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コンパス作戦

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コンパス作戦

捕虜となったイタリア軍兵士
戦争北アフリカ戦線
年月日:1940年12月8日~1941年2月9日
場所リビアエジプト
結果:イギリス軍の勝利
交戦勢力
イギリス イタリア
指導者・指揮官
イギリスの旗リチャード・コーナー イタリア王国の旗ロドルフォ・グラッツィアーニ
北アフリカ戦線

コンパス作戦とは、1940年12月8日から1941年2月9日まで行われたイギリス軍による北アフリカ方面への反抗作戦。

経緯

東アフリカ戦線への助勢と、英本土攻撃を控えたドイツからの英軍への攻撃要請という二つの事情を抱えたムッソリーニリビアに駐屯する23万人の兵員から戦力を捻出し、エジプトへ攻撃を仕掛ける事を画策していた。伊軍上層部は(第二次世界大戦における伊軍部隊の多くがそうであった様に)北アフリカに駐屯する部隊には貧弱な火力しか持たない豆戦車軽戦車しかない事、また戦車以外の装備も旧式化している事、そして何よりも軍の生命線である補給が慢性的に枯渇している事を理由に、慎重な意見を述べていた。また英軍が兵士を12日以上の前線勤務を禁じて定期的に後方での3日間の完全休養を与えていたのに対し、伊軍兵士はその多くが2年以上も連続で前線勤務を続けるなど過酷な状況下に置かれており、士気の面に措いても不利が指摘されていたが、ムッソリーニはこうした軍の反対を押し切って攻撃を命じた。

リビア駐屯軍(第10軍)の総指揮官であるグラッツアーニ元帥は駐屯軍の内、兵員8万名からなるベルディ将軍指揮の伊第XXlll軍団を進軍させる。対する英軍は前線配置の部隊が3万名程度で、パレスチナなど後方に配置した部隊を含めても6万名程度と数では劣っていたが、装備や補給の面では遥かに伊軍より恵まれた環境にあった。英軍のオコンナー将軍は伊軍の補給線を引き伸ばし、更に困窮させる狙いで軍を後退させた為、開戦当初は順調に進軍を続けた。しかし装備と補給面の不足を理解していたグラッツィアーニ元帥は、シディ・バラーニで軍の先頭部隊を停止させ、同地の防御を命じた。ムッソリーニはこれに激怒したが、バドリオ元帥の賛同もあり同命令は受け入れられ、以降3ヶ月間に渡って伊軍は同地に留まる事になる。

グラッツィアーニはこの間に少しでも補給事情を改善する為のインフラ整備や陣地の構築を命じつつ、遠征軍が抱えていた最も致命的な問題である機動戦力の不足(砂漠戦では機械化・機甲化されていない部隊は大きな不利を蒙る)を解決するべくムッソリーニに精鋭部隊の増援を要請していた。ムッソリーニも当初はこの要請に前向きな姿勢を示し、特に戦車戦力に関しては1000輌の増援を約束していた。だがこれらの増援は無計画な戦局拡大を続けるムッソリーニのギリシャ侵攻により反故にされ、徒に時間が経過するだけに終わった。

一方の英軍はオコンナーの要請を受けて各地から増援を派遣、兵員は3万人から6万人にまで増強され、機甲戦力は50輌のマチルダII歩兵戦車を含む275輌に増派された。更にそれまで北アフリカの制空権はイタリア空軍が制していたが、これも航空隊の増援により奪還に成功する。

こうした状況下で英軍はシディ・バラニの奪還を計画、コンパス作戦が発動される運びとなる。

作戦の経過

エジプト占領地の喪失

援軍を待つ間に伊軍はシディ・バラニとその近辺に地雷原と7箇所の陣地からなる防衛線を構築していた。しかし折角の陣地も地形上の理由から各陣地間の距離が離れ過ぎており、一致しての防御が難しい配置になってしまっていた。英軍は其処を見逃さず、シディ・バラニへの攻撃を発動した。

1940年12月9日早朝、英軍は地中海艦隊の艦砲射撃で陣地に打撃を与えた上で攻撃を開始。オコンナー将軍指揮の英軍6万名は機甲部隊を先頭にシディバラニを攻撃、伊軍側の陣地は上手く連帯が出来ない内に各個撃破される。非力な戦車部隊も英軍のマチルダII歩兵戦車の前に粉砕され、敢え無く包囲下に置かれたシディ・バラニでは守備隊の多くを占めるリビア人兵士の組織的投降が始まり、最終的に伊軍部隊3万8000名が捕虜となった。残余部隊4万名はリビア国境まで軍を引いて戦線の建て直しを図る事になった。

リビア侵攻

本来は短期的な攻勢に留める予定であった英軍は更なる進軍を決定、17日にはリビア国境のカプッツォ砦を制圧。伊軍は第21・22軍団の残余と第23軍団を合流させて、バルディアに防御陣地を構え英軍を迎え撃つ格好になった。既に歩兵師団『カタンザロ』、『チレーネ』、黒シャツ師団『1月3日』などが艦砲射撃で戦力半減の状態にありつつも伊軍は頑強な抵抗見せるが、制空権・制海権を抑える英軍は連日の砲爆撃によって確実に伊軍の戦力を削いで行った。後方で総指揮を取るグラッツィアーニはムッソリーニにデルナへの退却を進言するが、ムッソリーニは死守命令を下すのみであった。英軍は年の明けた1月3日に総攻撃を開始、終日に渡って爆撃が続けられる中、1月4日にバルディアの陣地は陥落し伊軍4万名が捕虜となった。伊軍の残余部隊2万名はトブルク要塞に退却し、抵抗を続けるが1月22日にトブルク要塞が陥落する。

リビア西方(キレナイカ)の各部隊と合流しつつ抵抗を続けていた第10軍であったが、予想以上の進軍速度を見せる英軍は2月5日にベンガジを占領し5000名の兵士を拘束。先手を打って先回りした英軍は伊軍第10軍を完全な包囲下に措く事に成功する。命運尽きた伊第XXlll軍団は包囲突破を目指した最後の突撃を慣行、数日間の戦闘の末に壊滅し、指揮官のベルディ将軍も戦死した。グラッツィアーニ元帥は僅かに生き残った8000名の将兵と共にトリポリへ下がり、其処で総指揮官の辞任を表明した。後任にはガリボルディ将軍が着任する事になる。

結果

一連の戦闘で駐留リビア伊軍23万名中、凡そ13万名が失われた。砲845門と戦車350輌もまた喪失し、領土もリビア東方に押し返される結果に終わってしまった。軍事的に窮地に立たされたムッソリーニはヒトラーに救援を要請、これを受けたヒトラーはロンメルに2個師団を預けて編成したドイツアフリカ軍団を北アフリカに派遣する事になる。