コンテンツにスキップ

岡田彰布

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ねこまほ賢 (会話 | 投稿記録) による 2008年10月31日 (金) 08:02個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。


岡田 彰布
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市東区(現・中央区
生年月日 (1957-11-25) 1957年11月25日(66歳)
身長
体重
175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1979年 ドラフト1位
初出場 1980年4月11日 大洋戦(甲子園
最終出場 1995年10月2日 近鉄戦(神戸
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手内野手)。阪神タイガース前監督。

愛称は、現役時代は「ノムカン」(野村克也藤山寛美を足して2で割ったような顔をしているため)。現在は「どんでん」。

経歴

アマチュア時代

大阪市中央区で工場を経営していた父親が、村山実藤本勝巳阪神タイガースの選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育つ。幼稚園児の頃に、当時のタイガース三塁手三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。岡田が阪神入団後、背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。

1972年明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山実の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める。

1973年北陽高校に進学し、1年生で夏の甲子園に出場。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。3年生の夏は大阪府大会決勝で興国高校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

早稲田大学野球部のセレクションを受け、15打数14安打14本塁打という驚異的な打撃をみせて合格。早大では1年生秋からレギュラーに入り、法政大学江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは主軸に定着し、1979年春の大会では主将として東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。

大学時代の成績と記録

  • リーグ通算88試合出場、309打数117安打、20本塁打、81打点、打率.379、通算打点81

(打点と打率は東京六大学リーグ記録)

東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は加熱。1979年秋のドラフト会議では6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。

プロ時代

入団一年目の1980年ドン・ブレイザー監督による「岡田はまだ新人。じっくり鍛えた方がいい」という考えや、ヤクルトスワローズから獲得したデイヴ・ヒルトンを二塁で使うという意向で、キャンプ時から岡田には三塁や外野の練習をさせていた。オープン戦から結果を残せなかったヒルトンは案の定シーズン開幕直後から不振に陥ったが、守備を評価して起用し続けた。その後三塁の掛布雅之が負傷しても岡田の起用を見合わせたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には身重の夫人が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが目に見えて激しくなった。そこで球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。その後、出場機会が増え、新人王につながったが、自らの力でチャンスを掴みたいという気持は当然強かったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールがわいたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。

1981年には初めて全130試合に出場し20本塁打、1982年には初の3割を記録。1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月に足の肉離れを発症し、残りのシーズンを棒に振る。以後、脚部の負傷に悩まされる事になる。

1984年平田勝男の台頭により真弓明信が二塁に回ったため外野へコンバート(ランディ・バース帰国時等に時折一塁も守った)。しかし外野手としては事実上この1年のみで、翌年からは真弓と入れ替わりに二塁に戻る。

1985年には選手会長兼5番打者として打率.342、35本塁打、101打点の好成績で、真弓、掛布雅之ランディ・バースらとともに球団初の日本一に貢献。特に4月17日での甲子園での巨人戦ではバース、掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを行い、一発のある好打者として活躍した。8月には打率.429、10本塁打、31打点でプロ入り初の月間MVPを受賞し、さらに、9月15日の甲子園での中日戦でサヨナラ2ラン本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打と2試合連続サヨナラを記録。バックスクリーン3連発前日の巨人戦でも1-2で迎えた4回裏2アウト、四球で出塁した岡田は佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し大量7点の猛攻へとつなげ、吉田義男監督も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。

またこの年の8月12日、当時の球団社長だった中埜肇日本航空機墜落事故で死亡するという悲劇も起こる。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きく、この事故の直前に生まれた息子に向かって「お前が生まれた年にこんな大事故があったんやぞ!」と泣き叫んだという。

1989年、掛布の引退に伴い大学時代に守っていた三塁にコンバート。6月25日甲子園での巨人戦、1-4で迎えた8回裏2アウト満塁でビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の藤田元司巨人監督の目の前で、敗戦投手だった村山実監督の仇討ちを果たした。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメートのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞。1990年からは八木裕の台頭により二塁に戻る。

1992年日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り一塁にコンバートされたが、新庄剛志亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振により先発出場は激減。代打に亀山努を送られた場面もあった(後述)。

1993年、体力の衰えから戦力外通告を受けて阪神を自由契約になり、仰木彬監督のオリックス・ブルーウェーブに移籍。移籍直前、週刊誌上で愛人問題を暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、のちに狂言と判明し、自称「愛人」の女が恐喝容疑で逮捕された。

1995年、10年ぶりに優勝を経験し、現役引退。

コーチ時代

1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。

1998年、二軍助監督兼二軍打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。

1999年、阪神二軍監督兼二軍打撃コーチ。ここでの育成選手達が後に主力選手に成長する。

2000年2002年、阪神二軍監督(専任)。2年連続日本一となった。

2003年、一軍内野守備走塁コーチ。三塁ベースコーチを担当し、判断の良さには定評があった。

監督時代

2003年オフ、星野仙一監督が健康問題のため勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。就任の挨拶は「期待してもらって結構です」。

