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范雎

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范雎(はんしょ 生没年不詳)は中国戦国時代に仕えた政治家は叔。秦の昭襄王に対して遠交近攻策を進言して秦の優勢を決定的なものとした。

前歴

范雎はの人で、諸侯の間を遊説し、魏の大夫・須賈に仕えた。

須賈の共をしてへ使者として赴き、その地で数ヶ月間を過ごした。この時に斉の襄王が范雎の弁舌が優れていることを聞いて十斤とを送ってきたが、范雎はこれを断った。

ところがこれを須賈が邪推し、魏の秘密を斉に漏らした代金としてこれらの品物を送ってきたのだろうと考えた。魏へと帰ってきた須賈は宰相の魏斉へと報告した。魏斉は怒って范雎を竹の板で何度も打った。このことで范雎はあばらを折り、をくじいた。これでは殺されると思った范雎は死んだ振りをしたが、魏斉は范雎を簀巻で巻いてへと放り出し、客は厠へと来るたびに范雎に小便をかけていった。范雎は番人に「後で礼をするから」と約束して助け出してもらい、番人は魏斉に対して死体を捨ててきたと嘘を言った。

范雎は友人の鄭安平の助けを借りて体を治し、魏斉が范雎が本当に死んだかを疑っていると聞いて、張禄と言う偽名を使って逃げた。その頃、秦の昭襄王が使わした謁者(宦官)の王稽と言う者が来ていた。鄭安平は張禄こと范雎をこの者に売り込み、范雎を秦へと逃がした。

秦相として

秦に入った范雎は王稽から昭襄王に推挙されたが、登用されなかった。

当時、秦の宰相は穣侯(魏冄)で昭襄王の母の宣太后の弟であった。穣侯は絶大な権力を誇り、名将白起を使って周囲の国々を何度も討って領土を獲得していた。しかしその領土は穣侯や穣侯と同じく太后の弟の華陽君、あるいは昭襄王の弟の高陵君・涇陽君などが取ってしまい、その財産は王室よりも多かった。

一年余りを昭襄王に迎えられないまますごした范雎は昭襄王に対して手紙を書いて自分の意見を聞いてくれるように訴え、これを受けて昭襄王は范雎を招いた。謁見するにあたり范雎は後宮へと入り込み、怒った宦官が「王のご到着だ」と言って追い払おうとしたが范雎は「どうして秦に王がいようか。いるのは太后と穣侯だけだ。」と言い放った。

その後、昭襄王は范雎を迎え入れて話を聞こうとした。しかし盗み聞きするものがいたので范雎はまず外事について説いた。曰く「穣侯はいまや魏と結んで斉を討とうとしているがこれは間違いである(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することが出来ないから)。それよりも遠くと交わり、近くを攻めるべきである。そうすれば奪った領土は全て王のものとなるでしょう。」と。これが遠交近攻策である。

この進言を受け入れた昭襄王は魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧迫をかけた。その成果に満足した昭襄王は范雎を信任することが非常に厚くなった。そこで范雎は昭襄王に対して穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説いた。これに答えて昭襄王は太后を廃し、穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君を函谷関の外へ追放した。

睚眦の恨み

権力を確保した范雎は秦から偽名である張禄を号として貰い、応に領地を貰い応侯と名乗った。

この頃、魏では秦が韓・魏を討とうとしているとの情報を掴み、須賈を使いに出した。須賈が秦に来ていると知った范雎はみすぼらしい格好をして須賈の前に現れた。須賈は范雎が生きていたことに驚き、范雎にどうしているのかと聞いた。范雎は「人に雇われて労役をしている」と答えた。范雎のみすぼらしさを哀れんだ須賈はの肌着を范雎に与え、「秦で宰相になっている張禄という人に会いたい」と告げた。范雎は主人が伝を持っているので会わせることが出来ると言い、自ら御者をして張禄の屋敷(すなわち自分の屋敷)へと入った。先に入った范雎がいつまでも出てこないので須賈は范雎はどうしたかと聞くと、「あれが宰相の張さまである」との返事が返ってきた。

驚いた須賈は大慌てで范雎の前で過去の事を謝った。范雎は須賈にされたことを鳴らして須賈を非難したが、須賈が絹の肌着を与えて同情を示したことで命は助け、「魏王に魏斉の首を持って来いと伝えろ。でなければ大梁(魏の首都。現在の開封)を皆殺しにするぞ。」と言った。

帰国した須賈は魏斉にこのことを告げ、驚いた魏斉は平原君の元へ逃げた。

その後、范雎を推挙してくれた王稽が范雎に「自分に対して報いが無いのでは」と暗に告げた。范雎は内心不快であったが、昭襄王に言って王稽を河東(黄河の東)の長に任命した。更に鄭安平を推挙して秦の将軍にし、財産を投げ打って自分を助けてくれた人に礼をして回った。この時の范雎は一杯の飯の恩義にも睨み付けられただけの恨み(睚眦の恨み)にも必ず報いたと言う。

昭襄王は范雎の恨んでいる魏斉が平原君の元にいると知り、何とかこの恨みを晴らしてやりたいと思っていた。そこで平原君を秦に招き、「魏斉を殺してくれなければ秦から出さない」と脅したが、平原君はこれを断った。今度は昭襄王は趙の孝成王を脅した。恐れた孝成王は兵を出して平原君の屋敷を取り囲み、魏斉は趙の宰相の虞卿と共に逃げ出して、魏の信陵君に助けを求めた。信陵君は初めは秦を恐れて魏斉を受け入れることを躊躇ったが食客の言葉で思い返し、国境まで迎えに出た。しかし魏斉は信陵君が躊躇したことで怒り、自ら首をはねていた。この首を孝成王は秦へ送り、平原君は解放された。

致仕

時間が遡るが、范雎は白起があまりに功績を挙げるので、恐れて白起が趙の首都・邯鄲を攻めようとするのを止めさせた。その後、昭襄王に讒言して白起を誅殺させた。(白起の項も参照)

その後任として鄭安平を推挙したが、その鄭安平は二万の兵と共に趙へ降ってしまった。更に王稽は他国と通じた罪で誅殺された。これらのことで范雎は憂いたが、昭襄王の信頼は変わらず、また推挙者が罪を犯したことによる連座も不問にされた。

この時に、遊説家の蔡沢が范雎に商鞅呉起文種などのことを例に挙げ、「貴方様がこれらの人とどれほど違いましょうか」と、自らの手腕で国を隆盛させた時の王が健在中は贔屓にされるが、王の代が変れば贔屓により鬱積していた不満が出てきたりなどで悲劇的な末路を描くだろうと長く権力の座にあることの危うさを説き、范蠡に倣って致仕(引退)することを勧めた。范雎はこの言を入れて致仕し、後任の宰相に蔡沢が就いた。 天下に覇を唱えんとする国の臣下最高位から潔く引いたが、范雎は商鞅達のような末路を辿らずに済んだ。 そして秦はその後も、范雎が築いた方針を礎に覇業を順調に進めたのである。

関連項目

范雎を題材にした小説