ戦では必ずといっていいほどゴールを決めていたこと(バルセロナが連覇した2004-2005、2005-2006シーズンはすべて彼のゴールにより敗れている)がその所以である。
  • アトレティコ・マドリード時代の対FCバルセロナ戦では度々スペイン代表DFカルレス・プジョルを振り切る場面があった。
  • その一方でアトレティコ・マドリードのシンボルでありながら、最大のライバルであるレアル・マドリードとのマドリードダービーでは得点ができない期間が続いた。2006-2007シーズンにようやく待望のゴールを挙げ、ダービーで得点できないエースというイメージを過去のものとした。
  • 一時期にはスペインのアントニオ・カッサーノと呼ばれていた[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
  • 頻繁に髪形を変えることでも有名で、本人曰く気分転換とのことだが、EURO2004に出場した際に変えた髪形が「スパゲティみたい」とファンに不評だったため[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。同大会の2試合目からは髪を切って出場している。
  • リヴァプール入団以前から、地元の友人らとアトレティコと共にリヴァプールFCを応援していたとインタビュー等で明らかにしており、アトレティコ時代着けていたキャプテンマークの裏にはリヴァプールの応援歌「You'll never walk alone」をもじった「We'll never walk alone」がプリントされていた。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
  • リヴァプール移籍後も変わらずアトレティコ・マドリーのサポーターであることを宣言しており、将来的には復帰する可能性があることを認めている。
  • 移籍当初英語が不得手だったため適応を疑問視されたが、同胞のホセ・マヌエル・レイナシャビ・アロンソが公私にわたって惜しみなくサポートしたため見事に活躍することが出来た。
  • スピードのあるイングランド式のサッカーが非常に合うらしく、逆にスペインサッカーの展開の遅さに強烈なフラストレーションを感じていたらしい[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
  • プレー中はユニフォームをパンツに入れずに外にだす。
  • 長袖の着用が多く、イングランドでは夏以外は1年間を通してほとんど長袖である。
  • 間合いを詰めてきた相手の背後にスペースを見つけ、縦にボールを蹴り出し、相手を外側から抜き去るメイア・ルアと呼ばれるテクニックを得意とする。

代表

スペインでのユーロ2008優勝パレードの様子。

2003年9月6日(土)に行われた国際親善試合の対ポルトガル戦でデビュー。

タイトル

脚注

  1. ^ リヴァプールFCのホームスタジアム、アンフィールドのゴール裏スタンド