2004年、監督初年度は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加えジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ・マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、更にジェロッド・リガンの負傷と鳥谷敬の抜擢やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムス安藤優也藤本敦士の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。

2005年9月7日中日ドラゴンズとの2ゲーム差での首位決戦において、9回一打サヨナラ負けのピンチに監督就任後初めてマウンドへ向かう。ここで、クローザー久保田智之にかけた言葉は「お前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャ放れ!」。岡田に闘魂注入された久保田は後続を連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制す。この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日の落合博満監督に「今日は監督で負けた」とまで言わせた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ねる一方、中日は阪神との次の直接対決を待たずに失速。2005年シーズンの明暗を分ける一戦となった。9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成。奇しくも優勝当日は亡父の誕生日であった。

しかし、日本シリーズ千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にJFKジェフ・ウィリアムス藤川球児久保田智之)をリードされているからという理由で起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。

11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、見事にサヨナラ2ラン本塁打を打ちMVPに輝いた。

2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6000円(1セット約9000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。

2007年6月8日の対オリックス・バファローズ戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害をめぐり球審谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日ドラゴンズ戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[1]

2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピック野球日本代表に主力である新井貴浩矢野輝弘藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、故障者の続出や読売ジャイアンツの追撃などもあり、一時は13ゲーム差をつけていたが終盤で逆転され、ペナントレース優勝を逃し、このシーズン限りでの退任を発表した。そして、セ・リーグクライマックスシリーズ第1ステージで1勝2敗に終わり、第1ステージ敗退が決まり、このシリーズが最後の指揮となってしまった。試合終了後、選手・コーチから、監督を務めた年の数と同じ、5回胴上げされた。ちなみに、この胴上げは、赤星憲広選手会長の計画であった。

監督としての岡田彰布

監督としては博打より堅実を重視し、堅実にいって負けたら仕方がないというスタンスである。競馬も「本命党」とデイリースポーツの競馬予想で答えている。2004年にピッチングコーチを務めた佐藤義則が退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈したほど。我慢強いというよりは統計に依存したかのような采配は岡田自身の性格からも来ていると思われるが、野村克也からは、2006年のシーズン前に「落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と分析されている。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田の采配が野村のセオリーからははずれていることを指摘した上で、メジャーリーグの流儀に近いのかもしれないと記している。ただし、その適否については今後の結果を見て判断するしかないとも書いている。目先のベンチワークに頼った勝利よりも、長期的視野にたったチーム作りを重視する傾向にある。

大リーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスをベースにしたチーム作りを理想とするが、日本野球には即さない部分も多く、監督就任当初からしばらくは、そのギャップに苦しんでいた節がある。当初は安易な犠打を否定していたが、次第に犠打を重視した采配に変化していくなど、監督経験を積むにしたがっていくつかの軌道修正が見られる。2005年の日本シリーズで阪神と対した千葉ロッテマリーンズボビー・バレンタイン監督は、シリーズ終了後その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。

選手のコンディションや相性で打順をいじったり、ローテーションを崩すことは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。事実2004年に金本を四番に据えてから好不調にかかわらず4年間一度も動かしていない。また投手分業の革命ともいわれたJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果だといえる。反面、選手の著しい不調や怪我での離脱など、不測の事態に対してあまりに無策であるとの批判も多く、優勝を逃したシーズンの原因とされることもある。ただし配置した選手が期待通りに動いた時の爆発力は凄まじく、2006年、2007年も結果的には優勝を逃したものの、ときおり見せる神がかり的な快進撃で、最後まで優勝を争った。良くも悪くも目先の結果にとらわれない頑固なスタイルではあるが、岡田に対する選手の信頼としては高いものがあるようである。

投手・打者の左右の相性にこだわる、いわゆるプラトーン・システムを積極的に活用する監督である。岡田の投手起用は、余程差が付かない限りは「投手への相性の良い打者、そのとき調子のいい打者」よりも「実力・年齢の伯仲している打者ならば左右にあわせ起用」とする場合がほとんどである。

ピンチに陥った投手などに対して、監督自らがマウンドに行くことが他球団ではしばしば見られるが、2005年以降に、岡田自らマウンドに出向いたのは、2005年9月7日の中日戦、2006年6月1日東北楽天ゴールデンイーグルス戦の久保田智之に対してと、2006年8月31日の中日戦、2008年7月18日の中日戦の藤川球児に対しての4度だけである。いずれの試合もこれらの投手が踏ん張り勝利している。

自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍監督を長年やっていたためか、二軍の若手選手への思いが人一倍強い。試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されている。

