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ロバート・デ・ニーロ

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ロバート・デ・ニーロ
Robert De Niro
ロバート・デ・ニーロ Robert De Niro
1998年
本名 Robert Mario De Niro, Jr.
生年月日 (1943-08-17) 1943年8月17日(80歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク市
民族 イタリア系アメリカ人
活動期間 1969年-
活動内容 1974年:初のオスカー
1980年:2度目のオスカー
1988年:製作会社設立
1993年:映画初監督
配偶者 ダイアン・アボット
1976年-1988年
グレイス・ハイタワー
1997年-)
主な作品
ゴッドファーザーPARTII
タクシードライバー
ディア・ハンター
レイジング・ブル
ヒート
ミート・ザ・ペアレンツ
 
受賞
アカデミー賞
主演男優賞
1980年『レイジング・ブル
助演男優賞
1974年『ゴッドファーザーPARTII
ゴールデングローブ賞
主演男優賞(ドラマ部門)
1980年『レイジング・ブル』
その他の賞
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ロバート・デ・ニーロRobert De Niro, Jr.1943年8月17日 - )は、アメリカ合衆国出身のイタリア俳優。2度のアカデミー賞受賞を誇り、過剰なまでの役作り(詳細は後述)は多くの役者に強烈な影響を与える現代映画界最高の役者の一人である。

プロフィール

ニューヨーク出身。父親のロバート・デ・ニーロ=シニアは画家。2歳の頃に両親が離婚し、母親の元で育てられた。少年時代から演技に憧れ、名門アクターズ・スタジオに入門した。一時期ヨーロッパに出向き、各国を渡り歩きながら演技の修行をしていたこともあった。

まだ役者として無名だった頃は、同じく無名フィルムメーカーであったブライアン・デ・パルマ監督とコンビを組んでいた。その後、『ゴッドファーザー』のソニー役のオーディションを受けるも、落選。その演技力をフランシス・フォード・コッポラに買われて、続く『PART II』では若きドン・ヴィト・コルレオーネを演じ、人気を得る。その際デ・ニーロは、わざわざシチリアまで赴いてイタリア語を完璧にマスターした後、マーロン・ブランドのしゃがれ声を真似るために必死の練習をしたという。

出世作である『ゴッドファーザーPART II』をはじめ、『タクシードライバー』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『アンタッチャブル』、『グッドフェローズ』、『カジノ』など犯罪映画の顔的存在であるが、本来はアクターズ・スタジオ出身の演技派であり1980年代半ばから出演するようになったコメディ映画などでも成功を収め、幅広い演技力を見せている。『レイジング・ブル』でアカデミー主演男優賞、『ゴッドファーザーPART II』でアカデミー助演男優賞を受賞。

1988年には、ジェーン・ローゼンタールと共同で、プロダクション「トライベッカ (トライベッカフィルムセンター)」を設立。初監督となった1993年の『ブロンクス物語/愛につつまれた街』など、監督や製作としても活躍している。

『レイジング・ブル』では体を鍛え上げボクサー役を演じた後、老いた主人公を演じるために体重を20キロ増やしたり、『アンタッチャブル』では頭髪を抜くなど、徹底した役作りは有名でこのような取り組みを示すデニーロ・アプローチという造語もある。

その演技はまさに変幻自在。どのような役であろうと事前の徹底したリサーチの基に、完璧な演技を観客に見せつける。『レナードの朝』での患者役は、実際の関係者が驚くほど役にはまり込んでいた。また、その演技力ゆえか、脇役で映画に登場した際は、その怪演で主役を完全に喰ってしまうことが多々ある(『バックドラフト』、『アンタッチャブル』など)。また、近年は『ミート・ザ・ペアレンツ』や『アナライズ・ユー』などのコメディにも多数出演をして好評を得ている。

2005年イタリアシルヴィオ・ベルルスコーニ首相が彼を「著名なイタリア系移民」として表彰しようとしたが、一部市民団体から『ゴッドファーザー』などで「イタリア=マフィア」のマイナスイメージを植え付けた人物として批判され、表彰は沙汰止みとなった。

出演作品

プロデュース作品

逸話

役作り

ロバート・デ・ニーロ(1988年)

上述の通り、デ・ニーロは役に成りきるための努力を惜しまない。その例を挙げる。

  • 『ゴッドファーザーPART II』では、シチリア島に住んで、イタリア語をマスターした後に、マーロン・ブランドのしゃがれ声を完璧に模写した。
  • 『タクシードライバー』では3週間、ニューヨークタクシードライバーとして働いた。
  • 『ディア・ハンター』では、物語の舞台となったピッツバーグに撮影数ヶ月前から偽名で暮らしていた。さらに鉄工所で働こうとしたが、現地の人に拒否されたという。
  • 『レイジング・ブル』では体重を20キロも増やして役に臨んだが、このためにイタリアに赴いて、現地のあらゆるレストランを食べ回った。
  • 主人公がユダヤ人の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では、ユダヤ人家庭にホームステイした。
  • 『アンタッチャブル』では実際に頭髪を抜いて、アル・カポネを怪演した。体重は直後に別の映画出演が決まっていたので太るわけにいかず、ボディスーツを着用した。だが、顔だけは太らせて撮影に挑んだ。
  • 『ミッドナイト・ラン』では、マーティン・ブレストと共に実際の賞金稼ぎと行動し、捕獲の瞬間、張り込み、捜査の方法などを経験した。

その他

  • 映画以外では表立った活動を避け、マナーを欠いたマスコミの対応は嫌悪する。無許可で撮影した場合などは不快感をあらわにしている。
  • 『ディア・ハンター』で、制作のユニバーサル・ピクチャーズジョン・カザールを降板させようとした時、この映画のヒロインで、カザールの婚約者だったメリル・ストリープや監督のマイケル・チミノとともに「ジョンを降ろすなら、自分も降りる」といってカザールの続投を認めさせた。ユニバーサルは(骨腫瘍)宣告を受けていたカザールの健康に配慮して降板を企図したのだが、デ・ニーロらはカザールの意志を尊重したのだった。

トライベッカ

生まれ育ったマンハッタントライベッカ地域には特に愛着を持ち、共同で設立したプロダクションにもその名を使い、アメリカ同時多発テロで被害を受けた復興のためにトライベッカ映画祭を主催するほか、トライベッカ・グリルやNOBU松久信幸との共同)などのレストランを経営する。

テレビCM雑誌などの広告にはほとんど出演していないが、2006年には、トライベッカの近くに本社を構え、トライベッカ映画祭に協賛しているアメリカンエキスプレスの広告に出演した。

プライベート

プライベートでは1976年にダイアン・アボットと結婚、一児をもうけるも1988年離婚。1997年にグレイス・ハイタワーと再婚。

その他

関連項目

外部リンク