選手起用において、個人記録を重視する傾向が強く、金本知憲の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新には全面的に協力する姿勢を貫いている。また、日本新記録となった久保田智之のシーズン90試合登板という常識では考えられない数字も、岡田の記録重視の傾向を示すものと言える。

日本シリーズクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。この点は前任者の星野仙一と同様である。

背番号

エピソード

  • 小学校時代から家で甲子園の年間指定席を取っていたが、その場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・巨人の三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見られ、そこからヤジを飛ばすためにその席を取ったという。
  • 学生時代より人柄の良さは有名で、人望が厚く先輩後輩問わず慕われてきたその人心掌握術によって早くから幹部候補生として期待されていた。主将になってからは自分でスタメンを決めていた。
  • 大学時代は、野球部で汗を流す傍ら、「熱狂的阪神タイガースファンクラブ(早大猛虎)」という学生の応援サークルに所属しており、一般学生と一緒にコンパやソフトボールを楽しむこともあった。
  • 強運なことで知られ、抽選やクジなどで外れた記憶がない(本人談)。1979年のドラフト時に6球団争奪の末、阪神に引き当てられた逸話は岡田の強運を象徴している。逆指名・自由獲得枠のない当時、指名前に希望球団を言うことはできなかったが、記者の取材に「(希望は)どことは言えないがセ・リーグの在阪球団である」と答えた(セ・リーグの在阪球団は阪神のみである)。1989年の逆転満塁弾(先述)の時も、イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたとのこと。ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。
  • 阪神入団当初、シーズンオフに大阪市内の実家近くで近所の小中学生とソフトボールをしていたとき、一人だけずば抜けた野球センスを持つ中学生がいた。それが後に横浜ベイスターズで阪神キラーとなる三浦大輔投手であり、高校生の時、阪神がドラフトで指名しなかったことに激怒していた。
  • バックスクリーン3連発のとき、バース、掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは想像を絶するものであったらしく「ヒットでいいという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対スライダーしかないな!」と振り返っている。
  • 雄弁ではないものの思ったことを短い言葉で表現することが多く、人物に対する評価がしばしば辛口である。
  • 東京ドームこけら落しの試合で、一塁ベース手前で転倒して顔面をベースに強打、東京ドーム負傷者第1号となった。
  • 1992年4月、岡田の代打に亀山が送られた夜、大ショックで遠征先のホテルの部屋でかなり自暴自棄になっていたらしい。
  • 岡田の座右の銘は、道一筋で、色紙にサインする時にこの言葉を添えることが多い。これは岡田の父親と親交のあった村山実が送った道一筋と書かれた掛け軸が、実家に飾られていて、この影響を受けたとされる。この言葉の意味は、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めと言う意味で、岡田の監督像と重なる部分があると言える。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった[2]
  • 藤本敦士が学生時代に故障し野球を断念しかけた際に、藤本の実家の焼き鳥屋の常連だったという縁で甲賀総合科学専門学校を紹介した。その後藤本が阪神に入団した時、岡田は二軍監督であった。
  • 現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。球団再編問題時にはパ・リーグファンから批判を受けた。
  • 口癖は「そらそうよ」。またインタビューを受けた際の「あのー」という発言の多さは有名。関西弁に独自の方言を混ぜた岡田の口調は、愛称のどんでんから、どん語と呼ばれファンにも親しまれており、岡田が標準語でしゃべったコメントでも新聞各社はこのどん語に翻訳するほどである。その口癖をモチーフに、「そらそーよ」と言う焼酎まで作られた。
  • 勝利監督インタビューは両手を腰に当て、首を左右にかしげながら答える。
  • ベンチでも頻繁に首をかしげながら試合を見守る姿がテレビで放送されている。
  • 阪神がチャンスをものにした時や、ゲームに勝利した瞬間、ベンチで子供のような笑顔で大はしゃぎする岡田の姿が、たびたびテレビに映し出される。この監督業を忘れたかのような無邪気な姿に「単なる阪神ファンのおっさんが最高の場所からゲームを観戦している」「岡田は阪神のクリンナップを経て、監督にまで上り詰めた世界一(セ界一とも)の阪神ファン」などと言われることもある。これでも監督就任一年目は、不可解な判定にも文句ひとつ言わない割り切ったポリシー等が災いして、どっしりとベンチで構える姿が陰気であるとか、何も考えてないなどと各方面からの中傷を受けた。
  • 岡田がルーキーの頃に、プロレスラーアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。
  • 2007年の日本シリーズ第5戦での山井投手の完全試合目前での交代劇に対して、「そんなん代えるやろ当然、うちでいうたら藤川球児になるけどな。一応、あれで終わりという試合やから」と述べて、落合の采配を支持している[3]
  • 小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、その実力が評価され、2008年1月24日日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された[4]。免状の末尾の署名者は、連盟会長(米長邦雄永世棋聖)、名人森内俊之)、竜王渡辺明)に加え、関西のドンと呼ばれる内藤國雄九段の計4名、そして、免状の手渡し役は神戸在住の永世名人資格者・谷川浩司という、豪華なメンバーであった。
  • 大の演歌好きとしても知られる。子供の頃から、近所のスナックでよく演歌を歌っていたというエピソードがある。また、岡田自身の思い出に残る曲も前川清の「そして神戸」である。本人曰く「(学生時代に)学校の先生の影響を受けて、好きになった」とのこと。
  • 1985年2003年2005年の3度で、選手・コーチ・2軍監督・1軍監督のすべてのポジションで優勝を経験している。
  • 2008年10月20日、クライマックスシリーズで、中日ドラゴンズに負けた日、めったに涙を見せない岡田彰布であるが、阪神ファンの最後までの声援もあってか、大泣きをした。その翌日の、記者会見で、「昨日の涙は、悔し涙である。」と発言した。

年度別打撃成績

年度 球団






















1980 阪神 108 376 44 109 19 0 18 182 54 4 2 1 0 23 3 45 6 .290 13
1981 130 485 70 140 23 3 20 229 76 1 0 2 4 28 5 43 13 .289 16
1982 129 466 57 140 22 1 14 206 69 10 5 2 5 44 4 30 13 .300 8
1983 79 246 44 71 9 0 18 134 44 7 3 1 5 36 1 23 3 .289 7
1984 115 323 38 96 14 2 15 159 51 3 1 0 7 33 3 41 13 .297 1
1985 127 459 80 157 24 3 35 292 101 7 3 0 6 64 3 41 11 .342 11
1986 129 474 67 127 21 0 26 226 70 11 3 0 4 70 3 57 14 .268 9
1987 130 474 54 121 24 3 14 193 58 5 2 0 2 40 2 75 12 .255 12
1988 127 454 65 121 22 1 23 214 72 10 5 0 5 63 2 75 16 .267 4
1989 130 492 66 138 20 1 24 232 76 8 3 0 7 57 1 81 15 .280 14
1990 130 486 75 129 27 0 20 216 75 7 2 0 4 74 7 87 12 .265 9
1991 108 383 45 92 11 0 15 148 50 1 3 0 3 40 2 68 9 .240 14
1992 70 185 9 35 11 0 2 52 19 1 0 0 3 22 2 48 3 .189 1
1993 42 53 2 9 1 0 1 13 7 0 0 0 0 9 0 24 0 .170 1
1994 オリックス 53 101 10 28 3 0 2 37 12 1 1 0 1 14 1 20 3 .277 3
1995 32 39 3 7 0 0 0 7 2 0 0 0 0 7 0 9 1 .179 0
通算成績 1639 5496 729 1520 251 14 247 2540 836 76 33 6 56 624 39 767 144 .277 123

タイトル・表彰

記録

  • 初出場 1980年4月11日大洋戦(甲子園)
  • 初安打 1980年4月22日大洋戦(横浜) 8回竹内から
  • 初本塁打 1980年5月1日巨人戦(甲子園) 2回新浦から

監督としてのチーム成績

リーグ公式戦

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
打率
チーム
本塁打
チーム
防御率
チーム
得点
チーム
失点
年齢
2004 阪神 4位 138 66 70 2 .485 13.5 .273 142 4.08 637 610 46
2005 1位 146 87 54 5 .617 - .274 140 3.24 731 533 47
2006 2位 146 84 58 4 .592 3.5 .267 133 3.13 597 508 48
2007 3位 144 74 66 4 .529 4.5 .255 111 3.56 518 561 49
2008 2位 144 82 59 3 .582 2.0 .268 83 3.29 578 521 50

ポストシーズン

年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2005 阪神 日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 0勝4敗
2007 セ・リーグクライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 0勝2敗
2008 セ・リーグクライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 1勝2敗

  • 逢えば涙になるけれど(1982年発売)
阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(元ラブ・ウィンクスの平田和子)とデュエット
原辰徳高橋慶彦宇野勝遠藤一彦荒木大輔とともにコーラス参加。

CM

脚注

  1. ^ 「過去いないセ日本人監督シーズン二度」 日刊スポーツ
  2. ^ デイリースポーツ2005年11月18日
  3. ^ 2007年11月3日付日刊スポーツ阪神岡田監督「オレ流継投」を擁護」より[1]
  4. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号20-23ページ「5年目岡田野球の変貌」

関連項目

外部リンク

先代
藤沢公也
セ・リーグ新人王
1980
次代
原辰徳
先代
原辰徳1989年 - 1992年)
日本プロ野球選手会会長
1992年 - 1995年
次代
正田耕三(1995年 - 1998年
先代
星野仙一2002年 - 2003年
阪神タイガース監督
2004年 - 2008年
次代
真弓明信(2009年 - )
※カッコ内は在任期間。